第4章 煩悩

第1節 心のけがれ(241)

1.
仏性[ぶっしょう]を覆いつつむ煩悩[ぼんのう]に二種類ある。
 一つは知性の煩悩である。二つには感情の煩悩である。
 この二つの煩悩は、あらゆる煩悩の根本的な分類であるが、このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば、一つには無明[むみょう]、二つには愛欲となる。
 この無明と愛欲とは、あらゆる煩悩を生み出す自在の力を持っている。そしてこの二つこそ、すべての煩悩の源なのである。
 無明とは、無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、 見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、また転じて、死を願うような欲望ともなる。
 この無明と愛欲とをもとにして、これから貪[むさぼ]り、瞋[いかり]り、愚かさ、邪見[じゃけん]、恨[うら]み、嫉[ねた]み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。


2.[むさぼ]りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。瞋[いか]りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。愚かさはその無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないこととを知らないことである。邪見は正しくない教えを受けて、正しくない考えを持つことから起きる。
 この貪りと瞋りと愚かさは、世の三つの火といわれる。貪りの火は欲にふけって、真実心を失った人を焼き、瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害[そこ]なう人を焼き、愚かさの火は、心迷っての教えを知らない人を焼く。

 まことに、この世は、さまざまの火に焼かれている。貪りの火、瞋りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂[うれ]い・悲しみ・苦しみ・悶[もだ]えの火、さまざまの火によって炎炎[えんえん]と燃えあがっている。これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身[しん]・口[く]・意[い]の三つの悪い行為に導くことになる。しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥[おと]し入れる。


3.貪りは満足を得たい気持ちから、瞋りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。貪りは罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。
 したがって、人びとは気に入ったものの姿を見聞きしては正しく思い、気に入らないものの姿を見ては慈しみの心を養い、常に正しく考えて、この三つの火を消さなければならない。もしも、人びとが正しく、清く、無私の心に満ちているならば、煩悩によって惑わされることはない。


4.貪り、瞋り、愚かさは熱のようなものである。どんな人でも、この熱の一つでも持てば、いかに美しい広びろとした部屋に身を横たえても、その熱にうなされて、寝苦しい思いをしなければならない。
 この三つの煩悩のない人は、寒い冬の夜、木の葉を敷物とした薄い寝床でも、快く眠ることができ、むし暑い夏の夜、閉じこめられた狭[せま]苦しい部屋でも、安らかに眠ることができる。
 この三つは、この世の悲しみと苦しみのもとである。この悲しみと苦しみのもとを絶つものは、戒めと心の統ーと智慧[ちえ]である。戒めは貪[むさぼ]りの汚れを取り去り、正しい心の統一は瞋[いか]りの汚れを取り去り、智慧は愚かさの汚れを取り去る。


5.人間の欲にははてしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きがとまらないのに似ている。彼はいつまでたっても満足することがなく、渇きはますます強くなるばかりである。
 人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。
 人は欲を決して満足させることができない。そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときには、気も狂うばかりとなる。
 人は欲のために争い、欲のために戦う。王と王、臣と臣、親と子、兄と弟、姉と妹、友人同志、互いにこの欲のために狂わされて相争い、互いに殺しあう。
 また人は、欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺[さぎ]し、姦淫[かんいん]する。ときには捕らえられて、さまざまな刑を受け、苦しみ悩む。
 また、欲のために、身[しん]・口[く]・意[い]の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入って、さまざまな苦しみを受ける。


6.愛欲は煩悩[ぼんのう]の王、さまざまの煩悩がそれにつき従う。
 愛欲は煩悩[ぼんのう]の芽をふく湿地、さまざまな煩悩を生ずる。愛欲は善を食う悪鬼、あらゆる善を滅ぼす。
 愛欲は花に隠れ住む毒蛇[どくじゃ]、欲の花を貪るものに毒を刺して殺す。愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻きつき、人の心の中の善のしるを吸い尽くす。愛欲は悪魔の投げた餌[え]、人はこれにつられて悪魔の道に沈む。

 飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みとを得るだけである。愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。
 一切れの肉を争って獣は互いに傷つく。たいまつを持って風に向かう愚かな人は、ついにおのれ自身を焼く。この獣のように、また、この愚かな人のように、人は欲のためにおのれの身を傷つけ、その身を焼く。


7.外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪りと瞋[いか]りと愚かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。
 心に貪[むさぼ]りと瞋りと愚かさがあるときは、口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、身には殺生[せっしょう]と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。

 意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。
 知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で、悪いことをするようになる。
 人の貪りも、愛欲も恐れも瞋りも、愚かさからくるし、人の不幸も難儀も、また愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。


8.人は煩悩[ぼんのう]によって[ごう]を起こし、業によって苦しみを招 く。煩悩と業と苦しみの三つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。
 この車輪の回転には始めもなければ終わりもない。しかも人はこの輪廻[りんね]から逃れるすべを知らない。永遠に回帰する輪廻に従って、人はこの現在の生から、次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。

 限りない輪廻の間に、ひとりの人が焼き捨てた骨を積み重ねるならば、山よりも高くなり、また、その間に飲んだ母の乳を集めるならば、海の水よりも多くなるであろう。
 だから、人には仏性[ぶっしょう]があるとはいえ、煩悩の泥[どろ]があまりにも深いため、その芽生えは容易でない。芽生えない仏性はあってもあるとはいわれないので人びとの迷いははてしない。


当ページの典拠
   1.勝鬘経
   2.パーリ、増支部2-11
   2.パーリ、本事経93 『本事経』(大正蔵765)
   2.パ−リ、律蔵大品
   3.パーリ、増支部3-68
   4.パーリ、増支部3-68
   5.方広大荘厳経
   5.パ−リ、律蔵大品1-6、転法輪経 『転法輪経』(大正蔵109)
   5.パーリ、中部2-14、苦蘊小経 訳
   6.大般涅槃経
   7.8.パーリ、本事経24