第2節 仏との出会い(132)

1.
仏がこの世に現われるのは、はなはだまれである。仏は今この世界においてさとりを開き、を説き、疑いの網を断ち、愛欲の根を抜き、悪の源をふさぎ、妨げられることなく、自由自在にこの世を歩く。世に仏を敬うより以上の善はない。
 仏がこの世に現われるのは、法を説いて、人びとにまことの福利を恵むためである。苦しみ悩む人びとを捨てることができないから、仏はこの苦難の世界に現われる。
 世に道理なく、不正はびこり、欲に飽くことなく、心身ともに堕落し、命短きこの世に、法をとくことは、はなはだむつかしい。ただ大悲のゆえに、仏はこの困難に打ち勝つ。


2.仏はこの世におけるすべての人びとの善い友である。煩悩[ぼんのう]の重荷に悩む者が仏に会えば、仏はそのために代わってその重荷をになう。
 仏はこの世におけるまことの師である。愚かな迷いに苦しむ者が仏に会えば、仏は智慧[ちえ]の光によってその闇[やみ]を払う。
 子牛がいつまでも母牛のそばを離れないように、ひとたび仏の教えを聞いた者は仏を離れない。教えを聞くことは常に楽しいからである。


3.月が隠れると、人びとは月が沈んだといい、月が現われると、人びとは月が出たという。けれども月は常に住して出没することがない。仏もそのように、常に住して生滅しないのであるが、ただ人びとを教えるために生滅を示す。
 人びとは月が満ちるとか、月が欠けるとかいうけれども、月は常に満ちており、増すこともなく減ることもない。仏もまたそのように、常に住して生滅[しょうめつ]しないのであるが、ただ人びとの見るところに従って生滅があるだけである。

 月はまたすべての上に現われる。町にも、村にも、山にも、川にも、池の中にも、かめの中にも、葉末[はずえ]の露にも現われる。人が行くこと百里千里であっても、月は常にその人に従う。月そのものに変わりはないが、月を見る人によって月は異なる。仏もまたそのように、世の人びとに従って、限りない姿を示すが、仏は永遠に存在して変わることがない。


4.仏がこの世に現われたことも、また隠れたことも、因縁を離れてあるのではない。人びとを救うのによい時が来ればこの世にも現われ、その因縁が尽きればこの世から隠れる。
 仏に生滅の相はあっても、まことに生滅することはない。 この道理を知って、仏の示す生滅と、すべてのもののうつり変わりに驚かず、悲しまず、まことのさとりを開いて、この上ない智慧を得なければならない。

 仏は肉体ではなくさとりであることはすでに説いた。肉体はまことに容器であり、その中にさとりを盛ればこそ仏といわれる。だから、肉体にとらわれて、仏のなくなることを悲しむ者は、まことの仏を見ることはできない。
 もともと、あらゆるもののまことの相は、生滅・去来[こらい]・善悪の区別を離れた[くう]にして平等なものである。
それらの区別は、見る者の偏見から起こるもので、仏のまことの相も、実は現われることもなく隠れることもない。


当ページの典拠
1.華厳経 cf, 盲亀浮木(もうきふぼく)
1.華厳経第34、入法界品-Wiki 「善財童子」
1.阿弥陀経 〜の大意
2.華厳経
2.雑阿含経35巻5【サンユッタ・ニカーヤ】(SN)
3.4.大般涅槃経