第3節 信仰の道(323)

1.
と教えと教団に帰依する者を、仏教の信者という。 また、仏教の信者は、次に説く戒律と信仰と布施[ふせ]智慧[ちえ]とを持っている。

 生きものの命を取らず、盗みをなさず、よこしまな愛欲を犯さず、偽りを言わず、酒を飲まない。この五つを守るのが信者の戒である。

 仏の智慧を信ずるのが信者の信であり、貪[むさぼ]り、もの惜しみする心を離れて常に他人への施しを好むのが信者の布施である。さらに、因と縁の道理を知り、ものみながうつり変わる道理を知るのが、信者の智慧である。

 東に傾いている木は、いつ倒れても必ず東に倒れるように、平生、仏の教えに耳を傾けている信心の厚いものは、いつ、どのように命を終わっても、仏の国に生まれることに定まっている。


2.いま、仏教の信者とは、仏と教えと教団とを信ずる者をいう。
 仏とはさとりを開いて、人びとを恵み救う人をいう。教えとは、その仏の説かれた教えをいう。教団とは、その教えによって正しく修行する和合の団体をいう。
 仏と教えと教団の、この三つは、三つでありながら、離れた三つではない。仏は教えに現われ、教えは教団に実現されるから、三つはそのまま一つである。

 だから、教えと教団を信ずることは、そのまま仏を信ずることであり、仏を信ずれば、おのずから教えと教団とを信ずることになる。
 したがって、すべての人は、ただ仏を信ずること一つによって救われ、またさとりが得られる。仏はすべての人を、自分のひとり子のように愛するから、人もまた子が母を思うように、仏を信ずれば、現実に仏を見、仏の救いが得られる。
 仏を念ずる者は、常に仏の光明におさめられ、また自然に仏の香気に染まる。


3.世に仏を信ずることほど大きな利益をもたらすものはない。もしただ一度だけでも仏の名を聞いて、信じ喜ぶならば、 この上ない大きな利益を得たものといわなければならない。
 だから、この世界に満ちみちている炎の中に入って行ってでも、仏の教えを聞いて信じ喜ばなければならない。
 まことに、仏に会うことは難く、その教えを説く人に会うことも難く、その教えを信ずることはさらに難い。
 いま、会い難いこの教えを説く人に会い、聞き難いこの教えを聞くことができたのであるから、この大きな利益を失わないように、仏を信じ喜ばなければならない。


4.信こそはまことに人の善き伴侶[はんりょ]であり、この世の旅路の糧[かて]であり、この上ない富である。
 信は仏の教えを受けて、あらゆる功徳を受けとる清らかな手である。
 信は火である。人びとの心の汚れを焼き清め、同じ道に入らせ、その上、仏の道に進もうとする人びとを燃えたたせるからである。
 信は人の心を豊かにし、貪[むさぼ]りの思いをなくし、おごる心を取り去って、へりくだり敬うことを教える。こうして、智慧[ちえ]は輝き、行いは明らかに、困難に破れず、外界にとらわれず、誘惑に負けない、強い力が与えられる。
 信は、道が長く退屈なときに励ましとなり、さとりに導く。
 信は、常に仏の前にいるという思いを人に与え、仏に抱かれている思いを与え、身も心も柔らかにし、人びとによく親しみなじむ徳を与える。


5.この信のあるものは、耳に聞こえるどんな声でも、仏の教えとして味わい、喜ぶ智慧が得られ、どんなできごとでも、すべてみな因と縁によって現われたものであることを知って、すなおにこれを受け入れる智慧が得られる。
 かりそめのたわごとにすぎないこの世のできごとの中にも、永久に変わらないまことのあることを知って、栄枯盛衰[えいこせいすい]の変わりにも、驚かず悲しまない智慧[ちえ]が得られる。

 信には、懺悔[ざんげ]と、随喜[ずいき]と、祈願の三つのすがたが現われてくる。
 深くおのれを省みて、自分の罪と汚れを自覚し、懺悔する。他人の善いことを見るとわがことのように喜んでその人のために功徳を願う心が起きる。またいつも仏とともにおり、仏とともに行い、仏とともに生活することを願うのである。
 この信ずる心は、誠の心であり、深い心であり、仏の力によって仏の国に導かれることを喜ぶ心である。
 だから、すべての所でたたえられる仏の名を聞いて、信じ喜ぶ一念のあるところにこそ、仏は真心こめて力を与え、その人を仏の国に導き、ふたたび迷いを重ねることのない身の上にするのである。


6.この、仏を信ずる心は、人びとの心の底に横たわっている仏性[ぶっしょう]の表われである。なぜかといえば、仏を知るものは仏であり、仏を信ずるものは仏でなければならないからである。
 しかし、たとえ仏性があっても、仏性は、煩悩[ぼんのう]の泥[どろ]の底深く沈んで、成仏の芽を吹き出し、花開くことはできない。貪[むさぼ]り・瞋[いか]りの煩悩の逆巻く中に、どうして仏に向かう清い心が起こるであろうか。

 エーランダという毒樹の林には、エーランダの芽だけが吹き出して、チャンダナ(栴檀[せんだん])の香木は生えることはない。エーランダの林にチャンダナが生えたならば、これはまことに不思議である。
 いま人びとの胸のうちに、仏に向かい、仏を信ずる心の生じたのも、これと同じく不思議なことといわなければならない。
 だから、人びとの仏を信ずる信の心を無根の信という。無根というのは、人びとの心の中には信の生え出る根はないが、仏の慈悲の心の中には、信の根があることをいうのである。


7.信はこのように尊く、まことに道のもとであり功徳の母であるが、それにもかかわらず、この信が道を求める人にも円満に得られないのは、次の五つの疑いが妨げているからである。

 一つには、仏の智慧を疑うこと。

 二つには、教えの道理に惑うこと。

 三つには、教えを説く人に疑いを持つこと。

 四つには、求道の道にしばしば迷いを生ずること。

 五つには、同じく道を求める人びとに対して、慢心から相手を疑って、いらだつ思いがあるためである。

 まことに世に疑いほど恐ろしいものはない。疑いは隔[へだ]てる心であり、仲を裂く毒であり、互いの生命を損なう刃[やいば]であり互いの心を苦しめる棘[とげ]である。
 8.だから信を得た者は、その信が、遠い昔に、仏の慈悲によって、すでにその因縁が植えつけられていたものであることを知らなければならない。
 人の胸の中にひそむ疑いの闇[やみ]を破って、信の光をさし入れ給う仏の手のあることを知らなければならない。
 信を得て、遠い昔に仏が与えられた深い因縁を喜び、厚い仏の慈悲を喜ぶ者は、この世の生活そのままに、仏の国に生まれることができるのである。

 まことに、人の生まれることは難く、教えを聞くことも難く、信を得ることはさらに難い。だから、努め励んで、教えを聞かなければならない。

当ページの典拠
  1.パーリ、相応部55-21・22
  2.パーリ、増支部5-32
  2.維摩経
  2.首楞厳経
  3.無量寿経下巻
  4.パーリ、相応部1-4-6
  4.華厳経33、離世間品
  5.華厳経24、十忍品
  5.金光明経4、金鼓品
  5.観無量寿経
  5.無量寿経
  6.大般涅槃経
  7.パーリ、中部2-16、心荒野経
  8.無量寿経下巻