第3章 仏の姿と仏の徳 第1節 3つのすがた(131) 1.姿や形だけで仏を求めてはならない。姿、形はまことの仏ではない。まことの仏はさとりそのものである。だから、さとりを見る者がまことに仏を見る。 世に優れた仏の相[すがた]を見て、仏を見たというならば、それは無知の眼の過ちである。仏のまことの相は、世の人には見ることもできない。どんなにすぐれた描写によっても仏を知ることはできないし、どんな言葉によっても仏の相は言い尽くすことはできない。 まことの相とはいっても、実は、相あるものは仏ではない。仏には相がない。しかも、また、思いのままにすばらしい相を示す。 だから、明らかに見て、しかもその相にとらわれないなら、この人は自在の力を得て仏を見たのである。 2.仏の身はさとりであるから、永遠の存在であってこわれることがない。食物によって保たれる肉体ではなく、智慧[ちえ]より成る堅固な身であるから、恐れもなく、病もなく、永遠不変である。 だから、仏は永遠に滅びない。さとりが滅びない限り、滅びることはない。このさとりが智慧の光となって現われ、この光が人をさとらせ、仏の国に生まれさせる。 この道理をさとった者は仏の子となり、仏の教えを受持し、仏の教えを守って後の世に伝える。まことに、仏の力ほど不思議なものはない。 3.仏には三つの身[からだ]がそなわっている。一つには法身[ほっしん]、二つには報身[ほうじん]、三つには応身[おうじん]である。 法身[ほっしん]とは、法そのものを身とするものである。この世のありのままの道理と、それをさとる智慧とが一つになった法そのものである。 法そのものが仏であるから、この仏には色もなく形もない。色も形もないから、来るところもなく、去るところもない。来るところも去るところもないから充満しないところがなく大空のようにすべてのものの上にあまねくゆきわたっている。 人が思うから有るのではなく、人が忘れるから無いのでもなく、人の喜ぶときに来るのでもなく、人の怠るときに去るのでもない。仏そのものは、人の心のさまざまな動きを超えて存在する。 仏の身は、あらゆる世界に満ち、すべてのところゆきわたり、人びとがふつう持っている仏に関する考えにかかわらず永遠に住する。 4.報身[ほうじん]というのは、形のない法身の仏が、人びとの苦しみを救うために形を現わし、願を起こし、行を積み、名を示して、導き救う仏である。 この仏は大悲をもととし、いろいろな手段によって限りなき人びとを救い、すべてのものを焼き払う火のように、人びとの煩悩[ぼんのう]の薪[たきぎ]を焼き、また、ちりを吹き払う風のように、人びとの悩みのちりを払う。 応身[おうじん]の仏は、仏の救いを全[まっと]うするために、人びとの性質に応じてこの世に姿を現わし、誕生し、出家し、成道[じょうどう]し、さまざまの手段をめぐらして人びとを導き、病と死を示して人びとを警[いまし]める仏である。 仏の身は、もともと一つの法身[ほっしん]であるけれども、人びとの性質が異なっているから、仏の身はいろいろに現われる。しかし、人びとの求める心や、行為や、その能力によって、人の見る仏の相[すがた]は違っていても、仏は一つの真実を見せるのみである。 仏の身は三つに分かれるが、それはただ一つのことをなしとげるためである。一つのこととは、いうまでもなく人びとを助け救うことである。 限りのないすぐれた身をもって、あらゆる境界に現われても、その身は仏ではない。仏は肉体ではないからである。たださとりを身としてすべてのものに満ちみち、真実を見る人の前に仏は常に現われる。 |
当ページの典拠→ 1.華厳経第5、如来光明覚品 2.大般涅槃経 2.華厳経 〜を読む 3.4.金光明経第3、三身品 cf. キリスト教の「三位一体」。光源〜光線〜光の働き、水源〜川の流れ〜川の水。 |