第3節 とらわれを離れて(233)

1.
このように、人には仏性[ぶっしょう]があるというと、それは他の教えでいう我[が]と同じであると思うかも知れないが、それは誤りである。
 我の考えは執着心によって考えられるけれども、さとった人にとっては、我は否定されなければならない執着であり、仏性は開き現わさなければならない宝である。仏性は我に似ているけれども、「われあり」とか「わがもの」とかいう場合の我ではない。
 我があると考えるのは、ないものをあると考える、さかさまの見方であり、仏性を認めないことも、あるものをないと考える、さかさまの見方である。
 例えば、幼子[おさなご]が病にかかって医師にかかるとすると、医師は薬を与えて、この薬のこなれるまでは乳を与えてはならないと言いつける。
 母は乳房ににがいものを塗[ぬ]り、子に乳をいやがらせる。後に、薬のこなれたときに、乳房を洗って、子の口にふくませる。母のこのふるまいは、わが子をいとおしむやさしい心からくるものである。
 ちょうどこのように、世の中の誤った考えを取り去り、我[が]の執着を取り去るために、我はないと説いたが、その誤った見方を取り去ったので、あらためて仏性があると説いたのである。
 我は迷いに導くものであり、仏性はさとりに至らせるものである。
 家に黄金[こがね]の箱を持ちながら、それを知らないために、貧しい生活をする人をあわれんで、その黄金の箱を掘り出して与えるように、仏は人びとの仏性[ぶっしょう]を開いて、彼らに見せる。


2.それなら、人びとは、みなこの仏性をそなえているのに、どうして貴賎[きせん]・貧富[ひんぷ]という差別があり、殺したり、欺かれたりするようないとわしいことが起こるのであろうか。
 例えば、宮廷[きゅうてい]に仕える一力士が、眉間[みけん]に小さな金剛[こんごう]の珠玉[しゅぎょく]を飾ったまま相撲をとって、その額[ひたい]を打ち、玉が膚[はだ]の中に隠れてできものを生じた。力士は、玉をなくしたと思い、ただそのできものを治すために医師に頼む。医師は一目見て、そのできものが膚の中に隠れた玉のせいであると知り、それを取り出して力土に見せた。
 人びとの仏性も煩悩[ぼんのう]の塵[ちり]の中に隠れ、見失われているが、善き師によってふたたび見いだされるものである。
 このように、仏性はあっても貪[むさぼ]りと瞋[いか]りと愚かさのために覆われ、[ごう]と報[むく]いとに縛られて、それぞれ迷いの境遇を受けるのである。しかし、仏性は実際には失われても破壊されてもおらず、迷いを取り除けばふたたび見いだされるものである。
 たとえの中の力士が、医師によって取り出されたその玉を見たように、人びとも、仏の光によって仏性を見ることであろう。


3.赤・白・黒と、さまざまに毛色の違った牝[め]牛でも、乳をしぼると、みな同じ白い色の乳を得るように、いかに境遇が異なり、生活が異なっていても、人びとはみな同じ仏性をそなえている。
 例えば、ヒマラヤ山に貴い薬があるが、それは深い草むらの下にあって、人びとはこれを見つけることができない。昔、 ひとりの賢人がいて、その香りを尋ねてありかを知り、樋[とい]を作って、その中に薬を集めた。しかし、その人の死後、薬は山にうもれ、樋の中の薬は腐り、流れるところによって、その味を異にした。
 仏性[ぶっしょう]も、このたとえのように、深く煩悩の草むらに覆われているから、人びとはこれを容易に見つけることができない。いまや仏はその草むらを開いて、彼らに示した。仏性の味は一つの甘さであるが、煩悩のためにさまざまの味を出し、人びとはさまざまな生き方をする。


4.この仏性は金剛石のように堅いから、破壊することはできない。砂や小石に穴をあげることはできても、金剛石に穴をあけることはできない。
 身と心は破られることがあっても、仏性を破ることはできない。
 仏性は、実にもっともすぐれた人間の特質である。世に、男はまさり女は劣るとするならわしもあるが、の教えにおいては、男女の差別を立てず、ただこの仏性を知ることを尊いとする。
 黄金の粗金[あらがね]を溶かして、そのかすを去り、錬[ね]りあげると貴い黄金になる。心の粗金を溶かして煩悩[ぼんのう]のかすを取り去ると、どんな人でも、みなすべて同一の仏性を開き現すことができる。


当ページの典拠
   1〜4.大般涅槃経