『唯識三十頌』現代ロックバージョン(前編)
数々の著書を遺したインドの仏教思想家 世親(せしん)。

その思想の集大成ともいわれるのが『唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)』です。
何度読んでみても味わいのある名著ですが、専門用語がたくさん登場するため
初心者には難解なのも事実。そこで、「世親が現代に生きていたらこんな言葉で
語ったのではないか」という翻訳を試みました。
世親が生きた時代と現代とでは、まるで生きる環境が違います。世親の時代には
インドにおいても太陽が地球の周りをまわる天動説が信じられていましたし、
世界の始まりはビッグバンではなくて人々の「業(カルマ)」によるのだと説かれていました。
逐語的な翻訳と解説を学んで、当時の世界観を知っていくのがオーソドックスな学び方かもしれませんが、
世親がタイムマシンで現代にやってきて「翻訳コンニャク」を食べ、
私たちの苦しみを克服するメッセージを語ってくれたなら、
仏典の言葉は一気に心に響くものになるでしょう。以下の翻訳は、
そういうところを目指して書いています。世親の真意にどこまで
迫れるかわかりませんが、できるところまでやってみますので、
よろしければお付き合いください。 逐語訳や専門用語の解説をお望みの方は、ググっていただければ、
他のサイトに載っていますのでそちらをご参照ください。
サンスクリット原典からの翻訳を利用したい方は
『大乗仏典〈15〉世親論集 』(中公文庫)をお薦めしておきます。 『唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)』
世親菩薩(せしんぼさつ)造 現代ロックバージョン(前編) (1) 私たちは思考(識(しき))するからさまよう。 この世(法(ほう))は思い通りにならない。 本当の自分(我(が))なんてどこにもない。 いま、この思考の幻から抜け出そう。 詳しく読む(1) 思考の幻を歩む私たち 漢訳書き下し 仮(け)に由りて我(が)・法(ほう)ありと説く。種種の相(そう)転ずること有り。 彼(かれ)は識(しき)が所変(しょへん)に依る。 現代ロックバージョン 理想の人生ってなんだろう。 幸せな生活ってなんだろう。 その答えは一人一人によって異なります。 同じ時代に同じ地球上に生きていている私たちですが その見え方は人それぞれです。 自分らしさってなんだろう。 本当の自分ってなんだろう。 考えてみてもとらえどころのないものだし 考えれば考えるほどわからなくもなります。 ありのままに世界(法)を見ることができず ありのままに自分(我)を受け入れることができず 思考(識)がつくりだす幻のなかをさまよい歩く。 悲しいかなそれが私たちの姿なのです。 ________________________________________ (2) 人はなぜ思考して苦しむのか。その理由は3つある。 感覚器官がたえず働く(了別境(りょうべつきょう))から。 自我意識によって世界と自分を眺める(思量(しりょう))から。 そもそも私たちは思考する存在(異熟(いじゅく))だから。 詳しく読む(2) 思考の3つのレイヤー 漢訳書き下し 此(これ)が能変(のうへん)は唯(ただ)三つのみなり。 謂(い)わく異熟(いじゅく)と思量(しりょう)と、及び了別境(りょうべつきょう)との識(しき)なり。 現代ロックバージョン なぜ私たちは思考するのでしょう。 この問いに対する答えを見つけることはおそらく不可能です。 はるか過去にどんな因縁があったのか知る由もありませんが 私たちはこの世にいのちある限りともかくも思考し続けます。 いのちがつきて生まれ変わった後もやはり同じことでしょう(異熟)。 しかしながら思考するときには私たちの迷いの心が常につきまといます(思量)。 この迷いの心に染められた思考によって 感覚器官からたえず入ってくる情報をあつかうから 正しく世界や自分の姿を見つめているつもりでも 実際には迷いの心によってゆがめられた虚像を見てしまいます(了別境)。 これが私たちの思考というものの姿なのです。 ________________________________________ (3) 宇宙のすべてを創造し その宇宙のなかに心を誕生させた 私たち人間には解明しようのない根源的な力がある。 これをアーラヤ識(阿頼耶識(あらやしき))と呼ぶ。 アーラヤ識は宇宙の過去の歴史をすべて包摂し たえず脈動しては新しい心を生み出し(一切種(いっさいしゅ))。 その心に思考する力を与え続ける。 詳しく読む(3) 人間とは思考する存在である 漢訳書き下し 初めは阿頼耶識(あらやしき)なり。異熟(いじゅく)なり。一切種(いっさいしゅ)なり。 不可知の執受(しゅうじゅ)と処(しょ)と了(りょう)なり。常に触(そく)と、 作意(さい)と受(じゅ)と想(そう)と思(し)と相応す。唯(ただ)し捨受(しゃじゅ)のみなり。 是れ無覆無記(むぶくむき)なり。触等も亦(ま)た是(か)くの如(ごと)し。 恒(つね)に転ずること暴流(ぼうる)の如し。阿羅漢(あらかん)の位に捨す。 現代ロックバージョン なぜ思考するのかということをよくよく見つめてみると 私たちがそもそも思考する存在だからという 動かすことのできない事実につきあたります。 このような私たちの存在の基調(阿頼耶)となるありかたを アーラヤ識(阿頼耶識)と呼ぶのです。 どういう因縁からかわかりませんが 私たちはともかくも思考する生き物であり(異熟) そのことが種となって私たちのあらゆる迷いが 今日もすくすくと育っていきます(一切種)。 私たちに思考する力が備わっていなければ なにもあれこれと思い迷うことがないのですが どういうわけか私たちには思考する機能(執受)があって 私たちの前には思考の対象となる世界(処)があって 私たちは世界をとらえられる(了)ようになっています。 目や耳などの感覚器官はたえず色や音などに反応し(触) その色や音に思いを向けることができ(作意) そこからなにかしらの感情が起こり(受) 言葉や概念にあてはめて理解しようとし(想) 意思をもって行動しようとする(思)のです。 私たちがこのようないとなみを繰り返すことそれ自体は 苦楽の感覚を離れた平静な性質のことであり(捨) 倫理的な善悪をはなれているし けがれによって覆われているわけでもない(無覆無記)のですが しかしこのような思考する能力を持っているがゆえに 私たちの迷いが起こってきます。 究極的に迷いを離れた境地(阿羅漢)に達するまで 私たちは思考することと向き合い続けていかねばならないのです。 ________________________________________ (4) アーラヤ識によって生み出された私たちの心は それ自体としてはけがれたものではない(無覆無記(むぶくむき))。 しかしながら私たちは諸行無常のことわりから目を背け 自分自身や世界への執着をもって思いめぐらす(思量(しりょう))から 瞑想によっていわゆる無の境地(滅定(めつじょう))に達するなどのことがないかぎり けがれをともなった自我意識(末那(まな))に追い立てられて 日々を過ごすことになるのである。 詳しく読む(4) 自我意識とはなにか 漢訳書き下し 次は第二能変(のうへん)なり。この識を末那(まな)と名づく。 彼(かれ)に依りて転じて彼を縁ず。思量するをもって性(しょう)とも相(そう)とも為す。 四の煩悩と常に倶(とも)なり。謂く我癡(がち)と我見(がけん)と 并(なら)びに我慢(がまん)と我愛(があい)となり。及び余の触(そく)等と倶なり。 有覆無記(うぶくむき)に摂(おさ)む。 所生(しょしょう)に随って繋(け)せらる。 阿羅漢(あらかん)と滅定(めつじょう)と出世道(しゅっせどう)とには有ること無し。 現代ロックバージョン どういうわけか私たちには思考する機能があって 私たちの前には思考の対象となる世界がある。 いかにも思考しやすい土壌があるところに いわゆる自我意識(末那)が芽生えてきます。 思考の幻を生み出す(能変)第二の原因です。 自我意識はあれこれと思いめぐらす(思量)ことを その本質(性)としています。 しかし常に四つの煩悩に駆り立てられて 感覚器官を働かせ(触)たりしているから 自分自身や世界をありのままに見ているつもりでありながら 結果的に色眼鏡にうつった像(相)を見ているのです。 四つの煩悩とは あらゆるものは移ろいゆくという諸行無常のことわりは 私たち自身にももちろんあてはまるという 目を背けたくなる事実からつい目を背け(我癡) むしろ自分自身へのとらわれや所有欲を芽生えさせ(我見) 美しくありたいとか良いものを持ちたいという欲求を持ち(我慢) 自分自身への執着をどんどん深めていく(我愛)ことです。 私たちの心がどれぐらい安らかであるかによって(所生に随って) これら煩悩の燃え上がり方も変わってきますが いずれにしても自我意識はたえず汚れています(有覆無記)。 究極的に迷いを離れた境地(阿羅漢)に至るか 瞑想によっていわゆる無の境地(滅定)に入るか この世ならぬ清らかな修行の道(出世道)を歩むか ――厳しい決意のなかに生きる以外に この自我意識の炎をしずめるすべはないのです。 ________________________________________ (5) 自我意識は眼など五つの感覚器官と脳を駆使して 対象(境(きょう))をとらえようとする。 そして対象をとらえるときには精神作用をともなう。 詳しく読む(5) 感覚器官も幻を生む 書き下し 次の第三能変(のうへん)は差別(しゃべつ)なること六種あり。 境(きょう)を了(りょう)するをもって性(しょう)とも相(そう)とも為す。 善と不善と倶非(くひ)となり。 現代ロックバージョン 執着に駆り立てられた自我意識の炎を消すことのないまま 私たちは六つの感覚器官を働かせて生きています。 これが思考の幻を生み出す(能変)第三の原因です。 眼によって色や形を把握し 耳によって音を聞き分け 鼻によって匂いを知り 舌によって味を感じ 手などによって感触をとらえ 脳によって存在するもの全般を考える。 ――これら六つの感覚器官は それぞれの対象(境)を把握(了)することを その本質(性)としていて 感覚器官から得られる像(相)をもとに 私たちは思考するのです。 感覚器官は対象に関する情報を正確につかむと思い込みがちですが 客観的な対象の把握など本当にありえるでしょうか。 たとえば「僧侶」という存在をイメージするときには これまでの「僧侶」とのかかわりによってその見え方は変わってきます。 自分の日々の生活を導いてくれる師に対して敬愛の念を抱く人もいるでしょう。 しかし敬愛の念を抱くどころか憎らしく思う人もいるでしょう。 善悪の感情やあるいは善悪いずれでもない(倶非)心のはたらきをともなって 感覚器官を用いているから対象を正確につかむことはできるはずもなく 好きなようにイメージを膨らませているのが本当のところなのです。 ________________________________________ (6) 精神作用(心所(しんじょ))にはたとえば善悪の感情がある。 悪なる感情というのは 手に入れた金銭や名誉などに喜びふけり(貪(とん)) 不愉快な想いを抱いてつい他者を憎み(瞋(じん)) 穏やかに生きていくために思索するすべを知らない(癡(ち))などであり この世の苦しみを増大させるものである。 これら悪なる感情をとどめて 安楽な世界を導いていくのが善なる感情である。 あるいはまた世俗的な善悪の価値判断を超えて ひたすら道を究めていくときの特別な精神作用(別境(べっきょう))がある。 詳しく読む(6) さまざまな精神作用 漢訳書き下し 此の心所(しんじょ)は遍行(へんぎょう)と別境(べっきょう)と善と煩悩と 随(ずい)煩悩と不定(ふじょう)となり。
皆、三の受(じゅ)と相応す。 初の遍行というは触(そく)等なり。
次の別境というは謂(いわ)く欲と 勝解(しょうげ)と念と定(じょう)と慧(え)となり。
所縁(しょえん)の事(じ)は不同なるをもってなり。
善というは謂く信と慚(ざん)と愧(ぎ)と無貧(むとん)等の三根(こん)と 勤(ごん)と安と不放逸と
行捨(ぎょうしゃ)と及び不害となり。 煩悩というは謂く貧(とん)と瞋(じん)と
癡(ち)と慢(まん)と疑(ぎ)と悪見(あっけん)となり。 随(ずい)煩悩というは
謂く忿(ふん)と恨(こん)と覆(ふく)と悩と嫉(しつ)と慳(けん)と 誑(おう)と
諂(てん)と害と?(きょう)と無慚(むざん)と及び無(むき)愧と 掉挙(じょうこ)と
?沈(こんじん)と不信(ふしん)と并(なら)びに懈怠(けたい)と 放逸(ほういつ)と
及び失念と散乱と不正知(ふしょうち)となり。 不定(ふじょう)という
は謂く悔(け)と眠と尋(じん)と伺(し)とぞ。二に各二あり。 現代ロックバージョン
私たちは善悪の感情などさまざまな精神作用(心所)をともないながら 六つの感覚器官をもちいて対象をとらえ 快、不快、あるいは快不快のいずれでもないと感受(三受)しています。 このことについて少し詳しく見てみましょう。 精神作用には六種があります。 先にもいちど触れていますが まず1つ目には私たちが思考する存在であるかぎり ずっとともなっているもの(遍行)です。 つまり目や耳などの感覚器官はたえず色や音などに反応し(触) その色や音に思いを向けることができ(作意) そこからなにかしらの感覚が起こり(受) 言葉や概念にあてはめて理解しようとし(想) 意思をもって行動しようとする(思)のです。 2つ目には迷いの日常において対象(所縁)としているものではなく 迷いなき世界へと向かうための特別な対象なものを とらえようとしたときの精神作用(別境)です。 迷いなき世界に向かうためには3つの精神が求められます。 未来にはるかな目標を立ててそれを実現しようと願って精進し(欲) 先師や経典の言葉についてひとつずつ確信をえて(勝解) 意識を散乱させることなくこれまでの習熟に思いをとどめる(念)ことです。 またこれら3つの感情が深められていくとおのずから 意識が統一された三昧の状態(定)がえられ 明晰に物事を見極められるようになります(慧)。 3つ目には世俗的な暮らしのなかの善なる感情で 迷いなき世界へと向かう精神作用(別境)を導く因となるものです。 穏やかで静かな状態になり(信) みずからを省みて反省し(慚) 他者からの評判をおそれて罪過を恥じらい(愧) 金銭や名誉などに執着せず(無貪) 危害を加えてくるものにも慈しみを注ぎ(無瞋) 正しいことわりを受けとめ(無痴) これら善なる感情のもとに向上心を抱き(勤) 身心が柔軟にはたらくようにたもち(安) 散漫にならず集中する(不放逸)とともに とらわれを離れて静かな状態にいたり(行捨) 生きとし生けるものに慈愛をそそぐ(不殺生) ――これら十一種が善なる感情なのです。 一方で世俗的な日常のなかには悪なる感情もわきあがってきます。 4つ目にあげられるのは六種の根本的な煩悩です。 手に入れた金銭や名誉などに喜びふけり(貪) 不愉快な想いを抱いてつい他者を憎み(瞋) 穏やかに生きていくために思索するすべを知らず(癡) 他愛もないはずの自分にうぬぼれを抱き(慢) 正しいことわりを疑って雑念にとらわれ(疑) ありもしない自分らしさにこだわる(悪見)。 ――これら六種が悪なる感情なのです。 5つ目にはこれら根本的な煩悩につきまとう多くの感情(随煩悩)です。 損失をこうむることにいらだち(忿) 許す気になれず怒り続け(恨) 悪行をしても素直に認めず(覆) 激しい言葉で罵倒し(悩) 自分よりも優れている人を妬み(嫉) 施しの感情を持たず(慳) 他者を欺いて自分の過ちを隠し(誑) 外見の見せかけだけをつくろって(諂) 生き物を殺したり危害を加えたりし(害) 自分自身の境遇におごりたかぶり(?) みずから反省する気持ちを持たず(無慚) 周囲を気にして恥じらうことなく(無愧) 意識がたかぶってそわそわし(掉挙) 意識がぼんやりして理解力を欠き(?沈) 正しいことわりを希求しようとせず(不信) 気力なく怠けてしまい(懈怠) 正しく実践する意欲を持たず(放逸) 集中力を欠いてしまい(失念) 欲望にかられて意識が乱れ(散乱) 正しくものごとを知らずに行動してしまう(不正知)。 ――これら二十種の感情が煩悩に付随して起こるのです。 最後に6つ目は善でも悪でもありうる精神作用(不定)です。 自分がなした行為にたいして後悔を抱く(悔)ときや 眠気におそわれて意識が働かなくなる(眠)ときや 浅い次元での思考(尋)や深い次元での思考(伺)を行うときの精神は それが煩悩につきまとわれているうかどうかによって 善とも悪ともいえます。 私たちはこのようにさまざまな精神作用をともなっているのです。 ________________________________________ (7) 私たちは五感のうちその時々に必要な感覚のみを用いる。
しかし脳だけは深い瞑想(無心の二定(にじょう))にあるときや 睡眠中などをのぞいてたえず働く。 詳しく読む(7) 脳は常に働く 漢訳書き下し 根本識(こんぽんしき)に依止す。五識は縁に随って現(げん)じ
或るときには倶(とも)なり。或るときには倶ならず。濤波(とうは)の水に依るが如し。
意識は常に現起す。無想天(むそうてん)に生じたると
及び無心の二定(にじょう)と睡眠と悶絶とを除く。 現代ロックバージョン 川の水面に石を投げてみると波がたつ。 たくさん投げるとそれだけ波がたつ。 しかし川の水はとうとうと流れていく。 思考する存在(根本識)としてある私たちは 川の水面の波のごとくに 五感から情報(五識)を刻々と受け取って それを脳(意識)に伝達しています。 五感が働いていないときにも脳は常に働いています。 脳の働きを持たない存在(無想天)として生まれたのでないかぎり 瞑想によって脳の働きに振り回されなくなったときや さらに瞑想を深めて自我意識へのとらわれもなくして 無の境地(滅尽定)に入ったとき(無心の二定=無想定・滅尽定)や 深い眠りについているとき(睡眠)や 気を失うほど苦しんでいるとき(悶絶)を除けば 脳は常に働いています。 ________________________________________ (8) 無の境地に入ったなどをのぞけば 常に五感の知覚と脳の働きによって
情報を得て それをさまざま思いめぐらしつづけているのだから
自分自身もこの世界もすべて思考の産物(一切唯識(いっさいゆいしき))にすぎない。
しかし現実にはその思考の産物への執着から離れられず
善悪などの行為(諸業(しょごう))をなし続けるから
私たち自身やこの世界の未来を生み出す力となり(習気(じっけ))
その力はいつしか縁がととのったときに苦楽の果を結ぶ(異熟(いじゅく))。 詳しく読む(8) すべては思考の産物だと知る 書き下し 是(こ)の諸識(しょしき)は転変(てんぺん)して分別(ふんべつ)たり。
所分別(しょふんべつ)たり。 此(これ)に由(よ)りて彼(かれ)は皆無し。
故に一切唯識(いっさいゆいしき)のみなり。 一切種識(いっさいしゅしき)の
是(かく)の如(ごと)く是の如く変(へん)ずるに由り 展転力(てんでんりき)を以(もっ)ての故に
彼彼(ひひ)の分別生ず。 諸業(しょごう)の習気(じっけ)と二取(にしゅ)の習気と倶(とも)なるに由りて
前の異熟(いじゅく)既に尽くれば復(ま)た余(よ)の異熟を生ず。 現代ロックバージョン すでに述べたとおりですが そもそも私たちは思考する存在であり 自我意識によって世界と自分を眺め 感覚器官がたえず働くことによって 思考(識)が生成しては変化して(転変)いきます。 思考の中においては私たち自身のイメージ(分別)が 世界のイメージ(所分別)をとらえたつもりになっていますが 実際には思考が生み出したイメージ(分別)に執着しているにすぎません(一切唯識)。 私たち自身というものも世界というものも存在するとは言い切れないのです。 アーラヤ識という私たちのあらゆる迷いを生み出す源泉(一切種識)は このように感覚器官の知覚や自我意識にたえざる変化をもたらします。 そして感覚器官の知覚や自我意識のはたらきによって 自分自身と世界(二取)にとらわれた私たちの行為(諸業)は 未来に対してなにかしらの影響力(習気)を与えますが それは私たちのあずかり知らぬところで縁を結んでいくものであり どのようにアーラヤ識という源泉から未来が熟成されてくる(異熟)かは まったくわからないのです。 後編はこちら 2019.09.24 『唯識三十頌』現代ロックバージョン(後編) あらかじめ前編を読んだうえでお読みください。前編はこちらに掲載しています。 (1) 思考の幻にさまよう私たちの姿について これまで見てきたところをまとめると " (a) 迷いの現実:私たちは思考のフィルターを通して見た幻をリアルだと思い込む。 " (b) 迷いの原因:その幻は自分自身の趣味嗜好が投影されてできているにすぎない。 " (c) 迷いからの解放:思考のフィルターから解放されればおのずからリアルに捉えられる。 という三つのことわりになる。 詳しく読む(1) 三つのことわり 漢訳書き下し 彼彼(ひひ)の遍計(へんげ)に由(よ)りて種種の物を遍計す。
此の遍計所執(しょしゅう)の自性(じしょう)は有るところ無し。
依他起(えたき)の自性の分別(ふんべつ)は縁に生(しょう)ぜらる。
円成実(えんじょうじつ)は彼(かれ)において常に前のを遠離(おんり)せる性なり。
故に此(これ)と依他(えた)とは異(い)にも非ず不異(ふい)にも非ず。
無常等の性の如し。 此を見ずして彼(かれ)をみるものには非ず。 現代ロックバージョン かくして三つのことわりが成立することになります。 遍計所執性へんげしょしゅうしょう:思考のなかのイメージは世界や自分自身を好き勝手に 思い描いている(遍計)幻ですから 本質(自性)としてはそのとおりには存在しないのです。 依他起性えたきしょう:私たちはさまざまな精神作用や自我意識が原因(縁)となって 世界や自分自身を思い描いている(分別)にすぎません。 円成実性えんじょうじつしょう:したがって仏教において目指すものは 思考の幻を成り立たせるこれら原因を常に離れて あるがままの完全(円成実)なる境地に入っていくことなのです。 あらゆるものは移ろいゆきますが(無常) 移ろいゆくということわりは不変です。 同じようにあらゆる迷いはたえず生み出されていきますが(依他起) 迷いが生み出されていくということわりは迷いを離れています(円成実)。 依他起性と円成実性は異なる性質のものでありますが(不異にも非ず) 完全に異なるとも言い切れないのです(異にも非ず)。 たとえば暗闇のなかで蛇だと思ったものが 灯りをつけてみると実は縄だったと気づくように 迷いの奥底にある真実(円成実)に照らされたときにはじめて 迷いを生み出すことわり(依他起)を知るでしょう。 (2) ところで、これらのことわりは以下のごとくにも理解される。 " (a') 迷いの現実:思考のなかの幻はリアルではない。 " (b') 迷いの原因:私たちのフィルターなくしてひとりでには幻は生じない。 " (c') 迷いからの解放:あるがままにこの世に処するときには何ものにもとらわれない。 したがって、これらのことわりは、諸法無我、 すなわち、あらゆるものには自我と言われるような不変の実体は存在しない という本質を理論的に理解して実践していくための枠組みなのである。 詳しく読む(2) 実在へのとらわれを離れる 漢訳書き下し 即ち此(こ)の三性(しょう)に依りて彼(か)の三無性(むしょう)を立つ。
故に仏、密意をもって一切の法は無性なりと説きたもう。 初のには即ち相(そう)無性をいう。
次のには無自然(むじねん)の性をいう。 後のには前の所執(しょしゅう)の我法(がほう)を
遠離(おんり)せるに由る性をいう。 此れは諸法の勝義(しょうぎ)なり。
亦(また)は即ち是れ真如(しんにょ)なり。 常如(じょうにょ)にして
其の性たるが故に即ち唯識(ゆいしき)の実性(じっしょう)なり。 現代ロックバージョン 先に三つのことわりについて説きました。それはすなわち、 " (1) 遍計所執性 私たちは思考のなかの幻にとらわれて生きています。 " (2) 依他起性 その幻は自我意識にとらわれて世界と自分自身を見るがゆえに生み出されます。 " (3) 円成実性 思考の幻を生み出す原因を離れればおのずからそこに平穏な境地があります。 見方を変えたときにはこれらのことわりは あらゆるものは実体を持たないことを三つの観点から示すものでもあります。 " (1) 相無自性 思考のなかの幻は実体をもちません(相無性)。 " (2) 生無自性 世界(法)と自分自身(我)は自我意識という原因なくしてひとりでには存在しません(無自然の性)。 " (3) 勝義無自性 あるがままにこの世に処する境地においては 世界と自分自身へのとらわれを完全に離れています。 したがって、この三つのことわりは、仏教がその最初の頃から説いてきた諸法無我、 すなわちあらゆるものは無我であり実体を持たない(無性)ことを 少し違ったかたちで示しているにすぎないのです。 いま私が述べている学説はお釈迦さまの教えに違背するものではありません。 だからこれはまさしくあらゆるものに通底する正しいことわり(勝義)であり 同時にまたあるがままの姿(真如)でもあります。 私たちが思考へのとらわれを離れてあるがままに処することを望むならば これらのことわりは私たちのあらゆる日常を貫く道しるべとなります。 またその本質(実性)を端的にいえばすべては思考にすぎない(唯識)ということです。 (3) 思考の幻にさまよう姿に気づいた私たちが幻へのとらわれを離れてあるがままの境地をめざそうと願うのはたやすくない。 " 第一段階:これらのことわりを理解してはいるものの自分の姿を改める気には至らない。 " 第二段階:思考のなかの幻から解放されたいと願って努力を重ねていく。 " 第三段階:幻から解放される瞬間がおとずれてその瞬間にすべてのことわりを体感する。 しかし、幸せな瞬間は長く続かず、すべてのことわりを体得するには至らない。 " 第四段階:正しいことわりを体感していよいよ自分自身の姿を徹底して改善していく。 " 第五段階:修行の結果、自らのあらゆる迷いを離れるとともに人々を教え導く法を体現する。 という具合に順を追って歩みを進めていくとよい。 そうすれば着実に自分自身のあり方を改めていくことができるのである。 詳しく読む(3) 五つの修行のステージ 漢訳書き下し 乃(いま)し未(いま)だ識を起こして唯識(ゆいしき)の性(しょう)に住(じゅう)せんと
求めざるに至るまでは 二取(にしゅ)の随眠(ずいめん)に於(おい)て猶(なお)未だ伏(ふく)し滅すること能(あた)わず。
現前(げんぜん)に少物(しょうもつ)を立てて是(こ)れ唯識の性なりと謂(い)えり。
有所得(うしょとく)なるを以(もっ)ての故(ゆえ)に実に唯識に住するには非(あら)ず。
若(もし)し時に所縁(しょえん)に於て智すべて無所得(むしょとく)なれば 爾(そ)の時に唯識に住す。
二取の相(そう)を離れたるが故なり。 無得(むとく)なり。不思議なり。是れ出世間智(しゅっせけんち)なり。
二の麁重(そじゅう)を捨(しゃ)したるが故に便(すなわ)ち転依(てんね)を証得(しょうとく)す。
此(こ)れは即ち無漏界(むろかい)なり。不思議なり。善なり。常なり。 安楽なり。
解脱身(げだつしん)なり。大牟尼(だいむに)なるを法と名づく。 現代ロックバージョン 唯識を体得して幻から解き放たれていくステップは下記の通りです。 第1ステージ(資糧位) まずはすべては思考の産物にすぎない(唯識)ことをを理解しましょう。 とはいえ理解することと完全に体得することは別物です。 この段階では世界があって自分がいる(二取)という思考を 潜在的に持っている(随眠)ままです。 修行の第2ステージ(加行位) すべては思考の産物にすぎないということの理解が進み これを体得しようという気力に満ちて修行にはげみます。 しかしながら思考のなかにはあいかわらず 自我意識によって生み出された幻への 執着が依然として残っている(有所得)状態です。 修行の第3ステージ(通達位) 修行を重ねていくと思考の対象(所縁)となるものを 理解(智)しようという執着が完全になくなる(無所得)瞬間が訪れます。 このときにはじめて思考する対象も思考する自分もなくなり すべて思考の産物にすぎないということわりを体感するのです。 修行の第4ステージ(修習位) 先のステージで正しいことわりを体感することができた瞬間は 執着を完全にはなれた(無得)不可思議(不思議)な境地に他なりません。 この瞬間に世俗的な知見とはまるで違う知の地平(出世間智)が開かれてきます。 しかしながらはるか昔からあやまった考えとくもった心を持って生きてきたことの影響が 私たちの奥底に習慣化されて根強く残っています。 これらの二種の障害(麁重)をたむまぬ努力の果てに絶やしてしまうとき 私たちの存在のありかたは根本的に変わります(転依)。 修行の第5ステージ(究竟位) 私たちのありかたが根本的にかつ永続的に変わったとき そこにあるのは迷いなき世界(無漏界)であり 言語を超えた不可思議な世界(不思議)であり 極めて安穏な(善)であり 生滅のことわりを離れて(常)おり 悩むことなく寂静(安楽)なる世界です。 二種の障害のうちくもった心をすべて断ち切って 解脱して自由になった境地(解脱身)を享受するだけでも 平穏な境地に至れるかもしれません。 しかし大乗仏教はあらゆる人々と平穏に生きるためのものですから 正しいことわりを知り尽くして迷える人々を教え導こうと志してください。 それが聖者(大牟尼)のごとく世界に遍在する真理(法)として生きることです。