第3章 さとりの種

第1節 清らかな心(231)


1.人にはいろいろの種類がある。心の曇りの少ないものもあれば、曇りの多いものもあり、賢いものもあれば、愚かなものもある。
 善い性質のものもあれば、悪い性質のものもあり、教えやすいものもあれば、教えにくいものもある。
 例えていうと、青・赤・黄・白・色さまざまな蓮[はす]の池があって、水中に生え、水中に育って、水の表面にでない蓮もあれば、水面にとどまる蓮もあり、水面を離れて、水にもぬれない蓮もあるようなものである。
 このちがいの上に、さらにまた、男・女のちがいがあるが、しかし、人の本性としてちがいがあるのではない。男が道を修めてさとりを得るように、女もまた道を修めれば、しかるべき心の道すじを経て、さとりに至るであろう。

 象を扱う術を学ぶのには、信念と健康をもち、勤勉であって、偽りがなく、その上に智慧[ちえ]がなければならない。に従ってさとりを得るにも、やはりこの五つがなければならない。 この五つがあれば、男でも女でも、仏の教えを学ぶのに長い年月を要しない。これは、人にはみな、さとるべき性質がそなわっているからである。


2.さとりの道において、人はおのれの眼をもって仏を見、心をもって仏を信ずる。それと同じく、人をして生死の巷[ちまた]に今日まで流転[るてん]させたのも、また、この眼と心である。
 国王が、侵入した賊を討とうとするとき、何よりも先に、その賊のありかを知ることが必要であるように、いま迷いをなくそうとするのにも、まずその眼と心のありかを確かめなければならない。

 人が室内にいて目を開けば、まず、部屋の中のものを見、やがて窓を通して、外の景色を見る。部屋の内のものを見ないで、外のものばかりを見る目はない。
 ところが、もしもこの身の内に心があるならば、何よりも先に、身の内のことを詳しく知らなければならないはずであるのに、人びとは、身の外のことだけをよく知っていて、身の内のことについては、ほとんど何ごとも知ることができない。
 また、もしも心が身の外にあるとするならば、身と心とが互いに離れて、心の知るところを身は知らず、身の知るところを心は知らないはずである。ところが、事実は、心の知るところを身が感じ、身に感ずるところを心はよく知っているから、心は身の外にあるということもできない。いったい、心の本体はどこにあるのであろうか。


3.もともと、すべての人びとが、始めも知れない昔から、煩悩[ぼんのう]の行為に縛られて、迷いを重ねているのは、二つのもとを知らないからである。
 一つには生死のもとである迷いの心を、自己の本性と思っていること。二つには、さとりの本性である清浄[しょうじょう]な心が、迷いの心の裏側に隠されたまま自己の上にそなわっていることを知らないことである。

 拳[こぶし]をかためて臂[ひじ]をあげると、目はこれを見て心はこのことを知る。しかし、その知る心は、真実の心ではない。
 はからいの心は欲から起こり、自分の都合をはからう心であり、縁に触れて起こる心であって、真実の本体のない、うつり変わる心である。この心を、実体のある心と思うところに、迷いが起こる。
 次に、その拳[こぶし]を開くと、心は拳の開いたことを知る。動くものは手であろうか、心であろうか、それとも、そのいずれでもないのか。
 手が動けば心も動き、また、心の動きにつれて手も動く。 しかし、動く心は、心の表面であって根本の心ではない。


4.すべての人びとには、清浄[しょうじょう]の本心がある。それが外の因縁によって起こる迷いのちりのために覆われている。しかし、あくまでも迷いの心は従であって主ではない。
 月は、しばらく雲に覆われても、雲に汚されることもなく、また動かされることもない。
 だから、人は浮動するちりのような迷いの心を自分の本性と思ってはならない。
 また、人は、動かず、汚されないさとりの本心に目覚めて、真実の自己に帰らなければならない。浮動する迷いの心にと らわれ、さかさまの見方に追われているので、人は迷いの巷[ちまた]をさまようのである。
 人の心の迷いや汚れは、欲とその変化する外界の縁に触れて起こるものである。
 この縁の来ること去ることに関係なく、永久に動かず滅びない心、これが人の心の本体であって、また主[あるじ]でもある。
 客が去ったからといって、宿屋がなくなったとはいえないように、縁によって生じたり滅したりするはからいの心がなくなったからといって、自分がなくなったとはいえない。外の縁によってうつり変わるはからいは、心の本体ではない。


5.ここに講堂があって、太陽が出て明るくなり、太陽が隠れて暗くなるとする。
 明るさは太陽に返し、暗さは夜に返すこともできよう。しかし、その明るさや暗さを知る力は、どこにも返すことはできない。それは心の本性、本体に返すよりほかに道はない。
 太陽が現われて、明るいと見るのもひとときの心であり、 太陽が隠れて、暗いと見るのもひとときの心である。
 このように、明暗という外の縁に引かれて、明暗を知る心が起こるが、明暗を知る心は、ひとときの心であって、心の本体ではなく、その明暗を知る力の根本は、心の本体である。
 外の因縁に引かれて生じたり滅したりする善悪・愛憎の念[おもい]は、人の心に積まれた汚れによって起こるひとときの心なのである。

 煩悩[ぼんのう]のちりに包まれて、しかも染まることも、汚れることもない、本来清浄[しょうじょう]な心がある。
 まるい器[うつわ]に水を入れるとまるくなり、四角な器に水を入れると四角になる。しかし、本来、水にまるや四角の形があるのではない。ところが、すべての人びとはこのことを忘れて、水の形にとらわれている。
 善[よ]し悪[あ]しと見、好む好まぬと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、外のものを追って苦しんでいる。
 縛られた見方を外の縁に返し、縛られることのない自己の本性にたち帰ると、身も心も、何ものにもさえぎられることのない、自由な境地が得られるであろう


当ページの典拠
   1.パ−リ、律蔵大品第1-5
   1.パ−リ、律蔵小品第5-21
   2〜5.首楞厳経(しゅりょうごんきょう)