●『唯識三十頌』世親菩薩(前編と後編)●→【秀逸】

唯識三十頒     世親 (仏教表現を、可能な限り、日常語に替える。) 【1】 人間は、思考するから、「彷徨(さまよ)う」。→【2】へ メモ;「彷徨(さまよ)う」〜 さ迷う この語を選んだこと この世の法則(*)は、思い通りにならないし、 この世の法則(*); dharma 「本当の自分」(「我」)は、実体がない。 (無我ということ) 思考の幻から抜け出そう。(こういう呼びかけ) 【2】 人間は、思考するから、「彷徨(さまよ)う」と言いましたが、 3つの方向から説きます。 (1)感覚器官がたえず働くなら。 (2)自我意識によって、世界と自分を眺めるから そして、そもそも (3)人間は、思考する存在だから。 (勘のよい人は、座禅での「入禅」とは?と納得する。) homunclusのmodelで把握してみよう。 意識 consciousness、高次脳機能の説明モデル。 比喩的に言うと、homunclusが、planetariumよろしく 観測している。 この時、homunclusの天幕(これもplanetarium。写像。)に映る 像の �\こ�(世界という大planetarium)との対応度合い     鏡に映ったような complete correspondenceは理想    �¬静� この「 �� and / or �◆ 廚�disorderを意識障害と呼ぶ。 ******************************************************************************* ●唯識と浄土真宗【阿頼耶識とは・蔵の三義】 2024.11.4-Mon 22 pm ?能蔵・所蔵・執蔵?【阿頼耶を愛し・楽しみ・欣び・憙び】(清水義行)→ 唯識講義【29年05月16日】�^ね衞躰韻砲弔い董�清森義行→ 「能蔵・所蔵・執蔵」→Google検索  七転識-WikiDharma→ 熏習(くんじゅう)-WikiDharma→ ●超初心者向け! 唯 識 へ の 扉 → ★唯 識 三 十 頌 【秀逸】→ ******************************************************************************* (1) 私たちは思考するからさまよう。(→識) この世は思い通りにならない。(→法) 本当の自分なんてどこにもない。(→我) いま、この思考の幻から抜け出そう。 (2) 人はなぜ思考して苦しむのか。その理由は3つある。 感覚器官がたえず働くから。(→了別境) 自我意識によって世界と自分を眺めるから。(→思量●) そもそも私たちは思考する存在だから。(→異熟) (3) 宇宙のすべてを創造し その宇宙のなかに心を誕生させた 私たち人間には解明しようのない根源的な力がある。 これをアーラヤ識(→阿頼耶識)と呼ぶ。 アーラヤ識は宇宙の過去の歴史をすべて包摂し たえず脈動しては新しい心を生み出し(→一切種) その心に思考する力を与え続ける。 (4) アーラヤ識によって生み出された私たちの心は それ自体としてはけがれたものではない。(→無覆無記) しかしながら私たちは諸行無常のことわりから目を背け 自分自身や世界への執着をもって思いめぐらすから(→思量●) 瞑想によっていわゆる無の境地に達するなどのことがないかぎり(→滅定) けがれをともなった自我意識(*)に追い立てられて(→末那) 日々を過ごすことになるのである。 (5) 自我意識は眼など五つの感覚器官と脳を駆使して 対象(*)をとらえようとする。(→境) そして対象をとらえるときには精神作用をともなう。 (6) 精神作用(*)にはたとえば善悪の感情がある。(→心所) 悪なる感情というのは、手に入れた金銭や名誉などに喜びふけり 不愉快な想いを抱いてつい他者を憎み、
穏やかに生きていくために思索するすべを知らないなどであり(→貪瞋癡)、
この世の苦しみを増大させるものである。 これら悪なる感情をとどめて、安楽な世界を導いていくのが善なる感情である。 あるいはまた世俗的な善悪の価値判断を超えて ひたすら道を究めていくときの特別な精神作用がある。(→別境) (7) 私たちは五感のうちその時々に必要な感覚のみを用いる。
しかし脳だけは深い瞑想(*)にあるときや 睡眠中などをのぞいてたえず働く。(→無心の二定(にじょう)) (8) 無の境地に入ったなどをのぞけば 常に五感の知覚と脳の働きによって情報を得て それをさまざま思いめぐらしつづけているのだから 自分自身もこの世界もすべて思考の産物にすぎない(→一切唯識)。
しかし現実にはその思考の産物への執着から離れられず 善悪などの行為(諸業(しょごう))をなし続けるから
私たち自身やこの世界の未来を生み出す力となり(習気(じっけ))、
その力はいつしか縁がととのったときに苦楽の果を結ぶ(異熟(いじゅく))。 (1) 思考の幻にさまよう私たちの姿について これまで見てきたところをまとめると " (a) 迷いの現実:私たちは思考のフィルターを通して見た幻をリアルだと思い込む。 " (b) 迷いの原因:その幻は自分自身の趣味嗜好が投影されてできているにすぎない。 " (c) 迷いからの解放:思考のフィルターから解放されればおのずからリアルに捉えられる。 という三つのことわりになる。 (2) ところで、これらのことわりは以下のごとくにも理解される。 " (a') 迷いの現実:思考のなかの幻はリアルではない。 " (b') 迷いの原因:私たちのフィルターなくしてひとりでには幻は生じない。 " (c') 迷いからの解放:あるがままにこの世に処するときには何ものにもとらわれない。 したがって、これらのことわりは、諸法無我、 すなわち、あらゆるものには自我と言われるような不変の実体は存在しない という本質を理論的に理解して実践していくための枠組みなのである。 (3) 思考の幻にさまよう姿に気づいた私たちが幻へのとらわれを離れてあるがままの境地をめざそうと願うのはたやすくない。 " 第一段階:これらのことわりを理解してはいるものの自分の姿を改める気には至らない。 " 第二段階:思考のなかの幻から解放されたいと願って努力を重ねていく。 " 第三段階:幻から解放される瞬間がおとずれてその瞬間にすべてのことわりを体感する。 しかし、幸せな瞬間は長く続かず、すべてのことわりを体得するには至らない。 " 第四段階:正しいことわりを体感していよいよ自分自身の姿を徹底して改善していく。 " 第五段階:修行の結果、自らのあらゆる迷いを離れるとともに人々を教え導く法を体現する。 という具合に順を追って歩みを進めていくとよい。 そうすれば着実に自分自身のあり方を改めていくことができるのである。 (文章は以上) deposit→ 『九識論』↓ 上記の【秀逸】でまとまっています。そして下記●の唯識三十頌。第一から第五の階位まで。 五明処(五明處); インドにおける五つの学問の分類。五明とも。→(浄土宗大辞典) 「やさしい唯識」(横山絋一)P.233 コトバンク→ 一般社団法人「文殊師利大乗仏教会」→ ********************************************************************************** 宇多田ヒカル - Goodbye Happiness Entrance for Mind@Page↓ >甘いお菓子 消えた後には 「欲」というのは「苦」の原因である。 その「欲」の対象は、かならずなくなるのだから。 >無意識の楽園 唯識三十頌-Wiki→ から >宇多田ヒカル - 三島由紀夫の「豊饒の海」-Wiki→により唯識三十頌を知り、 「写経のお気に入りは唯識三十頌」と述べている。 Yumingの「Neue Musik」カバー写真と唯識「一人一宇宙」について。→ ********************************************************************************** >三島由紀夫氏はなぜ自決したのか? 『豊饒の海』での【阿頼耶識】(あらや・しき)-Wiki→とは何か→   >〔文学の森ダイジェスト〕    平野啓一郎が三島由紀夫『春の雪』を読者と語る     ──第一部:なぜ輪廻転生を描いたのか→ ********************************************************************************** 【本の要約】唯識の思想(横山紘一)●→  2024.8.13-Tues 「やさしい唯識」 心の秘密を解く  (横山紘一) NHK出版→ 唯識講義【29年05月16日】�^ね衞躰韻砲弔い董�清森義行→ 唯識講義【28年3月17日】唯識三十頌第一頌・清森義行●→ 空の思想?え。なにそれ。 ― 三蔵法師の愛した唯識論【COTEN RADIO #81】●→ 横山紘一の『唯識の思想』(講談社学術文庫) のAmazonリンク 三蔵法師、旅立ち前夜 ― イケメン過ぎて裏口入門!?【COTEN RADIO #82】 井の中の玄奘、大海を知る。真理を求めてインドへGO!【COTEN RADIO #83】 ********************************************************************************** 唯識-Wiki →【図】△三 ●「空の思想」から唯識思想へ→ (親ページ→も) 唯識三十頌(wikisource)→  // 唯識三十頌-Wiki→ (-Eng→のLinkも) -Eng Translation●→ 30 verses of Mind Only Theory → Google 「唯識三+頌」� 糞�敬頌)〜(第四頌)→(下記の原文source) 大蔵経テキストデータベース ●→(唯識三十頌) 台北仏学デジタル図書館●→ ● 稽首唯識性 満分清浄者 我今釈彼説 利楽諸有情 (帰敬頌)(ききょうじゅ)〜プロローグ〜 一切の存在は、「ただ自己の識(心)の作り出した仮のものである」という 物事の本質を前にして、 全てが清らかな仏陀、また、その仏陀を目標に仏道を歩む世親菩薩に 深く首を垂れ帰依します。  私(*)は、今、この考え方を明らかにし、生きとし生けるものと共に このうえない悟りの境地に到達したいと思います。 (*; 「私」とは、玄奘三蔵のこと) the Mind-Only theory ; 唯識の「識」は「こころ(心)」 ● 由假説我法 有種種相轉 彼依識所變 此能變唯三 (第一頌)〜世界を作り出しているものとは〜 私や私をとりまく状況も実体として有ると説く人はいます。 しかし、あらゆるものは、さまざまなる因縁が 一時的に和合して仮に有るにすぎません。 すべては、変化のさなかにおいて一瞬一瞬有るというだけです。  そういう世界にいるのが私たちであり、  その世界は、まさに私たちの識(心)が作り出したものに他なりません。 そして、その世界を作り出す識(心)には、 三つのものがあります。 ● 謂異熟思量 及了別境識 初阿頼耶識 異熟一切種 (第二頌)〜世界を作り出している三つの心〜 その三つのものとは、�^杤麓院↓∋徇娘�●及び�N司娘韻里海箸任后�  そして、最初に挙げるべきものは、��【阿頼耶識】-Wiki→です。 異熟識とはこれを指します。 また、阿頼耶識は、 �^貔攫鏤匱院覆い辰気い靴紊Δ犬靴�)ともいいます。 ● 不可知執受 處了常與觸 作意受想思 相應唯捨受 (第三頌)〜世界を作り出している心〜阿頼耶識(その一)〜 �^ね衞躰韻蓮◆�心の深層領域に茫漠と広がる無意識の世界です。 そのため、)その認識対象のことも、 その対象を知るはたらき(了)のことも、 私たちは知ることができません。すなわち私たちは、 それらの全貌を知ることはできません。 ここに、�^ね衞躰韻稜Ъ餌仂櫃箸蓮� 過去の行動情報(執)、肉体(受)、自己をとりまく環境(処)のことをいいます。  そして、阿頼耶識に常に相応する心のはたらきには、 「触」、「作意」、「受」、「想」、「思」の五つがあります。 「触」とは、心を認識対象に接触させること、をいいます。 「作意」とは、心を起動させること、をいいます。 「受」とは、認識対象を 苦又は楽、あるいは、そのどちらでもないものと受けとめること、をいいます。 「想」とは、受けとめたものを自己の枠組みに当てはめること、をいいます。 「思」とは、認識対象に具体的にはたらきかけること、をいいます。 ただ、�^ね衞躰韻蓮◆崋�」については苦でも楽でもなく、 ありのままに受けとめます(捨受)。 ● 是無覆無記 觸等亦如是 恒轉如暴流 阿羅漢位捨 (第四頌)〜世界を作り出している心〜阿頼耶識(その二)〜 �^ね衞躰韻蓮�無覆、すなわち、仏道を歩む上で 障害となるようなものとは関係がなく、 また、阿頼耶識の性質は、無記、すなわち、善でも悪でもなく中立です。 そして、阿頼耶識に常に相応する 「触」「作意」「受」「相」「思」もまた無覆であり、 それらの性質もまた無記です。  また、�^ね衞躰韻蓮� 大きくうねりながら流れる川の如く、常に流転するものです。 このような�^ね衞躰韻蓮� 阿羅漢といわれる清浄な境地に到達すれば止滅してしまうでしょう。 ● 次第二能變 是識名末那 依彼轉縁彼 思量爲性相 (第五頌)〜世界を作り出している心〜末那識(その一)〜 第一の能変(第一頌参照)は、�^ね衞躰韻任垢�、 次は、第二の能変です。 この識(心)の名称は、末那(まな)です。  末那識は、彼(阿頼耶識)を依りどころとして出てきた転識であり、  彼(阿頼耶識)を認識対象としています。 そして、阿頼耶識を(不変的で実体のある自分の中核をなすものと誤解して、) 一途に思い量る(はかる)こと●が 末那識の本質(性)であり、具体的なはたらき(相)です。 ● 四煩惱常倶 謂我癡我見 并我慢我愛 及餘觸等倶 (第六頌)〜世界を作り出している心〜末那識(その二)〜 末那識は、常に四つの煩悩とともにあります。 いわゆる、 「我癡」(すべてのことがら、とりわけ自分の本来の姿を知らないこと)、 「我見」(自分という存在を不変的で実体的なものと誤認すること)、  並びに、 「我慢」(とにかく自負して、他人を侮ること)、 「我愛」(実体視した自我に愛着すること)、 とともにあります。 そして、 それら四つの煩悩に関連するその余の煩悩(これを随煩悩といいます)と 触(第三頌参照)などの心のはたらきが付随します。 ● 有覆無記攝 隨所生所繋 阿羅漢滅定 出世道無有 (第七頌)〜世界を作り出している心〜末那識(その三)〜 末那識の性質は、無記(第四頌参照)、すなわち、善でも悪でもなく中立ですが、 有覆(第四頌参照)、 すなわち、仏道を歩む上で障害となるもの(前述の四つの煩悩)の影響を受けます。 また、末那識は、大本の阿頼耶識が生まれた所(世界)の状況に従って縛られます。  もとより、こうした末那識のはたらきは、阿羅漢の境地に至れば完全になくなります。 また、その境地に至らなくても我執を否定した無我の境地に至ったり(出世道)、 また、その出世道において 無心の極まった状態に至れば(滅定=滅尽定)、 その状態が続いている間は、末那識のはたらきは停止します。 ● 次第三能變 差別有六種 了境爲性相 善不善倶非 (第八頌)〜世界を作り出している心〜六識(その一)〜 次に第三の能変(第一頌参照)は、�N司娘院並萋齔鷸仮函砲任后� そのはたらきの違いによって 六種(六識、下記注釈参照)あります。  それらは、それぞれ対象(境)とするものが異なり、  それぞれの対象を認識(了知)することを本質(性)とし、 それが六識それぞれの具体的ははたらき(相)となります。 そして、六識は、場合によっては、 善にも不善にも、あるいは、それらのどちらでもない無記にもなります。 (注釈) 六識=眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識 ● 此心所遍行 別境善煩惱 隨煩惱不定 皆三受相應 (第九頌)〜世界を作り出している心〜六識(その二)〜 六識が、 善にも不善にも、あるいは、それらのどちらでもない無記にもなるのは、 六識に相応する心のはたらき(心所)が、 次に示すように広範にわたるものであるからです。  すなわち、その心のはたらきとは、   「遍行」(ごく基本的な心のはたらき) 「別境」(特別な対象だけにはたらく心のはたらき) 「善」(仏の世界に順ずる心のはたらき) 「煩悩」(仏の世界に反する心のはたらき) 「随煩悩」(煩悩に付随してはたらく心のはたらき) 「不定」(その他の心のはたらき) のことです。 このうち、「遍行」の「受」のはたらきは、 対象を「苦」ととらえるもの(苦受)、 対象を「楽」ととらえるもの(楽受)、及び、 対象をそれらのどちらでもないものととらえるもの(捨受)の 「三受」にわたります。 そして、このことは、六識すべて(皆)に当てはまります。 ● 初遍行觸等 次別境謂欲 勝解念定慧 所縁事不同 (第十頌)〜世界を作り出している心〜六識(その三)〜  ここで、「遍行」、「別境」、「善」、   「煩悩」、「随煩悩」、「不定」という 6つのグループに分類される全部で51の心のはたらき(心所)を 以下に列挙します。  はじめの「遍行」に属するのは、「触」等です。 すなわち、「触」、「作意」、「受」、「想」、「思」の 五つの心のはたらき(第三頌参照)です。 次の「別境」に属するのは、 「欲」(希求すること)、 「勝解」(深く了解すること)、 「念」(記憶すること)、 「定」(集中すること)、 「慧」(択び(えらび)分け、正邪を判断すること)、 の五つの心のはたらきです。 これらは(「遍行」と違って、)縁ぜられる所の事、 すなわち、認識対象(境)が同じではない(不同)ものですから 「別境」といわれます。 ● 善謂信慚愧 無貪等三根 勤安不放逸 行捨及不害 (第十一頌)〜世界を作り出している心〜六識(その四)〜 「善」に属するものは、以下のものです。 「信」(自己を真理に委ねること)、 「慚」(自らを顧み、また、教えに照らして恥じること)、 「愧」(他に対して恥じること) 「無貪」等の「三根」(ここに「三根」とは、「無貪」(むさぼらないこと)、 「無瞋」(むしん)(排除しないこと)、「無癡」(むち)(真理・道理に即すること)の 「三善根」のことをいいます。)、 「勤」(ごん)(たゆまず努めること) 「安」(「軽安」(きょうあん))(心がのびやかで、はればれとしていること) 「不放逸」(欲望をつつしむこと)、 「行捨」(平等にして、かたよらないこと) 及び 「不害」(いのちをあわれみ、他を悩ませないこと)、 以上のものが「善」に属します。 ● 煩惱謂貪瞋 癡慢疑惡見 隨煩惱謂忿 恨覆惱嫉慳 (第十二頌)〜世界を作り出している心〜六識(その五)〜 「煩悩」に属するものは、以下のものです。 「貪」(むさぼること)、 「瞋」(排除すること)、 「癡」(真理・道理に暗いこと)、 「慢」(とにかく自負して、他人をあなどること)、 「疑」(真理・道理をわきまえ得ず、疑うこと)、 「悪見」(誤った見解に立つこと)、 以上のものが「煩悩」に属します。  次に、「随煩悩」に属するものは以下のものです。 「忿」(腹を立て危害を加えようとすること)、 「恨」(うらむこと)、 「覆」(隠し立てすること)、 「悩」(他を悩ませること)、 「嫉」(ねたむこと)、 「慳」(ものおしみすること)、 ● 誑諂與害(*1) 無慚及無愧 掉擧與(*2)沈 不信并懈怠 (第十三頌)〜世界を作り出している心〜六識(その六)〜 「誑」(たぶらかすこと)、 「諂」(へつらうこと)、 「害」(いのちへの思いやりがなく、他を悩ませること)、 「きょう(*1)」(うぬぼれること)、   → 小喬(りっしんべん) 橋ー木 「無慚」(自らを顧みず、また、教えに照らして恥じないこと)、 「無愧」(他に対して恥じないこと)、  「掉挙」(気持ちが騒がしく浮き立つこと)、 「こん(*2)沈」(気持ちが深く沈むこと)、→ 小昏(りっしんべん) 「不信」(真理を顧みないこと)、 「懈怠」(なまけること)、 ● 放逸及失念 散亂不正知 不定謂悔眠 尋伺二各二 (第十四頌)〜世界を作り出している心〜六識(その七)〜 「放逸」(欲望のままふるまうこと) 「失念」(記憶を失うこと) 「散乱」(集中を欠いて乱れること) 「不正知」(誤って理解すること) 以上のものが随煩悩に属します。  不定に属するものは以下のものです。 「悔」(くやむこと)、 「眠」(ねむたくなり、心身の自在を失うこと)、そして 「尋」(認識の対象をおおざっぱに思いはかること)、 「伺」(認識の対象を詳細に思いはかること)、 以上四つのはたらきが不定に属します。 なお、「悔」「眠」と「尋」「伺」の二つにはそれぞれに染(不浄)と不染(浄)の二つの場合があって、 それらによって性質が変わります。(それ故に「不定」と言われます。) ● 依止根本識 五識隨縁現 或倶或不倶 如濤波依水 (第十五頌)〜世界を作り出している心〜それらのはたらきと関係性(その一)〜 ところで、第八頌、第九頌で示した六識心王(心王=心の本体、すなわち) 眼・耳・鼻・舌・身・意の六識心王は、 根本識、すなわち、阿頼耶識をよりどころとしています。 このうち、(眼・耳・鼻・舌・身の)五識は、 衆縁(しゅえん)すなわち、 この世のもの一切のめぐりあわせ(因衆)にしたがって現れます。  この五識は、それぞれが同時(倶)にはたらくこともあれば、  あるいは、同時にはたらかないこともあります。 それは、波のうねり(五識)が水(根本識)によっている、と譬えることができます。 ● 意識常現起 除生無想天 及無心二定 睡眠與悶絶 (第十六頌)〜世界を作り出している心〜それらのはたらきと関係性(その二)〜 他方で、意識というものは、 以下に述べる場合を除いてはほぼ常にはたらいているといっていいでしょう。 そして意識がはたらかない場合というのは、 まず、私たちが無想天と呼ばれる色界のかなり上層に生まれた場合、  及び無心の二定に入った場合です。無論、睡眠時や悶絶したとき、 すなわちもだえ苦しんで気絶した場合も意識ははたらきません。 (注釈) 「色界」=仏教で説かれる三界の一つ。欲界の上に位置し、 欲望を離れてはいるが、 なお物質的存在(色)からは離れていない世界(三界=欲界、色界、無色界)。 「無想天」=色界の第四禅天というハイレベルの境界の一つのこと。 このレベルに達すれば 長期にわたり無心を保つことができると言われている。 「無心の二定」=無想定と滅尽定のこと。「定」とは禅定、 すなわち、深い瞑想の境地に達すること。 無想定では、六識がはたらかない。 滅尽定では、六識がはたらかないばかりではなく、 第六識に声なき声で絶えず自己中心性をささやきかける第七識、末那識さえ なくなると考えられている。 ● 是諸識轉變 分別所分別 由此彼皆無 故一切唯識 (第十七頌)〜世界の在り様は心の在り様(その一)〜 以上、三つの能変(第一頌参照)の八識心王と それらに相応じてはたらく五十一の心所について述べてきました。 これら心王と心所こそが様々に変化・展開して、 私たち一人ひとりが経験する現実の世界を作り出しています。 その要諦は、八識のそれぞれが変化して、 分別するものと分別されるもの(所分別)という二つの領域に別れ、 それによって認識が成立するのです。  私たちは、ふつう、日常の世界を不変的で実体のあるものと捉えてしまいます。 しかし、そんなもの(彼)はどこを探してみてもありません。 とどのつまり、あるのは唯識のみ、すなわち、ただ心だけ、 すべてはわが心の展開があるだけなのです。 (このように解した場合、以下の疑問が生じます。 一つは、外界の認識対象がないのに、なぜ認識が生ずるのか、 もう一つは、今生における執着に基づく生前行為は 相続されるのか、ということです。) ● 由一切種識 如是如是變 以展轉力故 彼彼分別生 (第十八頌)〜世界の在り様は心の在り様(その二)〜 (第十七頌から生ずる第一の疑問への回答)  一切種識、すなわち、阿頼耶識に保存されている過去の行動情報を 種子(しゅうじ)といいます。 この種子がいろいろと変化し、これによってあらゆることの一つ一つが生起します。 そして、それらの変化が相互に関わり合うことを以て、 日常を構成する様々な分別(第十七頌参照)が生ずるのです。 ● 由諸業習氣 二取習氣倶 前異熟既盡 復生餘異熟 (第十九頌)〜世界の在り様は心の在り様(その三)〜 (第十七頌から生ずる第二の疑問への回答)  私たちが日々行う行動情報は、阿頼耶識に送りこまれ蓄えられます。 これを業種子といいます。 (諸の業の習気)。また、私たちは、ものごとを理解するほとんどの場合、 言葉(名言(みょうごん))を用いて、 主観・客観という二元対立の世界を勝手に作り上げることによって行っています。 これを名言種子(みょうごんしゅうじ)といいます(二取の習気)。 もとより、業種子と名言種子は それぞれ別の種子というわけではなく、二つで一つのものとして存在し、 相互に関与し合って私たちの行動を支配しています。  そして、肉体が滅びると共に今生に現れた阿頼耶識は、  一定期間を経て滅びますが、次生に生ずる阿頼耶識は、 今生に蓄えられられた種子を果報として引き継ぎます(異熟)。 ● 由彼彼遍計 遍計種種物 此遍計所執 自性無所有 (第二十頌)〜在るべき世界のための心の在り方(その一)〜 (ところで、)私たちの様々な思い計らい(遍計)によって、 私たち一人ひとりの日常世界は成り立っています。  そして、こうした思い計らいによって成り立っている世界を 私たちは実体的に有るものとして受け止めています。 しかし、それは、私たちが勝手に有るものと思っいるだけで、 実は、どこにも有るわけではありません。 ● 依他起自性 分別縁所生 圓成實於彼 常遠離前性 (第二十一頌)〜在るべき世界のための心の在り方(その二)〜 (私たちの日常は、私たち一人ひとりが勝手にあるものと思っている世界であることは既に述べたところ (第二十頌で述べたところ)ですが、では、そもそも、一般的にみて、世界というものは、 どのように成り立っているのでしょうか。  この点については、)そもそも世界とは、ある絶対条件の下、それ自体、単独で存在するものではないのです。 すなわち、様々な原因が一定の条件の下、一時的に和合して成り立っているのです。 それは、元来、様々な縁によって生起するという性質を有しています。 唯識では、これを「依他起」といいます。  では、私たちが真に求めるべき世界は何でしょうか。 その世界とは、円満に完成された真実の世界のことを指します。  これを「円成実」といいます。  そして、この円成実の世界は先ほど述べた?計所執の世界(第二十頌参照)からは 常に隔絶した性質を有しています。(第二十二頌に続く) ● 故此與依他 非異非不異 如無常等性 非不見此彼 (第二十二頌)〜在るべき世界のための心の在り方(その三)〜 (第二十一頌から続く)それ故に円成実と依他起とは、 異なるものに非ざるとも、異ならざるものに非ざるとも いえるでしょう。 (すなわち、円成実と依他起は、別のものでも、同じものでもないのです。)  これは、例えば、無常という事実と無常という真実のようなものではないでしょうか。 (私たちは、常日頃、「諸行無常」という事実を口にします。とこれが、どうでしょう、 私たちは、何かよいことがあると、それが永遠に続くと勝手に思い計らいそれに執着してしまいます。 しかし、それは、「諸行無常」という真実に目を背けているのではないでしょうか。すなわち、) 私たちは、円成実という真実を見据えない限り、依他起の事実も見えてこないのです。 (注釈) (三性の別の表現)「三性」:第二十三頌を参照 ・遍計所執性:妄有 ・依他起性 :仮有 ・円成実性 :真有 ● 即依此三性 立彼三無性 故佛密意説 一切法無性 (第二十三頌)〜在るべき世界のための心の在り方(その四)〜 遍計所執行性、依他起性、円成実性という三つの世界の在り方を三性(さんじょう)といいます。 これらは、有の観点から世界の在り方を示したものです。 ところで、私たちは、先述のように(第二十二頌参照)、 物事を自分の都合のよいように捉え勝ちです。これら三性についても、「有る」と聞けば私たちは、 どうしてもそれらを実体的、固定的なものとして捉え勝ちになります。 そこで、上記の三性をもとに、 次に「空」の視点から三性のそれぞれに対応する三無性を示します。 この三性と三無性の二つが一組になって初めて世界の在り方が十全に明らかになることでしょう。  佛様は、そういう秘めた意図をもって、一切法は無性(仏陀が般若心経の中で説いた考え方で、 すべては空である(無自性である)という考え方)と説かれたのです。 ● 初即相無性 次無自然性 後由遠離前 所執我法性 (第二十四頌)〜在るべき世界のための心の在り方(その五)〜 (そこで、以下では上記三無性のことについて示します。) まず最初は「相無性」です。 次は、「無自然」の性です。 そして最後は、前に述べた所執の我法、すなわち、 執着の対象である自己と自己に関わるすべての事柄を遠くに手放し(遠離し)隔絶したところに 顕在化する性質のものです。 (用語解説) 相無性:私たちが有ると思っているものは実は実体がないということ。 無自然(生無性):仮有の依他起性は、ある条件の下、様々な原因が一時的に和合して在るというだけで、 自然に生じたものではないということ。 (注釈1) 対応関係 ・遍計所執性:相無性 ・依他起性:無自然(生無性) ・円成実性:勝義無性(後述) (注釈2) 三性の別の表現(「三性」:第二十三頌を参照) ・遍計所執性:妄有 ・依他起性:仮有 ・円成実性:真有 ● 此諸法勝義 亦即是眞如 常如其性故 即唯識實性 (第二十五頌)〜在るべき世界のための心の在り方(その六)〜 そこでは、諸法すなわちすべてのものが、 それそのものとして(常如)、あるがままの姿(真如)で顕在化してきます。  それは、何よりも勝れたもの、すなわち、諸法の勝義といえるでしょう(勝義無性)。 そして、それは、唯識という考え方を極めることによってで顕在化してくることでしょう(唯識実性)。 ● 乃至未起識 求住唯識性 於二取隨眠 猶未能伏滅 (第二十六頌)〜真実の世界とは(その一)〜 (では、その唯識実性という真実を極めるためには、どうしたらよいのでしょうか。 それに至る道にはおおよそ五つの階位があるものと考えられています。 すなわち、まず、最初の階位は、「資糧」と言われる階位です。 これは、悟りの境地に達したいという心(識)は起きたものの、未だ教えについて しっかりと理解していませんので、唯識実性で説かれているような真に勝れた本性に到達したいと 求めるに至っていない段階です。  この段階では、二取(第十九頌参照)すなわち、認識するものと認識されるものが実体あるものと 思ってしまう私たちの心の奥底にある執着をなお、未だに抑え消滅させることができていません。 ● 現前立少物 謂是唯識性 以有所得故 非實住唯識 (第二十七頌)〜真実の世界とは(その二)〜 唯識論の理論を理解している、漢文やサンスクリット語が読める、 お経を暗記している、などというのは、 「私」が「何」かを知っているということで、ものと自我との間に分離があり、 その上で知る・獲得するという形になっています。 これは、すなわち、分別知にすぎないわけです(第二十九頌参照)。 唯識論の本質は、無分別智(主体と客体の区別を超え、 対象を言葉や概念によって把握しようとしないこと)の心になることですから、 第二の階位である「加行」の階位はまだ途中の段階にあるにすぎません。 ● 若時於所縁 智都無所得 爾時住唯識 離二取相故 (第二十八頌)〜真実の世界とは(その三)〜 第三の階位は、「通達」(つうだつ)と言われる階位です。 もし、ある時、智(認識の作用)が、所縁、 すなわち、認識の対象を全く把握しなくなるならば、 その時こそ実際に唯識に生きているということになります。 それは、二取(第十九頌、第二十六頌参照) すなわち、認識するものと、認識されるものが分裂した状態から 離れるが故にそうなるということです。この段階に至ったのが、 「通達」と言われる階位です。 (説明)  第二十七頌の(説明)の箇所で、指摘しましたとおり、 唯識の本質は無分別智の心になることです。 「通達」の段階に至りますと、主体と客体の区別を超え、 認識対象を言葉や概念によって 把握しなくなる段階になんとか辿り着いたと言えます。 ● 無得不思議 是出世間智 捨二(*3)重故 便證得轉依 (第二十九頌)〜真実の世界とは(その四)〜 第四の階位は、「修習」(しゅうじゅう)と言われる階位です。この階位においては、 私たちがつかむこと(得)も、考えることもできない(不思議)、常識を超えた(出世間の)智の段階に 至ったと言えます。  この段階においては、二つの(*3))重(そじゅう)という人生を重苦しく空しいものにする二つの障害、 すなわち煩悩障と所知障を完全に捨て去ることができる、というよりも、 そうなるためにひたすら努力するということもなく自ずからそれらが脱落してしまうが故に、 自己と自己に関わるすべてが智慧を依りどころとして再編されます。 (いわゆる悟りを開いた状態になるわけです。)(二転位の妙果) (用語解説) 煩悩障:心をかき乱す障害。 所知障:正しい智慧が生じるのを妨げる障害。 智慧:真理を明らかにし、悟りを開くはたらき。 (注釈) (*3) (品の構造です。口←鹿) 「鹿」という漢字を下に二つ並べてその上に鹿という漢字を乗せた形です。 ● 此即無漏界 不思議善常 安樂解脱身 大牟尼名法 (第三十頌)〜真実の世界とは(その五)〜 第五の階位は、「究竟」(くきょう)と言われる最後の究極の階位です。 この段階においては、二転位の妙果(第二十九頌参照)により、 汚れたものが漏れ出ることがない世界です(無漏界)。 それは、私たちの思議(考えはかること)をはるかに超えた境地であり(不思議)、 善であり、永遠に変わるということもありません(常)。 そして、心は安楽であり、 自己及び自己に関わるすべての執着から解放される身になります(解脱身)。 いわば、無分別智(第二十七頌説明参照)を依りどころとして、 大いなる牟尼(下記の説明参照)、 すなわち、言語を絶した静寂の境地に至ります。 それはまさに仏身になるということです。 (説明) 牟尼:�ー簗曄∪鼎�に瞑想してものを言わないこと。(≒静寂)�∧�様のこと。 「悟る」とは、私たちの常識を超え、言葉を超えた存在に至るということで、 まさに仏様になることであると解釈します。 ● 已依聖教及正理 分別唯識性相義 所獲功zコ施群生 願共速登無上覺 (釈結施願文)(しゃっけつせがんぶん)〜エピローグ〜 以上、清らかな教えと正しい考え方・もの事のとらえ方によって、  すべてのことはわが心の展開だという物事の本質と  それについての様々な事柄を学んできました。  この学修によって何らかの功徳が獲得できたのであれば、 これをいのちあるものたち(群生)に施したいと思います。 そして、皆と共に 、速やかにこの上ない覚り(さとり)の境地(無上覚)に至ることを祈り(願)ます。 (以上) ********************************************************************* 2024.9.20(金)検索結果 (そじゅう、そ重、●「そ」=品構造、口→鹿)→(漢字辞典ONLINE) 法相宗-Wiki→とは→@「現代人の仏教教養講座」仏教ウェブ入門講座 唯識学会→ 唯識に学ぶ・誓喚の折々の記→ 唯識三十頌ノート(1)梵漢全文→ 我々は、身体的にも精神的にも、様々な束縛を被って、 重々しい状態にある。 これを●重(そじゅう)といい、軽安に対立する状態である。 (唯識講義レジメ�Я韻凌棺� 清水義行)→ 上記 ●重(そじゅう)でGoogle検索 唯識三十頌/訓読→ 電子佛教辭典→ Resources for East Asian Language and Thought→ 【韓国語】唯識三十論頌→ ********************************************************************* �〕�識と浄土真宗【阿頼耶識とは・蔵の三義】 [能蔵・所蔵・執蔵]【阿頼耶を愛し・楽しみ・欣び・憙び】[梵天勧請] 【令和5年06月28日】・清森義行→(YouTube) ********************************************************************* 暴流(ぼうる)のごとし                    2023.8.11-Fri (換語すると、本来の姿は「無我」(*)なのだが、第1識〜第7識が、 よってたかって(笑)、「我」(アートマン)に執着させる。) 「無我」(*)=これはアラヤ識 (無意識)のありようをあらわしている。 「無我」は「空」(くう)の3つの相 aspectの最重要なのだが、 最難解のもの。(変化、関係は、まだ受け入れやすい理法) 「恒に転ずること暴流の如し」についての意味を 玄奘三蔵の解説で教えて下さい。→ ASDF (As definition) ; 定義を常に明確にすること アラヤ識;無意識     阿頼耶識 8th マナ識 ;自我執着心(オレが、オレが)   末那識 7th 「蔵」deposit (蓄える、保持する) 3種ある。能動、受動、執着 種子(しゅうじ) ; 業(カルマ)=おこなったこと 「阿頼耶識に種子(しゅうじ) を薫習(くんじゅう)する。」 薫習(くんじゅう)-Wiki→ 身口意(しんくい)の三業が業力となる。 「阿頼耶を愛楽欣喜」(増一阿含経)これは初期経典 ********************************************************************* 唯識講義【令和3年4月3日】�〕�識三十頌【全体の解説〈プロローグとエピローグ〉】・清森義行→(YouTube) �^杤麓院↓∋徇娘院↓N司牟�識について→ 『九識論』 唯識 in 用語解説(50音順)→ ************************************************************************************ 第2節 最後の教え(112) Ctrl+F「心」                2023.7.9-Sun >わが心を観[み]ては、その中に「我[が]」はないと思い、それらに迷ってはならない。 >教えのかなめは心を修めることにある。 >心に従わず、心の主[あるじ]となれ。    >この心のしわざである。だから、よく心を正しくし、道に外[はず]れないよう努めるがよい。 >煩悩の蛇は出さなければならない。おまえたちは慎んでその心を守るがよい。 ************************************************************************************ ●「やさしい唯識」心の秘密を解く  横山紘一(こういつ) NHKライブラリー NHK出版 >本書の場合、「無分別智」すなわち「他者と自分を区別しないという知恵」によって、 >他者と自分を接続するのである。いかにも仏教的な考え方だなという気もする  → 読者のメモ→ ●『唯識の思想』(横山 紘一):講談社学術文庫 >唯識三年、倶舎六年 【本の要約】唯識の思想 ●→(YouTube) 人人唯識 にんにんゆいしき 薬師寺のHPを確認すると、 「私達の認めている世界は総て自分が作り出したものであるということで、 10人の人間がいれば10の世界がある(人人唯識[にんにんゆいしき])ということです。 みんな共通の世界に住んでいると思っていますし、同じものを見ていると思っています。 しかしそれは別々のものです。」→(note) 全日本仏教会 阿頼耶識[あらやしき]、末那識[まなしき]という深層意識を心の奥にあるということを 認めているところにあります。その阿頼耶識を根本識[こんぽんじき]とし、 一切法は阿頼耶識に蔵する種子[しゅうじ]より転変せらる(唯識所変[ゆいしきしょへん])としています。 人人唯識[にんにんゆいしき]// 『手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池』→ // 三帰依文って?→ 阿頼耶識  →「天籟」; すべてを受け入れるガンジス河 51の所 唯識  心所-Wiki 法相宗では、『唯識三十頌』に則り、心所(心所法)を以下の全51種とする。 translation of 'h[r]daya' in Sanskrit (which means 'heart'), The 'Heart' of Hannya Shingyo is a translation of 'h[r]daya' in Sanskrit (which means 'heart'), or an important thing, but it also means magic (litany, mantra). →(reverso) -Wikiionary (in Sanskrit)→ (このWebsiteでは記述をしていない。)→ ************************************************************************************ 九識論; 「第九識」(阿摩羅識)つまり「仏界」の存在は、「法華経」だけに説かれる最大の特徴。 生命哲学「九識論」→ 九識論/Nine consciousnesses (教学用語検索)(018)→ ******************************************************************** 阿頼耶識-Wiki→  末那識;自我執着心(自己中心性) cf. 「仏教聖典」用語 末那識・阿頼耶識の8つの識。 末那識;自我執着心(自己中心性) 阿頼耶識; 一切種子識(貯蔵するところ) 九識として阿摩羅識(自性清浄心・仏識) 阿摩羅識; 生命の根源にある究極の清浄な心 唯識思想との関係: 法相宗など唯識の教えでは、阿頼耶識を九識の第8識とし、 阿摩羅識は説きません。 阿頼耶識が迷いの世界の根源であると同時に、悟りもそこから生じると考えます 創価学会での捉え方→ = 天台宗 真諦 の唯識説 の特色 につ いて→ 日本古来の心の考え方「一霊四魂」→ 四魂の窓-Wiki→ pinterestから→ pinterestから→ 個性認識学→ 四魂の窓→ 秘密曼荼羅十住心論→ 十住心論-Wiki→ note→ → マンガ原始仏典・ブッダの教え ●→ // 日本法螺貝文化発祥の地「久米寺」→ 近代日本における霊魂観→-pdf ********************************************************************