第2節 かくれた宝(232) 1.清浄の本心とは、言葉を変えていえば仏性[ぶっしょう]である。仏性とは、すなわち仏の種である。 レンズを取って太陽に向かい、もぐさを当てて火を求めるときに、火はどこから来るのであろうか。太陽とレンズとはあいへだたること遠く、合することはできないけれども、太陽の火がレンズを縁とし、もぐさの上に現われたことは疑いを入れない。また、もしも太陽があっても、もぐさに燃える性質がなければ、もぐさに火は起こらない。 いま、仏を生む根本である仏性のもぐさに、仏の智慧[ちえ]のレンズを当てれば、仏の火は、仏性の開ける信の火として、人びとというもぐさの上に燃えあがる。 仏はその智慧のレンズを取って世界に当てられるから、世をあげて信の火が燃えあがるのである。 2.人びとは、この本来そなわっているさとりの仏性にそむいて、煩悩[ぼんのう]のちりにとらわれ、ものの善し悪しの姿に心を縛られて、不自由を嘆いている。 なぜ、人びとは、本来さとりの心をそなえていながら、このように偽りを生み、仏性の光を隠し、迷いの世界にさまよっているのであろうか。 昔ある男が、ある朝鏡に向かつて、自分の顔も頭もないのにあわて驚いた。しかし、顔も頭もなくなったのではなく、それは鏡を裏返しに見ていて、なくなったと思っていたのであった。 さとりに達しようとして達せられないからといって苦しむのは愚かであり、また、必要のないことである。さとりの中に迷いはないのであるが、限りない長い時間に、外のちりに動かされて、妄想[もうぞう]を描き、その妄想によって迷いの世界を作り出していたのである。 だから、妄想がやめば、さとりはおのずと返ってきて、さとりのほかに妄想があるのではないとわかるようになる。しかも、不思議なことに、ひとたびさとった者には妄想はなく、さとられるものもなかったことに気づくのである。 3.この仏性[ぶっしょう]は尽きることがない。たとえ畜生に生まれ、餓鬼[がき]となって苦しみ、地獄に落ちても、この仏性は絶えることはない。 汚い体の中にも、汚れた煩悩[ぼんのう]の底にも、仏性はその光を包み覆われている。 4.昔、ある人が友の家に行き、酒に酔って眠っているうちに、急用で友は旅立った。友はその人の将来を気づかい、価[あたい]の高い宝石をその人の着物のえりに縫いこんでおいた。 そうとは知らず、その人は酔いからさめて他国へとさすらい、衣食に苦しんだ。その後、ふたたびその旧友にめぐり会い、「おまえの着物のえりに縫いこまれている宝石を用いよ。」と教えられた。 このたとえのように、仏性の宝石は、貪[むさぼり]りや瞋[いか]りという煩悩の着物のえりに包まれて、汚されずにいるのである。 このように、どんな人でも仏の智慧[ちえ]のそなわらないものはないから、仏は人びとを見通して、「すばらしいことだ、人びとはみな仏の智慧と功徳とをそなえている。」とほめたたえる。 しかも、人びとは愚かさに覆われて、ものごとをさかさまに見、おのれの仏性を見ることができないから、仏は人びとに教えて、その妄想を離れさせ、本来、仏と違わないものであることを知らせる。 5.ここでいう仏とはすでに成ってしまった仏であり、人びとは将来まさに成るべき仏であって、それ以外の相違はない。 しかし、成るべき仏ではあるけれども、仏と成ったのではないから、すでに道を成しとげたかのように考えるなら、それは大きな過ちを犯しているのである。 仏性はあっても、修めなければ現われず、現われなければ道を成しとげたのではない。 6.昔、ひとりの王があって、象を見たことのない人を集め、目かくしして象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいに言わせた。象の牙[きば]に触れた者は、象は大きな人参[にんじん]のようなものであるといい、耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、鼻に触れた者は、杵[きね]のようなものであるといい、足に触れた者は、臼[うす]のようなものであるといい、尾に触れた者は、縄[なわ]のようなものであると答えた。ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。 人を見るのもこれと同じで、人の一部分に触れることができても、その本性である仏性[ぶっしょう]を言い当てることは容易ではない。 死によっても失われず、煩悩[ぼんのう]の中にあっても汚れず、しかも永遠に滅びることのない仏性を見つけることは、仏と法によるもののほかは、でき得ないのである。 |
当ページの典拠→ 1.2.首楞厳経 3.大般涅槃経 4.法華経第7、化城喩品 および 首楞厳経 4.華厳経第32、如来性起品 4.大般涅槃経 5.梵網経 6.大般涅槃経 |