第3節 ささえあって(213) 1.それでは、人びとの憂い、悲しみ、苦しみ、もだえは、 どうして起こるのか。つまりそれは、人に執着があるからである。 富[とみ]に執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自分自身に執着する。この執着から苦しみ悩みが生まれる。 初めから、この世界にはいろいろの災いがあり、そのうえ、老いと病と死とを避けることができないから、悲しみや苦しみがある。 しかし、それらもつきつめてみれば、執着があるから、悲しみや苦しみとなるのであり、執着を離れさえすれば、すべての悩み苦しみはあとかたもなく消えうせる。 さらにこの執着を押しつめてみると、人びとの心のうちに、無明[むみょう]と貪愛[とんあい]とが見いだされる。 無明[むみょう]はうつり変わるもののすがたに眼が開けず、因果の道理に暗いことである。 貪愛とは、得ることのできないものを貪[むさぼ]って、執着し愛着することである。 もともと、ものに差別はないのに、差別を認めるのは、この無明と貪愛とのはたらきである。もともと、ものに良否はないのに、良否を見るのは、この無明と貪愛とのはたらきである。 すべての人びとは、常によこしまな思いを起こして、愚かさのために正しく見ることができなくなり、自我にとらわれて間違った行いをし、その結果、迷いの身を生ずることになる。 業[ごう]を田とし心を種とし、無明の土に覆われ、貪愛[とんあい]の雨でうるおい、自我の水をそそぎ、よこしまな見方を増して、この迷いを生み出している。 2.だから、結局のところ、憂いと悲しみと苦しみと悩みのある迷いの世界を生み出すものは、この心である。 迷いのこの世は、ただこの心から現われた心の影にほかならず、さとりの世界もまた、この心から現われる。 3.この世の中には、三つの誤った見方がある。もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。 一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。二つには、ある人は、それはすべて神のみ業[わざ]であるという。三つには、またある人は、すべて因も縁もないものであるという。 もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、 みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何ものも存在しないことになる。 したがって、人びとに、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の中の進歩も改良もないことになる。 次に、神のみ業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難があびせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。 だから、この三つの見方はみな誤っている。どんなことも 縁によって生じ、縁によって滅びるものである。 |
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