第3章 仏国土の建設 第1節 むつみあうなかま(431) 1.広い暗黒の野原がある。何の光もささない。そこには無数の生物がうようよしている。 しかも暗黒のために互いに知ることがなく、めいめいひとりぼっちで、さびしさにおののきながらうごめいている。いかにも哀れな有様である。 そこへ急に光がさしてきた。すぐれた人が不意に現われ、手に大きなたいまつをふりかざしている。真暗闇[やみ]の野原が一度に明るい野原となった。 すると、今まで闇を探[さぐ]ってうごめいていた生物が立ち上がってあたりを見渡し、まわりに自分と同じものが沢山いることに気がつき、驚いて喜びの声をあげながら、互いに走り寄って抱きあい、にぎやかに語りあい喜びあった。 いまこの野原というのは人生、暗黒というのは正しい智慧[ちえ]の光のないことである。心に智慧の光のないものは、互いに会っても知りあい和合することを知らないために、独り生まれ独り死ぬ。ひとりぼっちである。ただ意味もなく動き回り、きびしさにおののくことは当然である。 「すぐれた人がたいまつをかかげて現われた。」とは、仏が智慧の光をかざして、人生に向かったことである。 この光に照らされて、人びとは、はじめておのれを知ると同時に他人を見つけ、驚き喜んでここにはじめて和合の国が生まれる。 幾千万の人が住んでいても、互いに知りあうことがなければ、社会ではない。 社会とは、そこにまことの智慧が輝いて、互いに知りあい信じあって、和合する団体のことである。 まことに、和合が社会や団体の生命であり、また真の意味である。 2.しかし、世の中には三とおりの団体がある。 一つは、権力や財力のそなわった指導者がいるために集まった団体、 二つは、ただ都合のために集まって、自分たちに都合よく争わなくてもよい間だけ続いている団体、 三つは、教えを中心として和合を生命とする団体である。 もとよりこの三種の団体のうち、まことの団体は第三の団体であって、この団体は、一つの心を心として生活し、その中からいろいろの功徳を生んでくるから、そこには平和があり、喜びがあり、満足があり、幸福がある。 そして、ちょうど山に降った雨が流れて、谷川となり、次第に大河となって、ついに大海に入るように、いろいろの境遇の人びとも、同じ教えの雨に潤されて、次第に小さな団体から社会へと流れあい、ついには同じ味のさとりの海へと流れこむのである。 すべての心が水と乳とのように和合して、そこに美しい団体が生まれる。 だから正しい教えは、実にこの地上に、美しいまことの団体を作り出す根本の力であって、それは先に言ったように、互いに見いだす光であるとともに、人ぴとの心の凹凸[おうとつ]を平らにして、和合させる力でもある。 このまことの団体は、このように教えを根本の力とするから、教団といい得る。 そしてすべての人は、みなその心をこの教えによって養わなければならないから、教団は道理としては、地上のあらゆる人間を含むが、事実としては、同信の人たちの団体である。 3.この事実としての団体は、教えを説いて在家に施すものと、これに対して衣食を施すものと、両者相まって、教団を維持し拡張し、教えの久しく伝わるように努めなければならない。 それで、教団の人は和合を旨とし、その教団の使命を果たすように心がけなければならない。僧侶[そうりょ]は在家を教え、在家は教えを受け教えを信じるのであり、したがって両者に和合があり得るのである。 互いに和らぎむつみあって争うことなく、同信の人とともに住む幸せを喜び、慈しみ交わり、人びとの心と一つになるように努めなければならない。 4.ここに教団和合の六つの原則がある。第一に、慈悲のことばを語り、第二に、慈悲の行いをなし、第三に、慈悲の意[こころ]を守り、第四に、得たものは互いに分かちあい、第五に、同じ清らかな戒を保ち、第六に、互いに正しい見方を持つ。 このうち、正しい見方が中心となって、他の五つを包むのである。 また次に、教団を栄えさせる二種の七原則がある。 (1)しばしば相集まって教えを語りあい、 (2)互いに相和して敬い、 (3)教えをあがめ尊んで、みだりにこれをあらためず、 (4)長幼相交わるとき礼をもってし、 (5)心を守って正直と敬いを旨とし、 (6)閑[しず]かなところにあって行いを清め、人を先にし、自分を後にして道に従い、 (7)人びとを愛し、来るものを厚くもてなして、病めるものは大事に看護する。 この七つを守れば教団は衰えない。 次に、 (1)清らかな心を守って雑事の多いのを願わず、 (2)欲なきを守って貪[むさぼ]らず、 (3)忍辱[にんにく]を守って争わず、 (4)沈黙を守って言わず、 (5)教えを守っておごらず、 (6)一つの教えを守って他の教えに従わず、 (7)倹約を守って衣食に質素であること。 この七つを守れば教団は衰えない。 5.前にも言ったように、教団は和合を生命とするものであり、和合のない教団は教団ではないから、不和の生じないよう、生じた場合は、速やかにその不和を除き去るように努めなければならない。 血は血によって清められるものではなく、恨みは恨みによって報いられるものではない。ただ恨みを忘れることによってなくすことができる。 6.昔、長災[ちょうさい]王という王があった。隣国の兵を好むブラフマダッタ王に国を奪われ、妃[きさき]と王子とともに隠れているうちに、敵に捕らえられたが、王子だけは幸いにして逃れることができた。 王が刑場の露と消える日、王子は父の命を救う機会をねらったが、ついにその折もなく、無念に泣いて父の哀れな姿を見守っていた。 王は王子を見つけて、「長く見てはならない。短く急いではならない。恨みは恨みなきによってのみ静まるものである。」と、ひとり言のようにつぶやいた。 この後王子は、ただいちずに復讐の道をたどった。機会を得て王家にやとわれ、王に接近してその信任を得るに至った。 ある日、王は猟に出たが、王子は今日こそ目的を果たさなければならないと、ひそかにはかって王を軍勢から引き離し、ただひとり王について山中を駆け回った。王はまったく疲れはてて、信任しているこの青年のひざをまくらに、しばしまどろんだ。 いまこそ時が来たと、王子は刀を抜いて王の首に当てたが、その刹那[せつな]父の臨終のことばが思い出されて、いくたびか刺そうとしたが刺せずにいるうちに、突然王は目を覚まし、いま長災王の王子に首を刺されようとしている恐ろしい夢を見たと言う。 王子は王を押さえて刀を振りあげ、今こそ長年の恨みを晴らす時が来たと言って名のりをあげたが、またすぐ刀を捨てて王の前にひざまずいた。 王は長災王の臨終のことばを聞いて大いに感動し、ここに互いに罪をわびて許しあい、王子にはもとの国を返すことになり、その後長く両国は親睦[ぼく]を続けた。 ここに「長く見てはならない。」というのは、恨みを長く続かせるなということである。「短く急いではならない。」 というのは、友情を破るのに急ぐなということである。 恨みはもとより恨みによって静まるものではなく、恨みを忘れることによってのみ静まる。 和合の教団においては、終始この物語の精神を味わうことが必要である。 ひとり教団ばかりではない。世間の生活においても、このことはまた同様である。 |
当ページの典拠→ 1.大般涅槃経 1.2.パーリ、増支部3-118 3.パーリ、相応部 4.パーリ、律蔵大品10-1-2 4.長阿含経第2・遊行経 七不退法 (the Seven Conditions of Welfare)→ 5.6.パーリ、律蔵大品10-1-2 |