第2節 信者の道(412)

1.
仏教を信ずる者とは、三宝
[さんぽう]、すなわち、と教えと教団を信ずる者のことであるということは、すでに説いた。
 だから、仏教を信ずる者は、仏と教えと教団に対して、破れることのない信を抱き、教えが命じている信者としての戒律を守らなければならない。

 在家者としての戒とは、ものの命を取らず、盗まず、よこしまな愛欲にふけらず、偽りを言わず、酒を飲まないことである。
 在家者はこの三宝に対する信と、在家者としての戒を保つとともに、他人にもこの信と戒を得させるようにしなければならない。親戚
[せき]、友人、知人の間に同信の人をつくるように努めなければならない。そうすることによって彼らもまた仏の慈悲に浴することができる。

 三宝に対する信を持ち、在家としての戒を守ることは、さとりを得るためであるから、在家の愛欲の生活の中にあっても、愛着に縛られないようにしなければならない。
 父母ともついには別れなければならない。家族ともついには離れなければならない。この世もついには去らなければならない。別れなければならないもの、去らなければならないものに心を縛られず、別離というもののない涅槃
[ねはん]に心を寄せなければならない。


2.仏の教えを聞いて、信が厚く、退くことがなければ、喜びは自然にわき起こる。この境地に入れば、何ごとにも光を認め、喜びを見いだしてゆくことができる。
 その心は清く柔らかに、常に耐え忍んで、争いを好まず、人びとを悩まさず、仏と教えと教団を思うから、喜びは自然にわきいで、光はどこにでも見いだされる。

 信ずることによって仏と一体になり、我
[が]という思いを離れているから、わがものを貪[むさぼ]らず、したがって、生活に恐れがなく、そしられることをいとわない。

 仏の国に生まれることを信じているから死を恐れない。教えの真実と尊さを信じているから、人びとの前に出ても、恐れることなく自分の信ずるところを言うことができる。

 また慈悲を心のもととするから、すべての人に対して好ききらいの思いがなく、心が正しく清らかであるから、進んであらゆる善を修める。

 また順調の時も逆境のときも信仰を増し、恥を知り、教えを敬い、言ったとおりに行い、行うとおりに言い、ことばと行いとが一致し、明らかな智慧
[ちえ]をもってものを見、心は山のように動かず、ますますさとりへの道に進むことを願う。

 また、どんなできごとに出会っても、仏の心を心として人ぴとを導き、濁った世の中にも、汚れた人びとの間にも交わって、その人びとが善にうつるように尽くすのである。


3.だから、だれでもまず自ら教えを聞くことを願わなければならない。
 だれかが「この燃え立つ火の中へ入れば教えが得られる。」と言うなら、その火の中に入る覚悟を持たなければならない。
 世界に満ちた火の中に分け入って仏の名を聞くことは、まことにその人の救いだからである。

 このようにして自ら教えを得て、広く施し、敬うべき人を敬い、仕えるべき人に仕え、深い慈悲の心をもって他人に向かわなければならない。利己的であったり、思うままにふるまうのは、道を行う人の行ではない。

 このようにして教えを聞き、教えを信じ、他人をうらやまず、他人のことばに迷うことなく、自分のするしないについて省みることが肝心であり、他人のするしないを心にかけてはならない。何よりも自分の心を修めることが大切なのである。

 仏を信じない人は、自分のことだけを思いわずらうから、心が狭く小さく、いつもこせこせと焦るのである。しかし、仏を信ずる人は、背後の力、背後の大悲を信ずるから、自然に心が広く大きくなり、焦らない。


4.また、教えを聞く人は、もとよりこの身を無常なものと見、苦しみの集まるもとと見、悪の源と見るから、この身に執着しない。
 しかしまた、この身を大切に養うことを怠らない。それは楽しみを貪
[むさぼ]るためではなく、道を得、道を伝えるためである。
 この身を守らなければ命をまっとうすることができず、命をまっとうしなければ、教えを受けて身に行うことも、また教えを広く伝えることもできない。
 河を渡ろうとする者はよく筏
[いかだ]を守り、旅をする人はよく馬を守るように、教えを聞く人はその身を大切に守らなければならない。

 また仏を信ずる者は、着物を着るにも虚飾
[きょしょく]のためにせず、ただ差恥[しゅうち]のためにし、寒さ暑さを防ぐためにしなければならない。
 食物をとるにも楽しみのためにせず、身をささえ養って教えを受け、または説くためにしなければならない。
 家に住むにも同じく、身のためにし、虚栄のためにしてはならない。さとりの家に住み、煩悩
[ぼんのう]の賊を防ぎ、誤った教えの風雨を避けるためと、思わなければならない。

 すべてこのように、何ごとも身のためを思わず、他人に対 してもおごる思いをせず、たださとりのため、教えのため、他人のためと思ってしなければならない。
 だから、家にあって家族と一緒にいても、その心はしばらくも教えを離れない。慈悲の心をもって家族に従っているが、手段を示して彼らに救いの道を教えるのである。


5.またこの仏教教団の在家者には、日常、父母に仕え、家族に仕え、自分に仕え、仏に仕えるいろいろな心がけがある。
 すなわち、父母に仕えるときには、一切を守り養って、永く平和を得ようと思い、妻子と一緒にいるときには、愛着の牢獄
[ろうごく]から脱しなければならないものと思わなければならない。
 音楽を聞いているときには、教えの楽しみを得ようと思い、室にいるときは、賢者の境地に入って永く汚れを離れようと思わなければならない。

 また、たまたま他人に施しをするときは、すべてを捨てて貪
[むさぼ]る心をなくそうと思い、集いの中にあるときには、諸仏の集いに入ろうと思い、災難にあったときには、どんなことにも動揺しない心を得ようと願わなければならない。

 また仏に帰依するときには、人びととともに大道を体得して、道を求める心を起こそうと願い、
 教えに帰依しては、人びととともに深く教えの蔵に入って、海のように大きい智慧
[ちえ]を得ようと願い、
 教団に帰依しては、人びととともに大衆を導いて、すべての障害を除こうと願うがよい。

 また、着物を着るなら、善根
[ぜんこん]と漸愧[ざんぎ]を衣服とすることを忘れず、
 大小便をするときは、心の貪
[むさぼ]りと瞋[いか]りと愚かさの汚れを除こうと願い、
 高みに昇る道を見ては、無上の道へ昇って迷いの世界を超えようと思い、低きに下る道を見ては、優しくへり下って奥深い教えヘ入ろうと願うがよい。

 また、橋を見ては、教えの橋を作って人を渡そうと願い、
 なげき悲しむ人を見ては、うつり変わって常なきものをなげく心を起こし、
 欲を楽しむ人を見ては、幻の生活を離れてまことのさとりを得ようと願い、
 おいしい食物を得ては、節約を知り、欲を少なくして執着を離れようと願い、まずい食物を得ては、永く世間の欲を遠ざけようと願うがよい。

 また夏の暑さの激しいときには、煩悩
[ぼんのう]の熱を離れて涼しいさとりの味わいを得たいと願い、冬の寒さの激しいときには、仏の大悲の温かさを願うがよい。
 経を誦
[よ]むときには、すべての教えを保って忘れないようにと願い、
 仏を思っては、仏のようなすぐれた眼
[まなこ]を得たいと願い、
 夜眠るときには、身
[からだ]と口と意[こころ]のはたらきを休めて心を清めようと願い、朝目覚めては、すべてをさとって、何ごとにも気のつくようになろうと願うがよい。


6.また仏教を信ずる者は、すべてのもののありのままの姿、すなわち、「
[くう]」の教えを知っているから、世の中の仕事、人間の間のいろいろのことを軽視せず、そのまま受け入れ、それをそのままさとりの道にかなうようにする。
 人間の世界のことは迷いであって意味がなく、さとりの世界のことは尊い、という二つに分けることなく、世間のすべてのできごとの中にさとりの道を味わうようにする。

 無明
[むみょう]に覆われた眼で見れば、世間は意味のない間違ったものとなるであろうが、智慧[ちえ]をもって明らかにながめると、そのままがさとりの世界になる。
 ものに、意味のないものと意味のあるものとの二つがあるのでなく、善いものと悪いものとの二つがあるのでもない。 二つに分けるのは人のはからいである。
 はからいを離れた智慧をもって照らせば、すべてはみな尊い意味を持つものとなる。


7.仏教を信ずる者は、このようにして、仏を信じ、その信の心をもって世の中のことを尊く味わうが、またその心をもって、身をへり下らせて他人に仕える。
 だから、仏教を信ずる者にはおごる心がなく、へり下る心、他人に仕える心、大地のようにすべてを載
[の]せる心、すべてに仕えていとわない心、すべての苦しみを忍ぶ心、怠りのない心、すべての貧しい人びとに善根[ぜんごん]を施す心が起こる。

 このように、人びとの貧しい心を哀れみ、すべての人びとの慈母となってその心を育てようとする心は、そのまま、すべての人びとを父母のように敬い、自分の尊い善き師として崇
[あが]める心である。
 だから、仏教を信ずる者に対して、たとえ、百千の人びとが怨
[うら]みを起こし、敵視[てきし]し、害を加えようとしても、その心のままになしとげることはできない。例えば、どのような毒で も、大海の水を汚し損なうことができないようなものである。


8.仏教を信ずる者は、また、省みておのれの幸せを喜び、この仏を信ずる心はまったく仏の力によるものであり、仏のたまものであると感謝する。
 また煩悩
[ぼんのう]の泥[どろ]の中には、信仰心の種はないのであるが、この泥の中に仏の慈悲が植えつけられて、仏を信ずる心となったことを、明らかに知る。

 さきに説いたように、エーランダという毒樹の林に、チャンダナ(栴檀
[せんだん])香木の芽が生えるはずはなく、煩悩の胸の中に、仏を信ずる種が芽生えるはずはない。
 しかも、いま現に芽生えて歓喜の花が煩悩の胸の中に開くのは、その根はそこになく、別のところにあると知られるのである。その根は仏の胸の中にある。

 仏を信ずる者も、我
[が]の思いに立つときは、貪[むさぼ]りと瞋[いか]りと愚かさの心から、他人をそねみ、ねたみ、にくみ、損なったりする。しかし仏に帰ると、いまいうような大きな仏の仕事をするようになる。これはまことに、不可思議[ふかしぎ]といわなければならない。

当ページの典拠
  1.パーリ、相応部55-37
  1.パーリ、増支部3-75
  1.パーリ、相応部55-37
  1.パーリ、相応部55-54
  2.華厳経第22、十地品
  3.4.大般涅槃経
  5.華厳経第7、浄行品
  6.仏昇利天為母説法経
  7.華厳経第21、金剛憧菩薩十廻向品
  8.大般涅槃経