第5章 仏の救い

第1節 仏の願い(251)

1.人びとの生活は、すでに説いたように、その煩悩[ぼんのう]は断ちにくいものであり、また、初めもわからない昔から、山のような罪業[ざいごう]をになって、迷いに迷いを重ねてきている。だから、たとえ仏性[ぶっしょう]の宝をそなえていても、開き現わすことは容易ではない。
 この人間の有様を見通されたは、はるかな昔に、ひとりの菩薩[ぼさつ]となり、人びとを哀れみ、あらゆる恐れを抱くもののために大慈悲者となろうとして、次のような数多くの願いを起こした。たとえ、この身はどんな苦しみの毒の中にあっても必ず努め励んでなしとげようと誓った。

 (a)たとい、わたしが仏と成ったとしても、わたしの国に生まれる人びとが、確かに仏と成るべき身の上となり、必ずさとりに至らないならば、誓ってさとりを開かないであろう。

 (b)たとい、わたしが仏と成ったとしても、わたしの光明に限りがあって、世界のはしばしまで、照らすことがないならば、誓ってさとりを開かないであろう。

 (c)たとい、わたしが仏と成ったとしても、わたしの寿命に限りがあって、どんな数であってもかぞえられるほどの数であるならば、誓ってさとりを開かないであろう。

 (d)たとい、わたしが仏と成ったとしても、十方の世界のあ らゆる仏が、ことごとく称賛して、わたしの名前を称[とな]えないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。

 (e)たとい、わたしが仏と成ったとしても、十方のあらゆる人びとが真実の心をもって深い信心を起こして、わたしの国に生まれようと思って、十返[へん]わたしの名前を念じても、生まれないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。

 (f)たとい、わたしが仏と成ったとしても、十方のあらゆる人びとが、道を求める心を起こし、多くの功徳を修め、真実の心をもって願いを起こし、わたしの国へ生まれようと思っているのに、もしもその人の寿命が尽きるとき、偉大な菩薩 たちにとりまかれて、その人の前に現われないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。

 (g)たとい、わたしが仏と成っても、十方のあらゆる人びとが、わたしの名前を聞いて、わたしの国に思いをかけ、多くの功徳のもとを植え、心をこめて供養[くよう]して、わたしの国に生まれようと思っているのに、思いどおりに生まれることができないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。

 (h)わたしの国に来て生まれる者は、「次の生には仏と成るべき位」に到達するであろう。そして、彼らは思いのままに人びとを教え導き、それぞれの願いに従って、数多くの人びとを導いてさとりに入らせ、大悲の功徳を修めることができるであろう。たとい、わたしが仏と成ったとしても、もしもそれができないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。

 (i)たとい、わたしが仏と成ったとしても、十方の世界のあらゆる人びとが、わたしの光明に触れて、身も心も和らぎ、この世のものよりもすぐれたものになるようでありたい。もしもそうでないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。

 (j)たとい、わたしが仏と成ったとしても、十方の世界のあらゆる人びとが、わたしの名前を聞いて、生死[しょうじ]にとらわれることのない深い信念と、さえぎられることのない深い智慧[ちえ]とを得られないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。

 わたしは、いま、このような誓いを立てる。もしもこの願 いを満たすことができないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。限りのない光明の主となり、あらゆる国々を照 らして世の中の悩みを救い、人びとのために、教えの蔵を開いて、広く功徳の宝を施すであろう。


2.このように願いを立てて、はかり知れない長い間功徳を積み、清らかな国を作り、すでにはるかな昔に仏と成り、現にその極楽世界にいて、教えを説いている。
 その国は清く安らかで、悩みを離れ、さとりの楽しみが満ちあふれ、着物も食物もそしてあらゆる美しいものも、みなその国の人びとの心の思うままに現われる。快い風がおもむろに吹き起こって、宝の木々をわたると、教えの声が四方に流れて、聞くものの心の垢[あか]を取り去っている。
 また、その国にはさまざまな色の蓮[はす]の花が咲きにおい、花ごとにはかり知れない花びらがあり、花びらごとにその色の光が輝き、光はそれぞれ仏の智慧の教えを説いて、聞く人びとを仏の道lこ安らわせている。


3.いま十方のあらゆる仏たちから、この仏のすぐれた徳がたたえられている。
 どんな人でも、この仏の名前を聞いて、信じ喜ぶ一念で、その仏の国に生まれることができるのである。
 その仏の国に至る人びとは、みな寿命に限りがなく、また自らほかの人びとを救いたいという願いを起こし、その願いの仕事にいそしむことになる。
 これらの願いを立てることによって、執着を離れ、無常をさとる。おのれのためになると同時に他人をも利する行為を実践し、人びととともに慈悲に生き、この世俗の生活の足かせや執着にとらわれない。
 人びとはこの世の苦難を知りつつ、同時にまた、仏の慈悲の限りない可能性をも知っている。その人びとの心には、執着がなく、おのれとか、他人とかの区別もなく、行くも帰るも、進むも止まるも、こだわるところがなく、まさに心のあるがままに自由である。しかも、仏が慈悲をたれた人びととともにとどまることを選ぶのである。
 だから、もしもひとりの人がいて、この仏の名前を聞いて、喜び勇み、ただ一度でもその名を念ずるならば、その人は大いなる利益を得るであろう。たとえこの世界に満ちみちている炎の中にでも分け入って、この教えを聞いて信じ喜び、教えのとおりに行わなければならない。
 もしも、人びとが真剣にさとりを得ようと望むなら、どうしても、この仏の力によらなければならない。仏の力がなくてさとりを得ることは、普通の人間のできるところではない。


4.いま、この仏は、ここよりはるか遠くのところにいるのではない。その仏の国ははるか遠くにあるけれども、仏を思い念じている者の心の中にもある。
 まず、この仏の姿を心に思い浮かべて見ると、千万の金色に輝き、八万四千の姿や特徴がある。一つ一つの姿や特徴には八万四干の光があり、一つ一つの光は、一つ残らず、念仏する人を見すえて、包容して捨てることがない。

 この仏を拝み見ることによって、また仏の心を拝み見ることになる。仏の心とは大いなる慈悲そのものであり、信心を持つ者を救いとるのはもちろん、仏の慈悲を知らず、あるいは忘れているような人びとをも救いとるのである。
 信あるものには仏は仏と一つになる機会を与える。この仏を思い念ずると、この仏は、あらゆるところに満ちみち
 だからこそ、心に仏を思うとき、その心は、実に円満な姿や特徴をそなえた仏であり、この心は仏そのものとなり、こ の心がそのまま仏となる。
 清く正しい信心をもつものは、心が仏の心そのままであると思い描くべきである。


5.仏の体にはさまざまの相[すがた]があり、人びとの能力に応じて現われ、この世界に満ちみちて、限りがなく、人の心の考えおよぶところではない。それは宇宙、自然、人間のそれぞれの姿の中で仰ぎ見ることができる。
 しかし、仏の名を念ずるものは、必ずその姿を拝むことができる。この仏は常にふたりの菩薩[ぼさつ]を従えて、念仏する人のもとに迎えに来る。仏の化身はあらゆる世界に満ちみちているけれども、信心をもつ者だけが、それを拝み見ることができる。
 仏の仮の姿を思うことさえ、限りない幸福を得るのであるから、真実の仏を拝み見ることの功徳には、はかり知れないものがある。


6.この仏の心は、大いなる慈悲智慧[ちえ]そのものであるから、どんな人をも救う。
 愚かさのために恐ろしい罪を犯し、心の中では貪[むさぼ]り、瞋[いか]り、愚かな思いを抱[いだ]き、口では偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使 い、身では殺生[せっしょう]し、盗み、よこしまな愛欲を犯すという十悪 をなす者は、その悪い行いのために、永遠に未来の苦しみを受けることとなる。

 その人の命の終わるとき、善い友が来てねんごろに、「あなたはいま苦しみが迫っていて、仏を思うこともできないであろう。ただこの仏の名を称[とな]えるがよい。」と教える。
この人が心を一つにして仏の名を称えると、ひと声ひと声のうちに、はかり知れない迷いの世界に入る罪を除いて救う。

 もし人が、この仏の名を称[とな]えるならば、永遠に尽きること のない迷いの世界に入る罪をも除くのである。ましてや一心に思うに至っては、なおさらのことである。
 まことに念仏する人は、白蓮華[びゃくれんげ]のようなすばらしい人である。慈悲智慧[ちえ]との二菩薩[ぼさつ]はその友となり、また、常に道を離れることなく、ついに浄土に生まれることになるであろう。
 だから、人びとはこのことばを身につけなければならない。 このことばを身につけるということは、この仏の名を身につけることである。



当ページの典拠
   1.2.無量寿経上巻(WikiDharma) (e)は「阿弥陀仏 第十八願」
   3.無量寿経下巻(WikiDharma)
   4〜6.観無量寿経(WikiDharma) 浄土系Links@Page