第3節 真実のすがた(223)

1.
この世のすべてのものは、みな縁によって現われたものであるから、もともとちがいはない。ちがいを見るのは、人びとの偏見である。
 大空に東西の区別がないのに、人びとは東西の区別をつけ、東だ西だと執着する。
 数はもともと、一から無限の数まで、それぞれ完全な数であって、量には多少の区別はないのであるけれども、人びとは欲の心からはからって、多少の区別をつける。

 もともと生もなければ滅もないのに、生死の区別を見、また、人間の行為それ自体には善もなければ悪もないのに、善悪の対立を見るのが、人びとの偏見である。
 はこの偏見を離れて、世の中は空に浮かぶ雲のような、 また幻のようなもので、捨てるも取るもみなむなしいことであると見、心のはからいを離れている。


2.人ははからいから、すべてのものに執着する。富[とみ]に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。
 有無、善悪、正邪、すべてのものにとらわれて迷いを重ね 苦しみと悩みとを招く。

 ここに、ひとりの人がいて、長い旅を続け、とあるところで大きな河を見て、こう思った。この河のこちらの岸は危いが、向こう岸は安らかに見える。そこで筏[いかだ]を作り、その筏によって、向こうの岸に安らかに着くことができた。そこで「この筏は、わたしを安らかにこちらの岸へ渡してくれた。大変役に立った筏である。だから、この筏を捨てることなく、肩に担いで、行く先へ持って行こう。」と思ったのである。

 このとき、この人は筏に対して、しなければならないこと をしたといわれるであろうか。そうではない。
 この比喩[たとえ]は、「正しいことさえ執着すべきではなく、捨て離れなければならない。まして、正しくないことは、なおさら捨てなければならない。」ということを示している。


3.すべてのものは、来ることもなく、去ることもなく、 生ずることもなく、滅することもなく、したがって得ることもなければ、失うこともない。
 仏は、「すべてのものは有無の範疇[はんちゅう]を離れているから、有にあらず、無にあらず、生ずることもなく、滅することもない。」と説く。すなわち、すべてのものは因縁から成っていて、ものそれ自体の本性は実在性がないから、有にあらずといい、また因縁から成っているので無でもないから、無にあらずと いうのである。

 ものの姿を見て、これに執着するのは、迷いの心を招く原因となる。もしも、ものの姿を見ても執着しないならば、はからいは起こらない。さとりは、このまことの道理を見て、はからいの心を離れることである。
 まことに世は夢のようであり、財宝もまた幻のようなものである。絵に見える遠近と同じく、見えるけれども、あるのではない。すべては陽炎[かげろう]のようなものである。


4.無量の因縁によって現われたものが、永久にそのまま存在すると信ずるのは、常見[じょうけん]という誤った見方である。また、まったくなくなると信ずるのは、断見[だんけん]という誤った見方であ る。
 この断[だん]・常[じょう]・有[う]・無[む]は、ものそのものの姿ではなく、人の執着から見た姿である。すべてのものは、この執著の姿を離れている。

 ものはすべて縁によって起こったものあるから、みなうつり変わる。実体を持っているもののように永遠不変ではない。うつり変わるので、幻のようであり、陽炎[かげろう]のようではあるが、しかも、また、同時に、そのままで真実である。うつり変わるままに永遠不変なのである。

 川は人にとっては川と見えるけれども、水を火と見る餓鬼[がき]にとっては、川とは見えない。だから、川は餓鬼にとっては「ある」とはいえず、人にとっては「ない」とはいえない。 これと同じように、すべてのものは、みな「ある」ともいえず、「ない」ともいえない、幻のようなものである。
 しかも、この幻のような世界を離れて、真実の世も永遠不変の世もないのであるから、この世を、仮のものと見るのも誤り、実の世と見るのも誤りである。

 ところが、世の人びとは、この誤りのもとは、この世の上にあると見ているが、この世がすでに幻とすれば、幻にはからう心があって、人に誤りを生じさせるはずはない。誤りは、この道理を知らず、仮の世と考え、実の世と考える愚かな人の心に起こる。
 智慧[ちえ]ある人は、この道理をさとって、幻を幻と見るから、ついにこの誤りを犯すことはない。


当ページの典拠
    1.華厳経第16、夜摩天宮品
    1.楞伽経
    2.パーリ、中部3-22、蛇喩経
    2.楞伽経
    3.4.楞伽経