第2節 救いとその手だて(122) 1.さとりの岸に立って、迷いの海に沈んでいる人びとに呼びかける仏のことばは、人びとの耳には容易に聞こえない。 だから、仏は、自ら迷いの海に分け入って、救いの手段を講じた。 さて、それでは一つの比喩[たとえ]を説こう。ある町に長者があって、その家が火事になった。たまたま外にあった長者は帰宅 して驚き、子供たちを呼んだが、彼らは遊びにふけって火に気づかず、家の中にとどまっていた。 父は子供たちに向かって――「子供たちよ、逃げなさい、 出なさい。」と叫んだが、子供たちは父の呼び声に気がつかなかった。 子供たちの安否を気遣[きづか]う父はこう叫んだ――「子供たちよ、 ここに珍しいおもちゃがある。早く出て来て取るがよい。」子供たちはおもちゃと聞いて勇み立ち、火の家から飛び出して災いから免れることができた。 この世はまことに火の家である。ところが人びとは、家の燃えていることを知らず、焼け死ぬかも知れない恐れの中にある。 だから、仏は大悲の心から限りなくさまざまに手段をめぐらして人びとを救う。 2.さらに別の比喩[たとえ]を説こう。昔、長者のひとり子が、親のもとを離れてさすらいの身となって、貧困のどん底に落ちぶれた。 父は故郷を離れて息子の行方を求め、あらゆる努力をしたにもかかわらず、どうしてもその行方を求めることができなかった。 それから十数年か経[た]って、今はみじめな境遇に成り果てた 息子が、たまたま父の住んでいる町の方へさすらってきた。 めざとくもわが子を認めた父は喜びに躍り上がり、使用人を遣[や]って放浪の息子を連れもどそうとした。しかし、息子は疑い、だまされるのを恐れて、行こうとしなかった。 そこで父はもう一度使用人を息子に近よらせ、よい賃金の仕事を長者の家で与えようと言わせた。息子はその手段に引き寄せられて仕事を引き受け、使用人のひとりとなった。 父の長者は、わが家とも知らずに働いているわが子をおいおいに引き立て、ついには金銀財宝の蔵を管理させるに至ったが、それでも息子はなお父とは知らないでいた。 父はわが子が素直になったのを喜び、またわが命のやがて尽きようとするのを知って、ある日、親族・友人・知己を呼ぴ集めてこう語った――「人びとよ、これはわが子である。 永年探し求めていた息子である。今より後、わたしのすべての財宝はみなこの子のものである。」 息子は父の告白に驚いてこう言った――「今、わたしは父親を見いだしたばかりでなく、思いがけずこれらすべての財宝までもわたしのものとなった。」 ここにいう長者とは仏のことである。迷える息子とはすべての人びとのことである。仏の慈悲は、ひとり子に向かう父の愛のようにすべての人びとに向かう。仏はすべての人びと を子として教え導き、さとりの宝をもって彼らを富める者とする。 3.すべての人びとを子のようにひとしく慈しむ仏の大悲は平等であるが、人びとの性質の異なるのに応じてその救いの手段には相違がある。ちょうど、降る雨は同じであっても、 受ける草木によって、異なった恵みを得るようなものである。 4.親はどれほど多くの子供があっても、そのかわいさに変わりがないが、その中に病める子があれば、親の心はとりわけその子にひかれてゆく。 仏の大悲もまた、すべての人びとに平等に向かうけれども、 ことに罪の重い者、愚かさゆえに悩める者に慈しみとあわれみとをかける。 また、例えば、太陽が東の空に昇って、闇[やみ]を滅ぼし、すべてのものを育てるように、仏は人びとの間に出て、悪を滅ぼし、善を育て、智慧[ちえ]の光を恵んで、無知の闇を除き、さとりに至らせる。 仏は慈しみの父であり、悲[あわれ]みの母である。仏は、世間の人びとに対する慈悲の心から、ひたすら人びとのために尽くす。 人びとは仏の慈悲なくしては救われない。人びとはみな仏の子として仏の救いの手段を受けなければならない。 |
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