第2節 仏の国(432)

1.
前に説いてきたように、教団が和合を主として、その教えの宣布という使命を忘れないときには、教団は次第にその円周を大きくして、教えが広まってゆく。
 ここに教えが広まるというのは、心を養い修める人が多くなってゆくことであり、いままでこの世の中を支配した無明[むみょう]と愛欲の魔王が率いる貪[むさぼ]りと瞋[いか]りと愚かさとの魔軍が退いて、ここに智慧[ちえ]と光明と信仰と歓喜とが、その支配権を握ることになる。

 悪魔の領土は欲であり、闇[やみ]であり、争いであり、剣であり、血であり、戦いである。そねみ、ねたみ、憎しみ、欺き、へつらい、おもねり、隠し、そしることである。
 いまそこに、智慧が輝き、慈悲が潤い、信仰の根が張り、歓喜の花が開き、悪魔の領土は、一瞬にしての国となる。
 さわやかなそよ風や、一輪の花が春の来たことを告げるように、ひとりがさとりを開けば、草木国土、山河大地、ことごとくみな仏の国となる。
 なぜならば、心が清ければ、そのいるところもまた清いからである。


2.教えのしかれている世界では、人びとの心が素直になる。これはまことに、あくことのない大悲によって、常に人びとを照らし守るところの仏の心に触れて、汚れた心も清められるからである。
 この素直な心は、同時に深い心、道にかなう心、施す心、戒を守る心、忍ぶ心、励む心、静かな心、智慧の心、慈悲の心となり、また方便をめぐらして、人びとに道を得させる心ともなるから、ここに仏の国が、立派にうち建てられる。

 妻子とともにある家庭も、立派に仏の宿る家庭となり、社会的差別の免れない国家でも、仏の治める心の王国となる。
 まことに、欲にまみれた人によって建てられた御殿が仏の住所ではない。月の光が漏れこむような粗末な小屋も、素直な心の人を主[あるじ]とすれば、仏の宿る場所となる。
 ひとりの心の上にうち建てられた仏の国は、同信の人を呼んでその数を加えてゆく。家庭に村に町に都市に国に、最後には世界に、次第に広がってゆく。
 まことに、教えを広めてゆくことは、この仏の国を広げてゆくことにほかならない。


3.まことにこの世界は、一方から見れば、悪魔の領土であり、欲の世界であり、血の戦いの場ではあるが、この世界において、仏のさとりを信じる者は、この世を汚す血を乳とし、欲を慈に代え、この世を悪魔の手から奪い取って、仏の国となそうとする。
 一つの柄杓[ひしゃく]を取って、大海の水を改み尽くそうとすることは、容易ではない。しかし、生まれ変わり死に変わり、必ずこの仕事を成しとげようとするのが、仏を信ずるものの心の願いである。

 仏は彼岸に立って待っている。彼岸はさとりの世界であって、永久に、貪[むさぼ]りと瞋[いか]りと愚かさと苦しみと悩みとのない園である。そこには智慧の光だけが輝き、慈悲の雨だけが、しとしとと潤している。
 この世にあって、悩む者、苦しむ者、悲しむ者、または、教えの宣布に疲れた者が、ことごとく入って憩[いこ]い休らうところの国である。
 この国は、光の尽きることのない、命の終わることのない、ふたたび迷いに帰ることのない仏の国である。
 まことにこの国は、さとりの楽しみが満ちみち、花の光は智慧[ちえ]をたたえ、鳥のさえずりも教えを説く国である。まことにすべての人びとが最後に帰ってゆくべきところである。


4.しかし、この国は休息のところではあるが、安逸[あんいつ]のところではない。その花の台は、いたずらに安楽に眠る場所ではない。真に働く力を得て、それをたくわえておくところの場所である。
 仏の仕事は、永遠に終わることを知らない。人のある限り、生物の続く限り、また、それぞれの生物の心がそれぞれの世界を作り出している限り、そのやむときはついにない。
 いま仏の力によって彼岸の浄土に入った仏の子らは、再びそれぞれ縁ある世界に帰って、仏の仕事に参加する。
 一つの燈[ともしび]がともると、次々に他の燈に火が移されて、尽きるところがないように、仏の心の燈も、人びとの燈に次から次へと火を点じて、永遠にその終わるところを知らないであろう。
 仏の子らも、またこの仏の仕事を受け持って、人びとの心を成就し、仏の国を美しく飾るため、永遠に働いてやまないのである。

当ページの典拠
  1.パーリ、相応部
  1.中陰経
  2.維摩経
  3.大般涅槃経
  3.阿弥陀経
  4.無量寿経
  4.維摩経