第2章 人の心とありのままの姿 第1節 変わりゆくものには実体がない(221) 1.身も心も、因縁によってできているものであるから、 この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから、無常なものである。 もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、 かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。 王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、 自分の思うとおりにすることができる。それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。 それと同じく、この心にもまた実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。 もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、そのとおりにできるはずであるのに、心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。 2.この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、だれも無常であると答えるに違いない。 無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、だれでも、苦しみであると答えるに違いない。 このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。 心もまた、そのように、無常であり、苦しみであり、実体ではない。 だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、我[が]とかわがものとかという観念を離れたものである。 智慧[ちえ]のない心が、我である、わがものであると執着するにすぎない。 身もそれをとりまくものも、縁によって生じたものであるから、変わりに変わって、しばらくもとどまることがない。 流れる水のように、また燈火[ともしび]のようにうつり変わっている。 また、心の騒ぎ動くこと猿[さる]のように、しばらくの間も、静かにとどまることがない。 智慧あるものは、このように見、このように聞いて、身と心とに対する執着を去らなければならない。心身ともに執着を離れたとき、さとりが得られる。 3.この世において、どんな人にもなしとげられないことが五つある。一つには、老いゆく身でありながら、老いないということ。二つには、病む身でありながら、病まないということ。三つには、死すべき身でありながら、死なないということ。四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということである。 世の常の人びとは、この避け難いことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みをいだくことはない。 また、この世に四つの真実がある。第一に、すべて生きとし生けるものはみな無明[むみょう]から生まれること。第二に、すべて欲望の対象となるものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第三に、すべて存在するものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第四に、我[が]も、わがものもないということである。 すべてのものは、みな無常であって、うつり変わるものであること、どのようなものにも我がないということは、仏[ほとけ]がこの世に出現するとしないとにかかわらず、いつも定まっているまことの道理である。仏はこれを知り、このことをさとって、人びとを教え導く。 |
当ページの典拠→ 【空(くう)の研究】@→ 1.2.パーリ、中部4-35、薩遮迦小経 3.パーリ、増支部5-49 3.パーリ、増支部4-185 3.パーリ、増支部3-134 |