第2章 永遠の仏

第1節 いつくしみと願い(121)

1.
の心とは大慈悲である。あらゆる手だてによって、すべての人びとを救う大慈の心、人とともに病み、人とともに悩む大悲の心である。
 ちょうど子を思う母のように、しばらくの間も捨て去ることなく、守り、育て、救い取るのが仏の心である。「おまえの悩みはわたしの悩み、おまえの楽しみはわたしの楽しみ。」 と、かたときも捨てることがない。

 仏の大悲は人によって起こり、この大悲に触れて信ずる心が生まれ、信ずる心によってさとりが得られる。それは、子を愛することによって母であることを自覚し、母の心に触れて子の心が安らかとなるようなものである。
 ところが、人びとはこの仏の心を知らず、その無知からとらわれを起こして苦しみ、煩悩
[ぼんのう]のままにふるまって悩む。罪業[ざいごう]の重荷を負って、あえぎつつ、迷いの山から山を駆けめぐる。


2.仏の慈悲をただこの世一生だけのことと思ってはならない。それは久しい間のことである。人びとが生まれ変わり、死に変わりして迷いを重ねてきたその初めから今日まで続いている。
 仏は常に人びとの前に、その人びとにもっとも親しみのある姿を示し、救いの手段を尽くす。
 釈迦族の太子と生まれ、出家し、苦行をし、道をさとり、教えを説き、死を示した。

 人びとの迷いに限りがないから、仏のはたらきにも限りがなく、人びとの罪の深さに底がないから仏の慈悲にも底がない。
 だから、仏はその修行の初めに四つの大誓願を起こした。 一つには誓ってすべての人びとを救おう。二つには誓ってすべての煩悩を断とう。三つには誓ってすべての教えを学ぼう。 四つには誓ってこの上ないさとりを得よう。この四つの誓願をもととして仏は修行した。仏の修行のもとがこの誓願であることは、そのまま仏の心が人びとを救う大慈悲であることを示している。


3.仏は、仏に成[な]ろうとして殺生[せっしょう]の罪を離れることを修め、 そしてその功徳[くどく]によって人びとの長寿を願った。
 仏は盗みの罪を離れることを修め、その功徳によって人びとが求めるものを得られるようにと願った。
 仏はみだらな行いを離れることを修め、その功徳によって人びとの心に害心がなく、また身に飢えや渇きがないようにと願った。

 仏は、仏に成[な]ろうとして、偽りの言葉を離れる行を修め、 その功徳によって人びとが真実を語る心の静けさを知るようにと願った。
 二枚舌を離れる行を修めては、人びとが常に仲良くして互いに道を語るようにと願った。 また悪口を離れる行を修めては、人びとの心が安[やす]らいでうろたえ騒ぐことがないようにと願った。
 むだ口を離れる行を修めては、人びとに思いやりの心をつちかうようにと願った。

 また仏は、仏に成[な]ろうとして、貪[むさぼ]りを離れる行を修め、その功徳によって人びとの心に貪りがないようにと願った。
 憎しみを離れる行を修めて、人びとの心に慈しみの思いがあふれるようにと願った。
 愚かさを離れる行を修めて、人びとの心に因果[いんが]の道理を無視する誤った考えがないようにと願った。

  このように、仏の慈悲はすべての人びとに向かうものであり、その本領はすべての人びとの幸福のため以外の何ものでもない。仏はあたかも父母のように人びとをあわれみ、人ぴとに迷いの海を渡らせようと願ったのである。



当ページの典拠
    1.観無量寿経・維摩経 // 超訳【維摩経-Wiki 「英訳」 (松岡正剛)
    1.首楞厳経
    1.維摩経・大般涅槃経
    2.法華経第16、寿量品
    2.心地観経 四弘誓願(しぐせいがん)-Wiki
    3.大般涅槃経
(Link集)


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