第2節 最後の教え(112)

1.釈尊はクシナガラの郊外、シャーラ(沙羅)樹の林の中で最後の教えを説かれた。弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火[ともしび」]とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。このを灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。

 わが身を見ては、その汚れを思って貪
[むさぼ]らず、苦しみも楽しみもともに苦しみの因[もと]であると思ってふけらず、わが心を観[み]ては、その中に「我[が]」はないと思い、それらに迷ってはならない。そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。わたしがこの世を去った後も、このように教えを守るならば、これこそわたしのまことの弟子である。


2.弟子たちよ、これまで、おまえたちのために説いたわたしの教えは、常に聞き、常に考え、常に修めて捨ててはならない。もし教えのとおりに行うなら常に幸いに満たされるであろう。
 教えのかなめは心を修めることにある。だから、欲をおさえておのれに克
[か]つことに努めなければならない。身を正し、心を正し、ことばをまことあるものにしなければならない。貪ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。

 もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。心に従わず、心の主
[あるじ]となれ。
 心は人をlこし、また、畜生にする。迷って鬼となり、さとって仏と成るのもみな、この心のしわざである。だから、よく心を正しくし、道に外
[はず]れないよう努めるがよい。


3.弟子たちよ、おまえたちはこの教えのもとに、相和
[あいわ]し、相敬[あいうやま]い、争いを起こしてはならない。水と乳とのように和合せよ。水と油のようにはじきあってはならない。
 ともにわたしの教えを守り、ともに学び、ともに修め、励ましあって、道の楽しみをともにせよ。つまらないことに心をつかい、むだなことに時をついやさず、さとりの花を摘み、道の果実
[このみ]を取るがよい。

 弟子たちよ、わたしは自らこの教えをさとり、おまえたちのためにこの教えを説いた。おまえたちはよくこれを守って、ことごとにこの教えに従って行わなければならない。
 だから、この教えのとおりに行わない者は、わたしに会っていながらわたしに会わず、わたしと一緒にいながらわたしから遠く離れている。また、この教えのとおりに行う者は、たとえわたしから遠く離れていてもわたしと一緒にいる。


4.弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。別離も遠いことではない。しかし、いたずらに悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なない者はない。今わたしの身が朽
[く]ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。
 いたずらに悲しむことをやめて、この無常の道理に気がつき、人の世の真実のすがたに眼を覚まさなければならない。 変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである。

 煩悩[ぼんのう]の賊は常におまえたちのすきをうかがって倒そうとしている。もしおまえたちの部屋に毒蛇
[じゃ]が住んでいるのなら、その毒蛇を追い出さない限り、落ちついてその部屋で眠ることはできないであろう。
 煩悩の賊は追わなければならない。煩悩の蛇は出さなければならない。おまえたちは慎んでその心を守るがよい。


5.弟子たちよ、今はわたしの最期の時である。しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、こわれることはやむを得ない。
 仏の本質は肉体ではない。さとりである。肉体はここに滅びても、さとりは永遠に法と道とに生きている。だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそわたしを見る。
 わたしの亡き後は、わたしの説き遺
[のこ]した法がおまえたちの師である。この法を保ち続けてわたしに仕えるようにするがよい。

 弟子たちよ、わたしはこの人生の後半四十五年間において、説くべきものはすべて説き終わり、なすべきことはすべてなし終わった。わたしにはもはや秘密はない。内もなく、外もな く、すべてみな完全に説きあかし終わった。
 弟子たちよ、今やわたしの最期である。わたしは今より涅槃[ねはん]に入るであろう。これがわたしの最後の教誡
[かい]である。


当ページの典拠
    1.長阿含経第2、遊行経 自灯明・法灯明@Page
    2.3.般泥
    4.遺教経 「八大人覚」
    4.5.長阿含経第2、遊行経等


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