阿羅漢にして 正等覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 スッタニパータ

第一章 蛇

 第一経 蛇

1
広がった蛇の毒を諸々の薬で〔除く〕ように、生起した憤怒〔の思い〕を取り除く者−−その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
2
池に生えている蓮の花を〔水に〕入って〔折り取る〕ように、貪欲〔の思い〕を残りなく断ち切った者−−その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
3
激しく流れる〔渇愛の〕流れを干上がらせて、渇愛〔の思い〕を残りなく断ち切った者−−その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
4
大激流が極めて力の弱い葦の橋を〔押し流す〕ように、高慢〔の思い〕を残りなく断ち切った者−−その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
5
無花果[いちじく]の木々に花を探し求める者が〔花を得ない〕ように、諸々の〔迷いの〕生存(有)のうちに真髄(実:真実・本質)に到達しなかった者(迷いの生存を真実と認めなかった者)−−その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
6
彼に、諸々の怒りが〔心の〕内から存在しないなら、しかして、〔彼は〕それについての有る無し〔の思い〕が超克された者であり、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
7
彼の、諸々の思考が砕破され、内に、余すところなく、善く整えられたなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
8
行き過ぎず、戻り過ぎず、この戯論(分別妄想)の一切を超え行った者−−その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
9
行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れたものである」と、世において知って、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
10
行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れたものである」と、貪欲を離れた、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
11
行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れたものである」と、貪り(貪)を離れた、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
12
行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れたものである」と、怒り(瞋)を離れた、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
13
行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れたものである」と、迷い(痴)を離れた、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
14
何であれ、彼に、諸々の悪習(随眠)が存在せず、諸々の善ならざることが根元から完破されたなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
15
何であれ、彼に、〔迷いの〕此岸に帰り来ることの縁となる、諸々の懊悩から生じるものが存在しないなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
16
何であれ、彼に、〔迷いの〕生存の結縛の因たる諸々の妄想が〔存在せず〕、諸々の〔欲の〕下草から生じるものが存在しないなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
17
五つの〔解脱の〕妨げ(五蓋:貪り・怒り・心の沈滞[おちこみ]と眠気・心の浮つきと悔いの思い・疑い)を捨てて、煩悶[わずらい]なく、疑惑を超え、矢を抜いた者−−その比丘は、此岸と彼岸を捨てる−−蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。

 第二経 ダニヤ

18
牛飼いのダニヤが〔言った〕「わたしは、飯を炊き、乳を搾った者として、〔世に〕存しています。マヒヤー〔川〕の岸辺に、〔妻子や下僕たちと〕共に住む住居があります。小屋は〔しっかりと〕覆われ、火が焚かれています。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
19
世尊(ブッダ)は〔答えた〕「わたしは、怒りなく、鬱屈[わだかまり]を離れ去った者として、〔世に〕存しています。マヒヤー〔川〕の岸辺に、一夜の住居があります。小屋(身体)は開かれ(その正体は暴露され)、〔貪欲の〕火は止み静まっています。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
20
牛飼いのダニヤが〔言った〕「蠅や蚊は、見出されません。牛たちは、沼地に生い茂る草を〔食して〕歩み、雨がやってきても、耐え抜くでしょう。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
21
世尊は〔答えた〕「まさに、筏[いかだ]は、結び縛られ、頑丈に作られました。彼岸に達した超渡者は、激流(渇愛の思い)を取り除くでしょう。〔もはや〕筏に、義(意味)は見出されません。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
22
牛飼いのダニヤが〔言った〕「わたしの牛飼い女(妻)は、従順で、〔心が〕動きません。長夜にわたり、共に住み、意に適う者です。何であれ、彼女についての悪しき〔話〕を、〔わたしは〕聞きません。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
23
世尊は〔答えた〕「わたしの心は、従順で、解脱しています。長夜にわたり、完全に修められ、善く調御されています。そして、わたしに、悪は見出されません。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
24
牛飼いのダニヤが〔言った〕「わたしは、自己の稼ぎで身を立てる者として、〔世に〕存しています。そして、共にいる、わたしの子供たちも、無病〔息災〕です。何であれ、彼らについての悪しき〔話〕を、わたしは聞きません。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
25
世尊は〔答えた〕「わたしは、誰の雇われでもなく、〔世に〕存しています。一切世〔界〕において、〔行乞で〕得たものによって、歩みます。〔もはや〕雇われることに、義(意味)は見出されません。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
26
牛飼いのダニヤが〔言った〕「〔わたしには〕子牛が存在します。乳牛(母牛)が存在します。〔子を〕宿した雌牛と〔子を〕宿したことのない雌牛も存在します。そして、牛たちの主[あるじ]たる雄牛も存在します。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
27
世尊は〔答えた〕「〔わたしには〕子牛は存在しません。乳牛(母牛)は存在しません。〔子を〕宿した雌牛と〔子を〕宿したことのない雌牛も存在しません。ここには、牛たちの主たる雄牛も存在しません。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
28
牛飼いのダニヤが〔言った〕「〔深く〕掘られた諸々の杭は揺るぎなく、ムンジャ〔草〕で作られた諸々の縄は新しく、善く綯われています。まさに、乳牛たちも、断ち切ることはできないでしょう。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
29
世尊は〔答えた〕「雄牛のように、諸々の結縛を断ち切り、象が蔦葛[つたかずら]を〔踏み敷く〕ように、〔諸々の束縛を〕踏み砕いて、わたしは、胎内へとふたたび近づき行くことはないでしょう。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
30
低地と高地とを潤しながら、まさしく、ただちに、大雲が雨を降らせた。天が雨を降らせるのを聞いて、ダニヤは、この義(意味)を語った。
31
〔牛飼いのダニヤが言った〕「わたしたちは、世尊を見ました。わたしたちの利得は、まさに、少からざるものです。眼ある方よ、あなたという帰依所へと、〔わたしたちは〕近づき行きます(覚者に帰依する)。偉大なる牟尼(ブッダ)よ、あなたは、わたしたちの教師に成ってください。
32
牛飼い女(妻)も、わたしも、従順です。善き至達者(ブッダ)のところで、梵行(禁欲清浄行)を行じおこないましょう。生と死の彼岸に達した者として、苦しみの終極[おわり]を為す者に成りましょう」〔と〕。
33
パーピマント(悪魔)が〔言った〕「子をもつ者は、子たちについて喜ぶ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて喜ぶ。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の喜びである。まさに、依存〔の対象〕なき彼は、喜ぶことがない」と。
34
世尊は〔答えた〕「子をもつ者は、子たちについて憂う。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて憂う。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の憂いである。まさに、依存〔の対象〕なき彼は、憂うことがない」と。

 第三経 犀の角

35
一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて、彼らの誰ひとりをも害さずにいる者は、子を求めぬもの。どうして、道友を〔求めよう〕。犀の角のように、独り、歩むもの。
36
〔異性との〕交わりが生じた者には、愛執〔の思い〕が有る。愛執〔の思い〕に従い、この苦しみが生起する。愛執〔の思い〕から生じた〔この〕危険を〔あるがままに〕見る者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
37
朋友や知人に情をかけ、〔その思いに〕心が縛られた者は、〔自己の〕義(道理)を失う。親愛〔の情〕のうちにこの恐怖を〔あるがままに〕見る者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
38
子や妻たちにたいする期待〔の思い〕は、まさしく、〔枝や根が〕広く絡みついた竹〔林〕のようなもの。〔まとわりつくものが何もない〕筍[たけのこ]のように執着なき者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
39
縛られていない〔野生の〕鹿が、林のなかで求めるままに餌場に行くように、識者たる人は、独存〔の境地〕を〔あるがままに〕見る者として、犀の角のように、独り、歩むもの。
40
道友の中にいれば、家においても〔他の〕状況においても、〔外に〕行くにも〔道を〕歩むにも、〔余計なことで色々と〕呼び止められることが有る。〔人が〕望み求めない独存〔の境地〕を〔あるがままに〕見る者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
41
道友の中にいれば、遊興と喜悦が有る。また、子たちのうちにあれば、広大なる愛情が有る。愛しき者との別離を忌避する者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
42
また、四方(東西南北)に障壁[さわり]なき者と成り、いかなるものにても〔足ることを知り〕満足している者として、諸々の危難を打ち負かす驚愕[おののき]なき者として、犀の角のように、独り、歩むもの。
43
出家者でさえも、或る者たちは救い難く、また、家に住する在家の者も〔同様に救い難い〕。他者の子たちにたいする思い入れ少なき者と成り、犀の角のように、独り、歩むもの。
44
落葉した黒檀のように、諸々の在家の特徴を取り去って、勇者は、諸々の在家の結縛を断ち切って、犀の角のように、独り、歩むもの。
45
もし、賢明なる道友を得るなら、共に行じおこなう善き住者である慧者を〔得るなら〕、一切の危難を征服して、わが意を得た気づき(念)の者となり、彼とともに、歩むもの。
46
もし、賢明なる道友を得ないなら、共に行じおこなう善き住者である慧者を〔得ないなら〕、征圧した国を〔惜し気もなく〕捨てて〔顧みない〕王のように、犀の角のように、独り、歩むもの。
47
たしかに、〔わたしたちは〕道友の成就(獲得)を賞賛する。最勝の道友たち、〔自分と〕等しい者たちとは、親しくするべきである。これらを得ずして、罪なき〔独存の生活〕を享受する者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
48
金の細工師が見事に仕立てた、光り輝く二個〔の腕輪〕が、腕にあって相打つ(音を立てる)のを見て、犀の角のように、独り、歩むもの。
49
このように、第二者(連れの者)と共にあるなら、わたしに、雑談の言葉、あるいは、叱責〔の言葉〕が存するであろう。この恐怖を未来に見る者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
50
まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、蜜のように甘美で、意が喜びとするものである。種々なる形態(色)でもって、〔凡夫の〕心を掻き乱す。〔この〕危険を、諸々の欲望の対象のうちに見て、犀の角のように、独り、歩むもの。
51
これは、わたしにとって、疾患と、腫物と、禍[わざわい]と、病[やまい]と、矢と、恐怖とである。この恐怖を、諸々の欲望の対象のうちに見て、犀の角のように、独り、歩むもの。
52
寒さと、暑さと、飢え、渇き、暴風と猛暑、そして、虻と蛇−−これらの一切をも征服して、犀の角のように、独り、歩むもの。
53
肩が立派に生育した、蓮のような巨象が、群れを避けて、喜びのままに、林に住み、犀の角のように、独り、歩むもの。
54
集会を喜ぶ者には、〔彼が〕暫時の解脱に触れるであろうような、その状況は〔存在し〕ない。太陽の眷属(ブッダ)の言葉をこころして聞き、犀の角のように、独り、歩むもの。
55
諸々の見解の対立を超克し、〔解脱に至る〕決定[けつじょう](正しい実践方法)を得て、道を獲得した者は、「〔わたしは〕知恵(智)が生起した者として〔世に〕存している。他によって導かれることはない」〔と〕、犀の角のように、独り、歩むもの。
56
無貪で、虚言[いつわり]なく、無欲で、隠覆[かくしだて]なく、汚濁と迷妄を取り払い、一切世〔界〕にたいし依存なき者と成って、犀の角のように、独り、歩むもの。
57
正しからざるものに固着し、義(道理)ならざるものを見る、悪しき道友は、遍く避けるもの。〔気づきを〕怠り、〔執着の対象を〕追い求める者とは、自ら、慣れ親しまぬもの。犀の角のように、独り、歩むもの。
58
多聞[たもん]にして法(教え)を保つ者と、応答自在なる秀[ひい]でた朋友と、親しくするもの。諸々の義(道理)を了知して、疑いを取り除き、犀の角のように、独り、歩むもの。
59
世における、遊興の喜悦と欲望の安楽を期待しない者は、〔見てくれを〕十分に作り為すことなくして、飾り立てという状況から離れた者となり、真理を説く者として、犀の角のように、独り、歩むもの。
60
子と妻、父と母、財産、穀物と、眷属たちと、限りあるかぎりの諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、犀の角のように、独り、歩むもの。
61
「これは、執着〔の対象〕である。ここに、幸福[しあわせ]は小さい。ここに、快楽[たのしみ]は少ない。苦痛[くるしみ]は、より一層のものである。これは、〔人を誘惑する〕釣針である」と知って、思慧ある者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
62
水のなかの魚が網を破って〔解き放たれる〕ように諸々の束縛を引き裂いて、炎が焼け跡に引き返さないように〔束縛に戻らず〕、犀の角のように、独り、歩むもの。
63
〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、また、〔物欲しそうに〕足を運ばず、〔感官〕機能(根)を守り、意[こころ]を守り、〔煩悩が〕漏れ出ず、〔貪欲の炎に〕焼かれず、犀の角のように、独り、歩むもの。
64
葉が刈り払われたパーリチャッタ〔樹〕のように、在家の特徴を取り払い、黄褐色の衣(袈裟)をまとい、〔家を〕出て、犀の角のように、独り、歩むもの。
65
諸々の味(味覚の喜び)にたいし、貪り〔の思い〕を為さず、〔心が〕動かない者は、他者からの扶養なく、〔行乞のために〕歩々淡々と歩み、家々に縛られない心の者として、犀の角のように、独り、歩むもの。
66
心の〔有する〕五つの〔解脱の〕妨げ(五蓋:貪り・怒り・心の沈滞[おちこみ]と眠気・心の浮つきと悔いの思い・疑い)を捨て去り、一切の付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)を除き去って、依存なき者は、愛執という〔心の〕汚れ(瞋:怒りや憎しみなどの悪意)を断ち切って、犀の角のように、独り、歩むもの。
67
楽と苦〔の両者〕に背を向けて、さらには、まさしく、過去における悦意と失意〔の両者〕に〔背を向けて〕、放捨(捨:分け隔てのない心)と寂止と清浄〔の境地〕を得て、犀の角のように、独り、歩むもの。
68
最高の義(勝義:涅槃の境地)を得るため、精進に励み、心に陰鬱なく、怠惰な生活をせず、断固たる努力あり、強靱さと力量を具有した者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
69
坐禅と瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を捨てず、諸法(もの・こと)について、常に法(もの・こと)のままに行じおこなう者は、諸々の生存のうちに危険を触知した者(苦しみの生をあるがままに知り見る者)であり、犀の角のように、独り、歩むもの。
70
〔気づきを〕怠らず渇愛の滅尽を望み求める者、聾唖ならざる多聞[たもん]にして気づきある者、法(真理)を究め〔正道を〕決定[けつじょう]した〔刻苦〕精励の者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
71
諸々の音に動じない獅子のように、〔鳥捕りの〕網に着[ちゃく]さない風のように、〔泥〕水に汚されない蓮華のように、犀の角のように、独り、歩むもの。
72
〔敵を〕打ち負かし、〔一切を〕征服して歩む、獣たちの王たる、牙むく獅子のように、諸々の辺境の臥坐〔所〕に慣れ親しみ、犀の角のように、独り、歩むもの。
73
慈愛[おもいやり]〔の心〕(慈)、放捨[おのずから]〔の心〕(捨)、慈悲[いたわり]〔の心〕(悲)、解脱、そして、歓喜[わかちあい]〔の心〕(喜)を、〔正しい〕時に習い行ない、一切世〔界〕に遮られず、犀の角のように、独り、歩むもの。
74
貪り(貪)と怒り(瞋)と迷い(痴)を捨てて、諸々の束縛を引き裂き、寿命の消滅に動ぜず、犀の角のように、独り、歩むもの。
75
〔人々は〕義(利益)を目的として、〔他者と〕親しくし、そして、〔他者に〕仕える。今日、〔打算的〕目的のない〔真の〕朋友たちは、得難きもの。人間たちの、自己に依って立つ諸々の知識(自己本位の断片的知識)は、不浄なるもの。犀の角のように、独り、歩むもの。

 第四経 耕作者バーラドヴァージャ

76
〔耕作者バーラドヴァージャが尋ねた〕「〔あなた(ブッダ)は、自らについて〕『耕作者である』〔と〕公言なさいます。しかしながら、〔わたしたちは〕あなたの耕作〔するところ〕を見ません。〔わたしたちが〕あなたの耕作を知りうるように、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしたちに、〔あなたの〕耕作を説いてください」〔と〕。
77
〔世尊は答えた〕「信が、種子です。苦行が、雨です。わたしのばあい、知慧(般若・慧)が、軛[くびき]と鋤[すき]です。恥〔を知る思い〕(慚)が、轅[ながえ]です。意[おもい]が、結び紐です。わたしのばあい、気づき(念)が、鋤先と刺し棒です。
78
身体[からだ]が守られ、言葉が守られ、腹において食が自制された者として、〔わたしは〕真理という草刈りを為します。わたしのばあい、温和〔な心〕が、解き放ち(放牧)です。
79
わたしのばあい、精進が、束縛からの〔心の〕平安を運ぶ、荷駄牛です。〔その荷駄牛は〕引き返すことなく、そこに行って憂い悲しむことがない所(涅槃)に行きます。
80
このように、これが、〔わたしの〕為した耕作です。それは、不死の果と成ります。この耕作を為して、〔人は〕一切の苦しみから解脱するのです」〔と〕。
81
〔さらに、世尊は言葉を続けた〕「わたしにとって、唱えられた詩偈(詩を唱えて得たもの)は、受けるべきものではありません。婆羅門よ、正しく見る者にとって、これは、法(正義)ではありません。覚者たちは、唱えられた詩偈を除き去ります(詩を唱えて得たものを拒否する)。婆羅門よ、法(正義)が存するなら、これが、生活〔のあり方〕です。
82
また、全一者たる偉大なる聖賢には、煩悩(漏)が滅尽し悔い〔の思い〕が止み静まった者には、他の食べ物と飲み物で奉仕しなさい。まさに、それは、功徳を期す者の田畑(福田)と成ります」〔と〕。

 第五経 チュンダ

83
鍛冶屋の子チュンダが〔尋ねた〕「多き知慧ある牟尼(ブッダ)に、法(真理)の主[あるじ]たる渇愛を離れた覚者(ブッダ)に、最も優れた御者[ぎょしゃ]たる最上の二足者(ブッダ)に、尋ねます。世に、沙門(修行者)たちは、どれほどいるのですか。どうか、それを説いてください」と。
84
世尊は〔答えた〕「チュンダさん、沙門たちは、四者います。第五〔の沙門〕は、存在しません。じかに〔問いを〕尋ねられた者(教え手)として、彼らについて、あなたに明らかにしましょう。〔すなわち〕道の勝利者と道の説示者、道に生きる者、さらには、道を汚す者〔の四者〕です」と。
85
鍛冶屋の子チュンダが〔尋ねた〕「覚者たちは、誰を、道の勝利者と説くのですか。道の教授者は、どのようにして、無比なる者と成るのですか。道に生きる〔者について〕、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説いてください。また、道を汚す者について、わたしに明らかにしてください」と。
86
〔世尊は答えた〕「疑惑を超え、矢を抜き、涅槃〔の境地〕に喜びある、貪りなき者、天〔界〕を含む世〔界〕の導き手である、そのような者を、覚者たちは、『道の勝利者』と説きます。
87
この〔世において〕、最高のものを『最高のもの』と知って、まさしく、この〔世において〕、法(真理)を告知し判別する者−−彼を、疑惑を断ち動揺なき牟尼(沈黙の聖者)を、比丘たちのなかの第二の者である『道の説示者』と言います。
88
見事に示された法(教え)の句(法句)という道に生きる、自制と気づきの者−−諸々の罪なき句(境地)に慣れ親しむ者−−〔彼を〕比丘たちのなかの第三の者である『道に生きる者』と言います。
89
善き掟の者(出家者)たちの覆を作り為して(善人のふりをして)、傲岸で、尊大で、家を汚す者−−幻術師[さぎし](偽善者)で、自制なく、籾殻〔のような者〕−−〔いかにも〕それらしい形態[なり]で行じおこなう者−−彼は、『道を汚す者』です。
90
また、在家の聖なる弟子である、多聞にして知慧を有する者は、これらのことを理解しました。〔すなわち〕『〔比丘たちの〕全てが、このような者(道を汚す者)ではない』と知って、と見て、彼の信は失うことなく、まさに、どのようにして、汚れた者と汚れてない者を、清らかな者と清らかでない者を、相等しき者と為す(混同する)というのでしょう」〔と〕。

 第六経 滅びの者

91
〔天の神が尋ねた〕「滅びつつある人について、わたしたちは、ゴータマ(ブッダ)に尋ねます。〔わたしたちは〕世尊(ブッダ)に問い尋ねるため、やってまいりました。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
92
〔世尊は答えた〕「識知し易い者として、栄える者は〔世に〕有ります。識知し易い者として、滅びの者は〔世に有ります〕。法(真理)を欲する者として、栄える者は〔世に〕有ります。法(真理)を嫌う者として、滅びの者は〔世に有ります〕」〔と〕。
93
〔天の神が尋ねた〕「おっしゃるとりに、まさに、このことを識知いたします。彼は、第一の滅びの者です。世尊よ、第二の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
94
〔世尊は答えた〕「彼にとって、正しからざる者たちは、愛しき者たちとして〔世に〕有ります。正しくある者たちについて、愛しき者と為すことがなく、正しからざる法(もの・こと)を選ぶ−−それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
95
〔天の神が尋ねた〕「おっしゃるとりに、まさに、このことを識知いたします。彼は、第二の滅びの者です。世尊よ、第三の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
96
〔世尊は答えた〕「睡眠を戒[ならい]とし、集会を戒[ならい]とし、かつまた、奮起することのない人−−怠け者で、怒ることで知られる者−−それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
97
〔天の神が尋ねた〕「おっしゃるとりに、まさに、このことを識知いたします。彼は、第三の滅びの者です。世尊よ、第四の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
98
〔世尊は答えた〕「あるいは、母が、あるいは、父が、老いて、盛りが過ぎたのを、〔やれば〕できる者として存していながら、養わない者−−それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
99
〔天の神が尋ねた〕「おっしゃるとりに、まさに、このことを識知いたします。彼は、第四の滅びの者です。世尊よ、第五の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
100
〔世尊は答えた〕「あるいは、婆羅門を、あるいは、沙門を、あるいはまた、他の乞食[こつじき]者を、虚偽の論で騙す者−−それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
101
〔天の神が尋ねた〕「おっしゃるとりに、まさに、このことを識知いたします。彼は、第五の滅びの者です。世尊よ、第六の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
102
〔世尊は答えた〕「巨万の富があり、金を有し食を有する人が、諸々の美味なるものを独りで食べる−−それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
103
〔天の神が尋ねた〕「おっしゃるとりに、まさに、このことを識知いたします。彼は、第六の滅びの者です。世尊よ、第七の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
104
〔世尊は答えた〕「出生[うまれ]を強がり、財産[たから]を強がり、そして、氏姓[かばね]を強がる人が、自らの親族を軽んじる−−それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
105
〔天の神が尋ねた〕「おっしゃるとりに、まさに、このことを識知いたします。彼は、第七の滅びの者です。世尊よ、第八の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
106
〔世尊は答えた〕「女について質[たち]悪く、酒について質悪く、さらには、博打について質の悪い人が、得ても、得ても、失ってしまう−−それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
107
〔天の神が尋ねた〕「おっしゃるとりに、まさに、このことを識知いたします。彼は、第八の滅びの者です。世尊よ、第九の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
108
〔世尊は答えた〕「自らの妻たちに満足せず、娼婦たちに見とれ、他者の妻たちに見とれる−−それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
109
〔天の神が尋ねた〕「おっしゃるとりに、まさに、このことを識知いたします。彼は、第九の滅びの者です。世尊よ、第十の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
110
〔世尊は答えた〕「盛りを過ぎた男が、ティンバル〔樹の果実〕のような乳房ある〔若い女〕を導き入れ、彼女への嫉妬で〔夜も〕眠らない−−それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
111
〔天の神が尋ねた〕「おっしゃるとりに、まさに、このことを識知いたします。彼は、第十の滅びの者です。世尊よ、第十一の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
112
〔世尊は答えた〕「酒乱の女や浪費する〔女〕、あるいはまた、そのような男を、権力あるところに置く−−それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
113
〔天の神が尋ねた〕「おっしゃるとりに、まさに、このことを識知いたします。彼は、第十一の滅びの者です。世尊よ、第十二の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
114
〔世尊は答えた〕「財物が少なく、〔それでいて〕渇愛の大きい者が、士族の家に生まれ、彼が、この〔世において〕王権を切望する−−それが、滅びつつあるの者の入り口です。
115
賢者は、世における、これらの滅びの者たちを観察して、〔あるがままの〕ものの見方を成就した聖者となり、彼は、至福の世〔界〕へと親しみ行くのです」〔と〕。

 第七経 賤民

116
憤怒と怨恨の者、そして、〔為した〕悪を隠覆する人、堕落した見解の幻術師[さぎし](偽善者)−−彼を「賤民である」と知るように。
117
あるいは、一度生まれのもの(胎生)、あるいはまた、二度生まれのもの(卵生)など、この〔世において〕生き物たちを害し、彼に、生き物にたいする憐憫〔の思い〕が存在しない者−−彼を「賤民である」と知るように。
118
村々や町々を制圧し、占領し、圧制者として知られた者−−彼を「賤民である」と知るように。
119
もしくは、村であろうと、林であろうと、他者たちの私有物を、盗みごころから、与えられていないのに取る者−−彼を「賤民である」と知るように。
120
まさに、借金をしておきながら、叱責されるとなると、「あなたからの借金は、まさに、存在しない」と逃げる者−−彼を「賤民である」と知るように。
121
まさに、微々たるものが欲しくて、道行く人を殺して、微々たるものを奪い取る者−−彼を「賤民である」と知るように。
122
自己を因とし、他者を因とし、さらには、財を因とする、〔利己的な〕人が、じかに〔問いを〕尋ねられた者(教え手)として、諸々の虚偽を説く−−彼を「賤民である」と知るように。
123
無理強いで、あるいは、了解したうえで、親族、あるいは、友の妻たちと相見[まみ]える者−−彼を「賤民である」と知るように。
124
あるいは、母が、あるいは、父が、老いて、盛りが過ぎたのを、〔やれば〕できる者として存していながら、養わない者−−彼を「賤民である」と知るように。
125
あるいは、母を、あるいは、父を、兄弟を、姉妹を、姑を、言葉で傷つけ、悩ます者−−彼を「賤民である」と知るように。
126
義(意味)を問い尋ねられた者として存しながら、義(意味)ならざることを教え、隠し事を告げる者−−彼を「賤民である」と知るように。
127
悪しき行為(業)を為しておきながら、「〔他者が〕わたしのことを知ることがあってはならない」と求める、隠し事の行為ある者−−彼を「賤民である」と知るように。
128
まさに、他者の家に行き、御馳走を食べておきながら、〔客として〕やってきた者を歓迎しない者−−彼を「賤民である」と知るように。
129
あるいは、婆羅門を、あるいは、沙門を、あるいはまた、他の乞食[こつじき]者を、虚偽の論で騙す者−−彼を「賤民である」と知るように。
130
あるいは、婆羅門を、あるいは、沙門を、食事の時がやってきたのに、言葉で悩ませ、そのうえ、〔食を〕与えない者−−彼を「賤民である」と知るように。
131
この〔世における〕正しからざる者たちの〔論を〕説き、迷妄に包まれ、微々たるものを貪り求める者−−彼を「賤民である」と知るように。
132
あるいは、自己を褒め上げ、あるいは、他者を見下し、自らの高慢〔の思い〕によって、下劣な者となる−−彼を「賤民である」と知るように。
133
〔他者を〕悩ませ、かつまた、吝嗇[けち]で、悪を求め、物惜しみで、狡猾[あこぎ]で、恥知らずで(無慚)、〔良心の〕咎めなき者(無愧)−−彼を「賤民である」と知るように。
134
覚者(ブッダ)を、あるいはまた、彼の弟子を、出家あるいは在家であれ、誹謗する者−−彼を「賤民である」と知るように。
135
まさに、阿羅漢(人格完成者)ならざる者として存在しながら、「阿羅漢である」〔と〕公言する、梵〔界〕を含む世〔界〕における盗賊−−まさに、これは、最低の賤民である。わたしがあなたたちに明らかにした、これらの者たちは、まさに、「賤民」〔と〕呼ばれた者たちである。
136
〔人は〕出生[うまれ]によって、賤民(非人)と成るのではない。〔人は〕出生によって、婆羅門(聖職者)と成るのではない。行為(業)によって、賤民と成る。行為(業)によって、婆羅門と成る。
137
わたしの、〔以下に示す〕この実例のとおり、このことによっても、それ(賤民)について、知りなさい。
 チャンダーラ(旋陀羅:賤民、非人)の子で、「犬殺しのマータンガ」として〔世に〕聞こえた者が〔いた〕。
138
そのマータンガは、〔修行の結果、煩悩の滅尽という〕極めて得難い最高の福徳を得た。多くの士族や婆羅門たちが、彼に奉仕するためにやってきた。
139
彼は、天の乗り物に乗って、〔世俗の〕塵を離れた大いなる道を〔行き〕、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離染させて、梵世(梵天界)の到達者と成った。〔チャンダーラ族という〕出生[うまれ]は、彼を妨げなかった−−梵世への再生について。
140
〔聖典〕読誦者の家に生まれ、呪文を眷属[きずな]とする婆羅門たち−−しかしながら、彼らは、諸々の悪しき行為(業)のうちに〔耽っているのが〕、一度ならず見受けられる。
141
あるいは、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において非難されるべき者たちは、しかして、未来(来世)において悪しき境遇(悪趣)の者と〔成る〕。〔婆羅門という〕出生は、彼らを妨げない−−悪しき境遇(悪趣)、あるいは、非難から。
142
〔人は〕出生によって、賤民(非人)と成るのではない。〔人は〕出生によって、婆羅門(聖職者)と成るのではない。行為(業)によって、賤民と成る。行為(業)によって、婆羅門と成る。

 第八経 慈愛

143
かの、寂静の境地を知悉して、〔解脱という〕義(目的)に智ある者(出家修行者)が為すべきことは、〔以下のとおりである〕。
 有能で、なおかつ、真っすぐで、そのうえ、極めて正直で、かつまた、素直で、柔和で、増慢〔の思い〕なき者として、〔世に〕存するように。
144
また、〔足ることを知り、常に〕満ち足りている者として、なおかつ、〔他者を煩わせない〕扶養し易き者として、さらには、為すべきこと(世俗の義務)少なき者として、軽素な生活者として、かつまた、寂静なる〔感官〕機能(根)の者として、しかして、賢明なる者として、尊大ならず、〔行乞する〕家々に貪りなき者として、〔世に存するように〕。
145
また、他の識者たちが批判するであろうなら、どんなに小さなことであっても、行じおこなわないように。あるいは、一切の有情(生類)は、安楽で、平安の者たちと成れ−−自己〔自ら〕が楽しむ者たちと成れ。
146
何であれ、生き物と成ったものが〔世に〕存するなら、あるいは、動くものたちも、あるいは、動かないものたちも、残りなく、あるいは、長いものたちも、あるいは、大きいものたちも、中くらいのものたちも、短いものたちも、微細や粗大のものたちも−−
147
あるいは、〔かつて〕見たものたちも、あるいは、〔いまだ〕見たことがないものたちも、さらには、遠くに〔住むものたちも〕、遠からざるところに住むものたちも、あるいは、〔すでに〕生まれ落ちたものたちも、あるいは、〔これから〕生まれ来ることを求めるものたちも、一切の有情(生類)は、自己〔自ら〕が楽しむ者たちと成れ。
148
他者が他者を欺くことがないように。どこにあろうと、誰であろうと、軽んじることがないように。怒りから、憤りの想い(想:認識対象を表象し概念化する働き)から、互いに他の苦しみを求めることがないように。
149
母が自分の子を〔守るように、それも〕命がけで独り子を守るように、また、このように、一切の生類にたいし、無量なる〔慈愛の〕意[こころ]を修めるように。
150
しかして、一切世〔界〕にたいし、無量なる慈愛の意を修めるように。上に、また、下に、さらには、横に、隔てなく、怨みなく、敵のない〔意〕を〔修めるように〕。
151
立ち、歩き、あるいは、坐していても、あるいは、臥していても、眠気を離れ去った者として存するかぎりは、この〔行住坐臥の〕気づき(念)を〔瞬間瞬間に〕確立するように。この〔行住坐臥の気づき〕を、「この〔世における〕梵住〔の境地〕(理想の生活)」と言う。
152
しかして、〔誤った〕見解へと近づき行くことなくして、〔正しい〕ものの見方を成就した、戒ある者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を取り除いて、もはや、胎内へとふたたび至り行くことは、まさに、ない。

 第九経 ヘーマヴァタ

153
サーターギラ夜叉が〔言った〕「今日、十五〔日〕は、斎戒〔の日〕(布薩)です。〔神聖にして〕天なる夜が、やってきました。至上の名ある教師ゴータマ(ブッダ)に、さあ、〔わたしたちは〕お目にかかるのです」と。
154
ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、そのような方(ブッダ)の意[こころ]は、一切の生類にたいし、善く向けられていますか。どうでしょう、彼の〔思慮〕分別は、〔好ましいものとして〕求められたものや〔疎ましいものとして〕求められなかったものにたいし、〔分け隔てなく〕自在に為されていますか」と。
155
サーターギラ夜叉が〔答えた〕「たしかに、そのような方である、彼の意は、一切の生類にたいし、善く向けられています。また、彼の〔思慮〕分別は、〔好ましいものとして〕求められたものや〔疎ましいものとして〕求められなかったものにたいし、〔分け隔てなく〕自在に為されています」と。
156
ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、〔彼は〕与えられていないものを取ることはないですか。どうでしょう、生き物たちにたいし自制〔の思い〕ある者ですか。どうでしょう、〔気づきを〕怠ること(放逸)から遠くにありますか。どうでしょう、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を捨てることはないですか」と。
157
サーターギラ夜叉が〔答えた〕「彼は、与えられてないものを取りません。また、生き物たちにたいし自制〔の思い〕ある者です。また、〔気づきを〕怠ること(放逸)から遠くにあります。覚者(ブッダ)は、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を捨てません」と。
158
ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、〔彼は〕諸々の虚偽を語ることはないですか。どうでしょう、言葉の用途(正しい言葉づかい)が滅尽した者ではないですか。どうでしょう、陰口を言うことはないですか。どうでしょう、〔無意味な〕雑談を語ることはないですか」と。
159
サーターギラ夜叉が〔答えた〕「たしかに、彼は、諸々の虚偽を語りません。また、言葉の用途(正しい言葉づかい)が滅尽した者ではありません。また、陰口を言うことはありません。彼は、〔正しく〕思い考えて、義(道理)のあることを語ります」と。
160
ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、〔彼は〕諸々の欲望〔の対象〕に染まることはないですか。どうでしょう、〔彼の〕心は混濁してないですか。どうでしょう、〔彼は〕迷いを超え行きましたか。どうでしょう、諸法(もの・こと)について眼[まなこ]ある者ですか」と。
161
サーターギラ夜叉が〔答えた〕「彼は、諸々の欲望〔の対象〕に染まりません。また、〔彼の〕心は混濁してません。〔彼は〕一切の迷いを超え行きました。覚者(ブッダ)は、諸法(もの・こと)について眼ある者です」と。
162
ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、〔彼は〕明知の成就者ですか。どうでしょう、清らかな行ないある者ですか。どうでしょう、彼の、諸々の煩悩は滅尽しましたか。どうでしょう、〔彼に〕さらなる〔迷いの〕生存が存在することはないですか」と。
163
サーターギラ夜叉が〔答えた〕「まさしく、〔彼は〕明知の成就者です。また、清らかな行ないある者です。彼の、一切の煩悩は滅尽しました。彼に、さらなる〔迷いの〕生存が存在することはありません」と。
163A
〔ヘーマヴァタ夜叉が言った〕「牟尼の心は、〔正しい〕行為(業)と言葉の用途(言葉の正しい使用)を成就しました。明知と行ないの成就者である彼を、〔あなたは〕法(真理)ゆえに賞賛します」〔と〕。
163B
〔サーターギラ夜叉が言った〕「牟尼の心は、〔正しい〕行為(業)と言葉の用途(言葉の正しい使用)を成就しました。明知と行ないの成就者を、〔あなたは〕法(真理)ゆえに随喜します。
164
牟尼の心は、〔正しい〕行為(業)と言葉の用途(言葉の正しい使用)を成就しました。明知と行ないの成就者ゴータマ(ブッダ)に、さあ、〔わたしたちは〕お目にかかるのです」〔と〕。
165
〔ヘーマヴァタ夜叉が言った〕「鹿のような脛をもち、痩せ細り、食少なく、〔味覚の対象に心が〕動かない慧者(ブッダ)に、林のなかで瞑想する牟尼ゴータマ(ブッダ)に、さあ、〔わたしたちは〕お目にかかるのです。
166
獅子や象のように独り歩む方に、諸々の欲望〔の対象〕について期待なき方に、近しく赴いて、死魔の罠からの解放について、〔わたしたちは〕問い尋ねるのです」〔と〕。
167
〔サーターギラ夜叉とヘーマヴァタ夜叉が言った〕「〔真理を〕告知し〔真理を〕伝授する方に、一切諸法(現象世界)の彼岸に達した方に、怨恨と恐怖〔の思い〕を過去にした覚者ゴータマ(ブッダ)に、わたしたちは問い尋ねるのです」〔と〕。
168
ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「何があるとき、世〔界〕の生起があるのですか。何について、〔人は〕親愛〔の情〕(愛着の思い)を為すのですか。何にたいし、世〔の人々〕は執取し、何について、世〔の人々〕は打ちのめされるのですか」と。
169
世尊は〔答えた〕「ヘーマヴァタよ、六つのもの(色・声・香・味・触・法)があるとき、世〔界〕の生起があります。六つのものについて、〔人は〕親愛〔の情〕(愛着の思い)を為します。まさしく、六つのものにたいし、〔世の人々は〕執取し、六つのものについて、世〔の人々〕は打ちのめされます」と。
170
〔ヘーマヴァタ夜叉が尋ねた〕「世〔の人々〕が打ちのめされる所〔である六つのもの〕について、そのどれが、執取〔の対象〕なのですか。〔問いを〕尋ねられた者として、〔迷いの世界からの〕出離について、説いてください。どのようにして、苦しみから解き放たれるのですか」〔と〕。
171
〔世尊は答えた〕「世における五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)と、意〔の対象〕という第六のもの(法)が、〔あなたたちに〕知らされました。ここ(色・声・香・味・触・法)において、欲〔の思い〕を離染させて、このように、苦しみから解き放たれるのです。
172
このことが、あなたたちに真実のとおりに告げ知らされた、〔迷いの〕世〔界〕からの出離です。このことを、わたしは、あなたたちに告げ知らせます。このように、苦しみから解き放たれるのです」〔と〕。
173
〔ヘーマヴァタ夜叉が尋ねた〕「いったい、誰が、この〔世において〕、激流を超えるのですか。誰が、この〔世において〕、〔迷いの〕海を超えるのですか。足場なく基盤のない、深きところ(迷いの海)に沈まないのは、誰ですか」〔と〕。
174
〔世尊は答えた〕「一切時において戒を成就した者、〔心が〕善く定められた知慧ある者、内に〔正しい〕思弁ある気づきの者が、超え難き激流を超えます。
175
欲望〔の対象〕についての想い(想:表象・概念)を離れた者、一切の束縛を超え行く者、喜び〔の思い〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者−−彼は、深きところ(迷いの海)に沈みません」〔と〕。
176
〔サーターギラ夜叉とヘーマヴァタ夜叉が言った〕「甚深なる知慧ある方を、微妙[みみょう]なる義(道理)を〔正しく〕見る方を、無一物で欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存に執着なき方を、彼を、見よ−−一切所に解脱した方を、天なる道を歩み行く偉大なる聖賢を。
177
至上の名ある方を、微妙なる義(道理)を〔正しく〕見る方を、〔解脱の〕知慧を与える方を、欲望と執着〔の対象〕に執着なき方を、彼を、見よ−−一切を知る思慮深き方を、聖なる道を歩み行く偉大なる聖賢を。
178
すばらしい夜明けとすばらしい目覚めの今日、まさに、わたしたちは、すばらしいものを見ました。激流を超えた煩悩なき正覚者(ブッダ)を見たのです。
179
神通あり、福徳ある、これら、千の夜叉たちは、〔その〕全てが、あなたという帰依所へと行きます(覚者に帰依する)。あなたは、わたしたちにとって、無上の教師です。
180
そして、わたしたちは、村から村、山から山へと、渡り歩くでありましょう。正覚者(ブッダ)を、さらには、法(もの・こと)が見事に法(もの・こと)たることを、礼拝しながら」〔と〕。

 第十経 アーラヴァカ

181
〔アーラヴァカ夜叉が尋ねた〕「いったい、何が、人にとって、この〔世における〕最勝の富ですか。いったい、何が、善く行じおこなわれた安楽〔の境地〕をもたらすのですか。いったい、何が、諸々の味のなかでは、まさに、より美味なるものですか。どのように生きる生命を、『最勝のもの』と言うのですか」〔と〕。
182
〔世尊は答えた〕「信が、人にとって、この〔世における〕最勝の富です。法(教え)が、善く行じおこなわれた安楽〔の境地〕をもたらします。真理が、諸々の味のなかでは、まさに、より美味なるものです。知慧によって生きる生命を、『最勝のもの』と言います」〔と〕。
183
〔アーラヴァカ夜叉が尋ねた〕「いったい、どのようにして、激流を超えるのですか。いったい、どのようにして、〔迷いの〕海を超えるのですか。いったい、どのようにして、苦しみを超え行くのですか。いったい、どのようにして、〔人は〕遍く清まるのですか」〔と〕。
184
〔世尊は答えた〕「信によって、激流を超えます。〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)によって、〔迷いの〕海を超えます。精進によって、苦しみを超え行きます。知慧によって、〔人は〕遍く清まります」〔と〕。
185
〔アーラヴァカ夜叉が尋ねた〕「いったい、どのようにして、知慧を得るのですか。いったい、どのようにして、財を見出すのですか。いったい、どのようにして、栄誉を得るのですか。どのようにして、朋友たちと〔交友を〕結ぶのですか。どのようにして、この世から他世へと、死後において憂い悲しまないのですか」〔と〕。
186
〔世尊は答えた〕「涅槃〔の境地〕を得るため、阿羅漢(人格完成者)たちの法(教え)に信を置き、〔法を〕聞くことを願う、明眼で〔気づきを〕怠らない者は、知慧を得ます。
187
適切なことを為し、重荷をにない、奮起する者は、財を見出します。真理によって、栄誉を得ます。与える者は、朋友たちと〔交友を〕結びます。
188
彼に、信ある〔在家の〕家長に、真理と法(教え)と〔道心〕堅固と施与という、これら、四つの法(もの・こと)があるなら、まさに、彼は、死後において憂い悲しみません。
189
この〔世において〕、真理と調御と施与と忍耐よりも、より一層のものが見出されるなら、さあ、他の沙門や婆羅門たちにも、広く問い尋ねてみなさい」〔と〕。
190
〔アーラヴァカ夜叉が言った〕「いったい、どのようにして、今や、〔他の〕沙門や婆羅門たちに、広く問い尋ねることができましょう。そして、わたしは、今日、来世における義(利益)を覚知したのです。
191
まさに、わたしの義(利益)のために、覚者(ブッダ)は、アーラヴィー(地名)に住むべく、やってきたのです。そして、わたしは、今日、どこに布施すれば大いなる果があるかを覚知したのです。
192
そして、わたしは、村から村、町から町へと、渡り歩くでありましょう。正覚者(ブッダ)を、さらには、法(もの・こと)が見事に法(もの・こと)たることを、礼拝しながら」〔と〕。

 第十一経 勝利

193
もしくは、あるいは、歩いているか、あるいは、立っているか−−あるいはまた、坐り、臥しているか−−〔身体を〕伸ばし、〔身体を〕曲げる−−これが、身体の動きである。
194
骨と腱で束縛され、皮と肉で塗装され、皮膚によって隠蔽された身体は、有るがままに見られない。
195
〔身体は〕腸で満ち、胃で満ち、肝臓、膀胱、心臓、肺臓、腎臓、脾臓と−−
196
鼻水、唾液、汗、脂肪と、血液、髄液、胆汁と、膏とで〔満ちている〕。
197
また、この、〔身体の〕九つの流れからは、一切時において、不浄物が流れ出る。目から目糞が、耳から耳糞が−−
198
そして、鼻から鼻水が〔流れ出る〕。或る時は、口から胆汁を吐き、あるいは、痰を吐く。身体から汗と垢が〔流れ出る〕。
199
また、この、空洞の頭蓋は、脳味噌で満たされている。〔この、不浄の身体を〕偏重する愚者は、それを、無明のゆえに、「美しい(価値がある)」と思いなす。
200
しかして、彼は、死んで〔地に〕臥すとき、膨張し青黒くなって、墓場に捨てられ、親族たちは、〔彼について〕期待なき者と成る。
201
彼を、犬や狐や狼、蛆虫たちが喰い、さらには、〔彼を餌にする〕他の生あるものたちが存在し、烏や鷲たちが〔彼を〕喰う。
202
覚者(ブッダ)の言葉を聞いて、比丘は、この〔世において〕、知慧ある者となる。まさに、彼は、それ(身体)について知り尽くし、まさに、有るがままに見る。
203
「この〔身体〕が〔そうである〕ように、そのように、この〔死体〕は〔存していた〕。この〔死体〕が〔そうである〕ように、そのように、この〔身体〕は〔成るだろう〕」〔と見て〕、内にも、外にも、身体についての欲〔の思い〕を離染させるように。
204
欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が離染した、その比丘は、この〔世において〕、知慧ある者となる。不死なる寂静に、不死なる涅槃の境地に、〔彼は〕到達した。
205
この二足の者(人間)は、不浄で、悪臭をはなち、〔諸々の香料によって、悪臭から〕守られている。種々の死骸(汚物)で遍く満ち、そこかしこから、〔汚物が〕流れ出ている。
206
このような〔不浄の〕身体によって、傲慢に思いなし(他者に褒められたいと思い考え)、あるいは、他者を見下すなら、〔彼は〕見なき者より他の、何だというのだろう(盲者以外の何ものでもない)。

 第十二経 牟尼

207
親愛〔の情〕から、恐怖が生じた。家〔への思い〕から、塵が生まれる。家なく、親愛〔の情〕なきこと−−まさに、これは、牟尼(沈黙の聖者)のものの見方である。
208
生じたもの(煩悩)を断ち切って、成長させないなら、〔もしくは〕その生まれつつあるものに〔成長の機会を〕与えないなら、彼を、〔賢者たちは〕「独り歩む牟尼」と言う。彼は、偉大なる聖賢として、寂静の境地を見た。
209
〔迷いの生存についての〕諸々の根拠を考究して、〔その〕種子を粉砕し、〔もしくは〕それについての愛執〔の思い〕に〔成長の機会を〕与えないなら、まさに、彼は、生の滅尽と終極を見る牟尼であり、〔邪〕説を捨てて、〔虚構の〕名称(概念)に近づくことはない(名付けを離れた存在となる)。
210
諸々の〔妄執が〕固着する場の一切を了知して、それらのなかの唯[ただ]一つをも、欲さずにいるなら、まさに、彼は、貪り〔の思い〕を離れた無貪の牟尼であり、〔打算的に〕努力することなく、まさに、彼岸に達した者として、〔世に〕有る。
211
一切に勝利する者、一切を知る者、思慮深き者、一切の諸法(もの・こと)に汚されない者、一切を捨てた者、渇愛の滅尽〔という境地〕において解脱した者−−まさしく、彼をも、慧者たちは「牟尼」と知る。
212
知慧の力あり、戒と掟を具有した者−−〔心が〕定められ、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を喜ぶ、気づきある者−−執着から解き放たれ、鬱屈[わだかまり]なく、煩悩なき者−−まさしく、彼をも、慧者たちは「牟尼」と知る。
213
〔気づきを〕怠ることなく、独り歩む牟尼−−諸々の音に動じない獅子のように、〔鳥捕りの〕網に着[ちゃく]さない風のように、〔泥〕水に汚されない蓮華のように、諸々の非難や賞賛〔の声〕に〔心が〕動かない者−−他者に導かれず、他者たちを導く者−−まさしく、彼をも、慧者たちは「牟尼」と知る。
214
彼にたいし、他者たちが極端な言葉を説いても、水浴場にある柱のように〔どっしりと〕構えているなら、貪欲を離れ、〔感官〕機能(根)が善く定められた彼を、まさしく、彼をも、慧者たちは「牟尼」と知る。
215
まさに、梭[ひ](はた織りの道具)のように、真っすぐに自己を安立[あんりゅう]し、諸々の悪しき行為(業)を忌避し、差異と平等を〔あるがままに〕考察する者−−まさしく、彼をも、慧者たちは「牟尼」と知る。
216
自己を自制し、悪を為さない者−−あるいは、青年であろうが、あるいは、中年であろうが、自己を制した牟尼−−彼は、〔何ものにも〕悩まされず、何ものをも悩ますことがない。まさしく、彼をも、慧者たちは「牟尼」と知る。
217
最初のものであれ、中程のものであれ、あるいは、残りもの(残飯)であれ、他者の施しに依拠して生きる者(出家者)として、〔行乞の〕食を得たなら、褒めようにも十分ならず、また、不平を説くでもない者(褒めもせず貶しもしない者)−−まさしく、彼をも、慧者たちは「牟尼」と知る。
218
若くありながら、何ものにも縛られず、淫欲から離れて歩む牟尼−−驕りと怠りから離れた解脱者−−まさしく、彼をも、慧者たちは「牟尼」と知る。
219
世〔のあり様〕を了知して、最高の義(勝義:涅槃の境地)を見る者−−〔貪りの〕激流と〔欲の〕海を超え渡って、拘束を断ち、依存なく、煩悩なく、そのような者である彼を、まさしく、彼をも、慧者たちは「牟尼」と知る。
220
〔在家と出家の〕両者は、等しくない。住居と生活は、遠く離れている。在家者は、妻を養う者である。そして、善き掟[おこない]の者(出家者)は、我執なき者である。在家者は、他の生き物を殺傷することに、自制なき者である。〔自己を〕制した牟尼は、常に、生き物たちを守る。
221
青首の孔雀が宙を行くなら、どんな時も、白鳥の速さには近づかないように、このように、在家者は、比丘には付いて行けない−−林のなかで瞑想する、遠離の牟尼には。


第二章 小なるもの

 第一経 宝

222
ここに集いあつまった精霊たち、あるいは、地上にあるものも、あるいは、空中にあるものも、まさしく、一切の精霊たちよ、意[こころ]楽しく有れ。そしてまた、〔わたしの〕語るところを、つつしんで聞け。
223
それゆえに、まさに、一切の精霊たちよ、こころして聞け。人間である人々にたいし、慈愛〔の心〕を為せ。それゆえに、まさに、昼も、夜も、〔あなたたちに〕供物を運ぶ者たちである、彼らを、怠りなく守れ。
224
あるいは、この〔世〕における、あるいは、あの〔世〕における、どのような富も、あるいは、諸々の天上における、妙なる宝も、如来(あるがまま行為者)と等しいものは、けっして、存在しない。これもまた、覚者(仏:ブッダ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
225
〔心が〕定められた者である、サキャ〔族〕の牟尼(釈迦牟尼)が到達した、滅尽と離貪という、妙なる不死〔の境地〕−−その法(教え)と等しいものは、何であれ、存在しない。これもまた、法(法:教え)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
226
最勝の覚者(ブッダ)が遍く褒め称えた、清浄〔の境地〕−−それを、〔賢者たちは〕「無間[むけん]の〔心〕統一(無間定:時を要さない、即時の禅定)」と言う。その、〔心の〕統一(定:三昧の境地)と等しいものは、〔どこにも〕見出されない。これもまた、法(法:教え)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
227
正しくある者たちに賞賛された、これら四組の者たち八人(四双八輩:正覚に至る四階梯の各々において学びつつある者と学び終えた者の計八人)が〔世に〕有るなら、彼ら、善き至達者(ブッダ)の弟子たちは、施与されるべきである。これらの者たちにたいする諸々の布施は、大いなる果となる。これもまた、僧団(僧:サンガ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
228
堅固な意[おもい]で〔心が認識の対象に〕しっかりと結び付けられ、ゴータマ(ブッダ)の教えにおいて〔心が欲望の対象に〕無欲なる者たち−−彼らは、不死〔の境地〕に入って得るべきものを得た者たちであり、寂滅〔の境地〕を空手[くうしゅ]で得て享受している者たちである。これもまた、僧団(僧:サンガ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
229
インダ(インドラ神)の杭(城門に立てられた標柱)が大地に依拠して存し、四〔方〕の風に不動であるように、その喩えのような者を、〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)を的確に見る、正しい人と〔わたしは〕説く。これもまた、僧団(僧:サンガ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
230
甚深[じんじん]なる知慧の者によって見事に示された、〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)を分明する者たち−−たとえ、何であれ、彼らが多く怠る者たちで有っても、彼らは、第八の生存(有)を取らない(最高で七回までの輪廻のうちに解脱する)。これもまた、僧団(僧:サンガ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
231
まさしく、彼の、ものの見方の成就と共に、まさに、三つの法(もの・こと)が捨て去られたものと成る。〔すなわち〕何であれ、存在するかぎりの、身体が有るという見解(有身見)、および、疑惑〔の思い〕、あるいはまた、〔執着の対象になった〕戒や掟である。また、四つの苦境(地獄・畜生・餓鬼・阿修羅)から解脱し、かつまた、六つの極罪を為すこと(母を殺すこと・父を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・覚者を傷つけること・僧団を分裂させること・異教の者を師とすること)は起こりえない。これもまた、僧団(僧:サンガ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
232
たとえ、何であれ、彼が、身体によって、言葉によって、あるいはまた、心によって、何らかの悪しき行為(業)を為すことがあっても、彼が、それを隠し立てすることは起こりえない。「〔涅槃の〕境地を見た者には、〔そのようなことは〕起こりえない」と〔覚者によって〕説かれた。これもまた、僧団(僧:サンガ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
233
〔四つある〕夏の月の第一の夏(春先)に、先端が〔一斉に〕開花した林の茂みのように、その喩えのように、〔覚者は〕涅槃に至る優れた法(教え)を、最高の利益のために〔他に先駆けて〕示した。これもまた、覚者(仏:ブッダ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
234
優れた者、優れたものを知る者、優れたものを与える者、優れたものを運び来る者、無上なる方が、優れた法(教え)を示した。これもまた、覚者(仏:ブッダ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
235
古きもの(過去の業)が滅尽し、新しいものの生起が存在せず、未来における生存にたいし心が離染した者たち−−慧者である彼らは、〔迷いの〕種子が滅尽し、成長の欲なく、この灯明[ともしび]のように、消え行く(涅槃に到達する)。これもまた、僧団(僧:サンガ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
236
ここに集いあつまった精霊たち、あるいは、地上にあるものも、あるいは、空中にあるものも−−〔わたしたちは〕天〔の神々〕と人間たちによって供養された如来を、覚者(仏:ブッダ)を、礼拝する−−安穏成れ。
237
ここに集いあつまった精霊たち、あるいは、地上にあるものも、あるいは、空中にあるものも−−〔わたしたちは〕天〔の神々〕と人間たちによって供養された如来を、法(法:教え)を、礼拝する−−安穏成れ。
238
ここに集いあつまった精霊たち、あるいは、地上にあるものも、あるいは、空中にあるものも−−〔わたしたちは〕天〔の神々〕と人間たちによって供養された如来を、僧団(僧:サンガ)を、礼拝する−−安穏成れ。

 第二経 生臭

239
〔苦行者ティッサが尋ねた〕「諸々のサーマーカ(雑穀)やディングラカ〔草〕やチーナカ〔豆〕を、葉の果(野菜)や根の果(根菜)や蔓の果(果実)を、正しくある者たちの法(教え)によって得たもの(規則どおりに採取したもの)を、〔常に〕食べている者たち−−〔彼らは〕欲を欲するままに偽りを語ることがありません。
240
〔しかしながら〕上手に作り為され、見事に盛り付けされたものを〔常に〕食べている者−−他者たちによって布施され供与された妙なるものを、〔雑穀の混じらない〕米〔だけ〕の食べ物を、遍く食べている者−−カッサパ(迦葉:過去仏)よ、彼は、生臭[なまぐさ]ものを食べているのです。
241
梵〔天〕(ブラフマン)の眷属であるあなた(過去仏カッサパ)は、上手に調理された諸々の鳥の肉とともに、〔雑穀の混じらない〕米〔だけ〕の食べ物を遍く食べつつ、『生臭の者は、わたしには受け入れられない』と、まさしく、かくのごとく語ります。カッサパよ、この義(意味)について、あなたに尋ねます。あなたの〔説く〕生臭は、どのような流儀[ありかた]のものですか」〔と〕。
242
〔過去仏カッサパは答えた〕「生き物を殺すこと、〔生き物を〕打つことと切ることと縛ること、〔物を〕盗むこと、虚偽を説くこと、欺くこと、騙すことと、〔役に立たない〕学問に傾倒すること、他者の妻と慣れ親しむこと−−これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。
243
この〔世における〕諸々の欲望〔の対象〕にたいし自制なき人たち、諸々の味を貪る者たち、不浄のものと交わる者たち、『〔何であれ〕存在しない』という見解の者(断見論者)たち、正しからざる者たち、捉えどころなき者(教え難き者)たち−−これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。
244
粗野な者たち、凶悪な者たち、陰口を言う者たち、朋友を裏切る者たち、慈しみ〔の心〕なく増慢の者たち、そして、施さないことを戒[ならい]とし、誰にたいしても施さない者たち−−これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。
245
憤怒、驕慢、強情、反抗、そして、幻想[ごまかし]、嫉妬、大言壮語、そして、高慢と増慢、そして、正しからざる者たちへの親愛−−これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。
246
悪を戒とし、借金を踏み倒し、告げ口をし、裁きにおいて奸計あり、この〔世において〕、それらしい形態[なり]をする者(偽善者)たち−−この〔世において〕、罪障を作る、最低の人たち−−これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。
247
この〔世において〕、諸々の生き物にたいし自制なき人たち−−他者たちのものを取って、害することに専念する者たち−−戒に劣り、貪欲ある者たち−−粗暴で、礼を欠く者たち−−これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。
248
これら〔の生き物たち〕にたいし貪り〔の思い〕ある者たち、〔行く手を〕遮り殺害する者(敵意を抱き、害を為す者)たち、常に〔正しからざることに〕専念する〔迷える〕有情たちは、死してのち、闇に赴き、頭を下にして〔真っ逆さまに〕地獄に堕ちる−−これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。
249
魚肉〔を食べないこと〕にあらず、断食することにあらず、あるいは、裸身でいること、剃髪すること、結髪すること、埃〔をかぶること〕、粗い鹿皮〔をまとうこと〕にあらず、あるいは、祭火の勤行にあらず、あるいはまた、世において多く〔為される〕不死の苦行、呪文や供犠、祭祀や季節の勤行に〔あらず〕−−疑惑を超えずにいる人間を清めるのは。
250
諸々の〔欲望の〕流れにたいし〔心が〕守られた者として、〔感官〕機能(根)を征圧した者として、歩むように。法(正義)に依って立ち、正直で柔和であることを喜び、執着を超え行き、一切の苦しみを捨て去った慧者は、諸々の見られ聞かれたもの(執着の対象になった認識対象)に汚されません」〔と〕。
251
かくのごとく、世尊(過去仏カッサパ)は、繰り返し、この義(意味)を告げ知らせた。呪文の奥義に達した者(苦行者ティッサ)は、その〔意味〕を知った。生臭なく、〔何ものにも〕依存せず、〔何ものによっても〕捉えどころなき牟尼は、様々な詩偈によって、〔それを〕明らかにした。
252
見事に語られた覚者の句を、生臭なく一切の苦しみを除く〔教え〕を聞いて、〔苦行者ティッサは〕謙虚な意[こころ]で如来を拝し、まさしく、その場において、ここに、出家することを選んだ。

 第三経 恥

253
恥〔の思い〕を超え(無視し)、忌避する者−−「わたしは、〔あなたの〕友として存在する」と語りながら、諸々のできる行為(業)を引き受けずにいる者−−彼のことを、「これは、わたしの〔友〕ではない」と、かくのごとく識知するように。
254
〔実行を〕伴わない愛しい言葉を、朋友たちのあいだで作り為す(語る)なら、賢者たちは、〔彼のことを〕「為さずに語っている者」と知り尽くす。
255
〔朋友にたいし〕常に〔警戒を〕怠らず、〔友情の〕変壊を危惧し、〔相手の〕欠点だけを観る者−−彼は、朋友ではない。しかしながら、〔母の〕胸に子が臥すように彼のうちにあり、他者たちによって〔彼との友情が〕壊れないなら、まさに、彼は、朋友である。
256
果報と利徳ある者は、人としての重荷を運びつつ、歓喜を作り為す状況(喜びの因となる精進努力)を、賞賛をもたらす安楽(涅槃へと導く精進努力)を、習い修める。
257
遠離の味わいを、さらには、寂止の味わいを飲み干して、懊悩なく悪なき者と成る−−法(真理)の喜びの味わいを飲み干しながら。

 第四経 大いなる幸福

258
〔天の神が尋ねた〕「多くの天〔の神々〕や人間たちは、安穏を望みながら、諸々の幸福について、思い考えました。最上の幸福について、説いてください」〔と〕。
259
〔世尊は答えた〕「愚者たちと慣れ親しまないことと、賢者たちと慣れ親しむことと、供養すべき者たちに供養することと−−これが、最上の幸福です。
260
適切な地に住むことと、過去に為された善き〔行為〕と、自己についての正しい誓願と−−これが、最上の幸福です。
261
多聞(博識)と、技芸と、善く学ばれた律[りつ](規律)と、見事に語られた言葉と−−これが、最上の幸福です。
262
母と父に奉仕すること、子と妻を愛護すること、業務に混乱なきことと−−これが、最上の幸福です。
263
布施と、法(教え)にかなう行ないと、親族たちを愛護することと、罪過なき諸々の行為(業)−−これが、最上の幸福です。
264
悪から離れること、〔悪から〕去ること、酔う飲み物(酒)について自制あることと、諸法(もの・こと)にたいし〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)と−−これが、最上の幸福です。
265
尊重と、謙譲と、知足と、知恩、〔正しい〕時に法(教え)を聞くこと−−これが、最上の幸福です。
266
忍耐と、素直〔な心〕、沙門たちと相見[まみ]えることと、〔正しい〕時に法(教え)を論じること−−これが、最上の幸福です。
267
苦行と、梵行(禁欲清浄行)と、〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)を見ること、涅槃〔の境地〕を実証することと−−これが、最上の幸福です。
268
世における諸々の法(もの・こと)に触れても、彼の心が動かず、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れ、平安であること−−これが、最上の幸福です。
269
これらのようなことを為して、一切所で敗者ならず、一切所で安穏へと至る−−それが、彼らにとっての最上の幸福です」〔と〕。

 第五経 スーチローマ

270
〔スーチローマ夜叉が尋ねた〕「貪り(貪)と怒り(瞋)とは、何を縁として〔生起したのですか〕。不満と喜悦(好悪の感情)、身の毛のよだつことは、何を〔縁として〕生じたのですか。諸々の思考は、何を〔縁として〕生起して、〔善き〕意[こころ]を〔投げ捨てるのですか〕−−少年たちが〔足を縛った〕烏を〔遊び目的で〕投げ捨てるように」〔と〕。
271
〔世尊は答えた〕「貪り(貪)と怒り(瞋)とは、これ〔自身〕を縁として〔生起しました〕。喜びなきことと喜び(好き嫌いの感情)、身の毛のよだつことは、これ〔自身〕を〔縁として〕生じました。諸々の思考は、これ〔自身〕を〔縁として〕生起して、〔善き〕意を〔投げ捨てます〕−−少年たちが〔足を縛った〕烏を〔遊び目的で〕投げ捨てるように。
272
〔それらは〕愛執〔の思い〕から生じ、自己から生起したものです−−〔ニグローダ樹の葉が〕ニグローダ〔樹〕の幹〔それ自身〕から生じたものであるように。〔それらは〕広く、諸々の欲望〔の対象〕に絡[から]みついています−−林のなかにはびこった蔓草のように。
273
それが何を縁として〔生起したのか〕を覚知する者たち−−彼らは、それを取り除きます。夜叉よ、聞きなさい。彼らは、さらなる〔迷いの〕生存がないように、かつて超えられたことのない、この、超え難き激流を超えます」〔と〕。

 第六経 法にかなう行ない

274
法(教え)にかなう行ない(法行)と梵行(禁欲清浄行)−−これを、〔賢者たちは〕「最上の富」と言う。たとえ、もし、家から家なきへと出家した者として〔世に〕有るとして−−
275
もし、彼が、口悪き輩[やから]で、〔他者を〕害することを喜ぶ獣愚の者であるなら、彼の生は、より悪しきものとなり、自己の塵を増大させる。
276
紛争[あらそいごと]を喜ぶ比丘は、迷妄という法(性質)によって覆われた者であり、たとえ、覚者(ブッダ)によって示された法(教え)を告げ知らされても、知ることはない。
277
自己を修めた者たちを悩害し、無明によって〔特定のものを〕偏重する者は、〔心の〕汚れ(煩悩)が地獄に至る道であることを知らない。
278
悪所に堕した者は、胎から胎、闇から闇へと〔赴く〕。まさに、彼は、そのような比丘は、死してのち、苦しみを受ける。
279
糞坑[こえだめ]が年を経たものとして存するなら、〔汚物で〕満たされるように、このような形態の者として存するなら、穢れを有する者は、まさに、清め難い。
280
比丘たちよ、このような形態[なり]の者を、家〔の生活〕に依存する者(世俗の欲望に縛られた者)と知れ。悪しき欲求ある者、悪しき妄想ある者、悪しき行ないと境涯ある者と〔知れ〕。
281
全て〔の比丘〕は、和合の者と成って(一致団結して)、彼のような者を厭い避けよ。殻を取り払え。屑を取り去れ。
282
それゆえに、沙門でないのに「沙門である」と高慢する、籾殻たちを除き去れ−−悪しき欲求ある者たち、悪しき行ないと境涯ある者たちを取り払って。
283
〔あなたたちは〕気づきある、清らかな者として、清らかな者たちと共に住むことを〔心に〕想い描け(その実現に努めよ)。それゆえに、〔あなたたちは〕賢明なる、和合の者たちとして、苦しみの終極[おわり]を為すであろう。

 第七経 婆羅門としての法あること

284
過去の聖賢たちは、自己を自制した〔真の〕苦行者として、〔世に〕存した。五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)を捨てて、自己の義(目的)を行じおこなった。
285
〔過去の〕婆羅門たちに、家畜たちは存在しなかった。黄金なく、穀物なく、読誦を財産とし穀物とする者たちとして〔世に〕存し、梵宝(心身における最高のあり方)を守った。
286
〔施者によって〕準備された門口[かどぐち]の食(供養のための食)は、彼らのために作られたものとして存在した。〔人々は〕それを、〔食を〕求める者たち(行乞者)のために、〔彼らに〕施すべく、信によって作られたものと思い考えた。
287
種々なる〔色〕に染まった諸々の衣や臥〔具〕、さらには、住居によって(それらを供物として)、地方や国々の富み栄える者たちは、彼ら、婆羅門たちを礼拝した。
288
婆羅門たちは、不可侵の者として存在した。老い朽ちることなく、法(真理)に守護された者として〔存在した〕。誰であれ、家々の戸口において、彼らを妨げることは、全くなかった。
289
彼らは、四十八年のあいだ、不淫の梵行(禁欲清浄行)を行じおこなった。過去の婆羅門たちは、明知と行ないの完全なる探究を行じおこなった。
290
婆羅門たちは、他者〔の妻〕のもとに行かなかった。また、彼らは、妻を買うこともなかった。まさしく、相愛の者と共に住むことを、一緒になって喜び合った。
291
〔適切な〕その時より他には、月経[つきのもの]で離れている〔妻〕に対し、〔その〕間、婆羅門たちが淫欲の法(もの・こと)に赴くことは、けっしてない。
292
〔彼らの〕梵行(禁欲清浄行)と、戒と、実直、柔和、苦行、温和、不害と、さらにまた、忍耐を、〔人々は〕褒め称えた。
293
彼らのなかでも最高の者として存在した、断固たる努力の梵(婆羅門)−−まさしく、彼は、夢の中でさえも、淫欲の法(もの・こと)に赴かなかった。
294
彼の行儀に学ぶ者たち、この〔世において〕識者に属するとされる、或る者たちは、〔彼の〕梵行(禁欲清浄行)と、戒と、さらにまた、忍耐を、褒め称えた。
295
米と臥〔具〕と衣、そして、酥(バター)と油を、法(真理)によって乞い、集めて、そののち、祭祀を営んだ。準備された祭祀において、彼らが牛たちを殺すことは、けっしてなかった。
296
母や父や兄弟たちが、あるいはまた、他の親族たちとがそうであるように、牛たちは、そこにおいて諸々の薬が生まれる、わたしたちの最高の朋友であり−−
297
そのように、これら〔の牛たち〕は、〔わたしたちに〕食べ物を与え、力を与え、さらには、色艶を与え、安楽を与えてくれる。この、義(道理)の支配あるところを知って、彼らが牛たちを殺すことは、けっしてなかった。
298
〔身のこなしが〕繊細で、身体が大きく、容貌うるわしく、福徳ある、〔過去の〕婆羅門たちは、自らの諸々の法(性質)によって、諸々の為すべきことや為すべきでないことに熱く取り組み、〔彼らの徳が〕世に転起したあいだ、この〔世の〕人々は安楽に栄えた。
299
〔しかしながら〕彼らに、転倒〔の想い〕が存してしまった。微細な〔欲の喜び〕から、〔まさにその〕微細なものを〔欲望の対象として〕見て、王の華麗さと、〔見てくれを〕十二分に作り為した女性たちとを〔見て〕−−
300
善き生まれ〔の駿馬〕を繋ぎ見事に作られた諸々の車と、様々な〔彩りの〕刺繍を、等分に計測され区画された諸々の住居や住居地を〔見て〕−−
301
牛たちの輪に囲まれ、美女の群れを擁する、巨万〔の富〕を、〔欲深い〕人間としての財物を、婆羅門たちは貪り求めた。
302
そこで、彼らは、諸々の呪文を編纂して、かのオッカーカ〔王〕(甘蔗:古代の大王)のもとに近づき行った。「〔あなたは〕多大なる財産と穀物をもつ者として〔世に〕存している。祭祀をしなさい。あなたには、多くの富がある。祭祀をしなさい。あなたには、多くの財がある」〔と〕。
303
そして、〔このように〕婆羅門たちに説得された、車上の雄牛(戦車隊の統率者)たる王は、それゆえに、馬の犠牲〔祭〕や人の犠牲〔祭〕、サンマーパーサ〔祭〕やヴァージャペイヤ〔祭〕やニラッガラ〔祭〕など、これらの祭祀を執り行なって、婆羅門たちに財を与えた。
304
牛たち、臥〔具〕と、衣と、〔見てくれを〕十二分に作り為した女性たちと、善き生まれ〔の駿馬〕を繋ぎ見事に作られた諸々の車と、様々な〔彩りの〕刺繍を−−
305
等分にきっちりと区画された諸々の喜ばしき住居を、種々の穀物で満たして、婆羅門たちに財を与えた。
306
そして、彼らは、そこにおいて財を得て、蓄積することを喜び合った。彼らが〔自らの〕欲求に溺れるにつれ、より一層、渇愛〔の思い〕が増大した。そこで、彼らは、諸々の呪文を編纂して、ふたたび、オッカーカ〔王〕(甘蔗:古代の大王)のもとに近づき行った。
307
「水と、大地と、黄金、財産と穀物のように、このように、牛たちは、人間たちのものである。まさに、それは、生ある者たちの必需品である。祭祀をしなさい。あなたには、多くの富がある。祭祀をしなさい。あなたには、多くの財がある」〔と〕。
308
そして、〔このように〕婆羅門たちに説得された、車上の雄牛(戦車隊の統率者)たる王は、それゆえに、幾百千の牛を、祭祀において屠らせた。
309
〔牛たちは、人にたいし〕足で〔害すること〕なく、角で〔害すること〕なく、何であろうと、〔人を〕害することは、けっしてない。牛たちは、羊と等しく温和で、瓶いっぱいの乳〔を出してくれる〕。その〔牛たち〕を、王は、角を掴まえて、刃でもって屠らせた。
310
しかして、天〔の神々〕たち、先祖の霊、インダ〔神〕(インドラ神)、阿修羅や羅刹たちは、それゆえに、牛のうえに刃が落ちたことを、「法(正義)ではない」と泣き叫んだ。
311
過去には、欲求と飢餓と老化という、三つの病〔だけ〕が存在した。しかしながら、家畜たちの屠殺により、九十八〔の病〕が起こった。
312
この、法(正義)ならざることが、諸々の棒(暴力)のなかの〔一つの〕現われとして、過去に有った。汚れなき者たちが殺され、祭祀をする者たちは、法(正義)から転落する。
313
このように、この、〔欲の思いという〕微細な法(もの・こと)が、過去〔に有ったこと〕であり、識者が非難するところのものである。このような〔供犠〕を見る所では、人は、祭祀をする者を非難する。
314
このように、法(正義)が失われたとき、隷民と庶民たちは分裂した。多くの士族たちが分裂し、妻は夫を軽蔑した。
315
士族と梵〔天〕(ブラフマン)の眷属たち、他の、氏姓[かばね]に守られた者たちも、出生[うまれ]の論(分相応の生き方)を無視して、諸々の欲望の支配するところへと近づき行った。

 第八経 舟

316
まさに、彼から、人が法(真理)を識知するなら、彼を、インダ〔神〕(インドラ神)や天〔の神々〕たちであるかのように、供養するように。供養された彼は、その〔人〕にたいし、清らかな心をもち、多聞[たもん]の者として、〔その人のために〕法(真理)を明らかにする。
317
その〔法〕を義(目的)と為して、こころして聞き、慧者は、法(真理)を法(真理)のままに実践しつつ、しかして、〔彼は〕識者にして〔法を〕分明する〔甚深〕微妙[みみょう]の者と成る−−〔気づきを〕怠ることなく、そのような〔多聞の〕者と親しくするなら。
318
しかしながら、小なる愚者に仕え親しむ者は、義(目的)に至らない者と、嫉妬〔の思い〕ある者とに〔仕え親しむ者は〕、まさしく、この〔世において〕、法(真理)を分明せずして、疑惑を超えることなく、死へと近づき行く。
319
人が川に、〔それも〕水の流れ速く、大水〔の川〕に入って、彼〔自身〕が〔流れに〕運ばれつつ、流れのままに行くなら、どうして、彼が、他者たちを超え渡すことができるであろう。
320
まさしく、そのように、法(真理)を分明せずして、多聞の者たちの〔説く〕義(道理)をこころして聞かず、自ら知ることなく、疑惑を超えずにいるなら、どうして、彼が、他者たちを納得させることができるであろう。
321
また、櫂と舵を保有する者と成って、堅固な舟に乗り、そこ(舟)において、〔操舵の〕方法を知る、思慧ある智者として〔有る〕なら、彼は、そこにおいて〔はじめて〕、他の、多くの者たちをも超え渡すであろうように−−
322
また、このように、〔真の〕知に達し、自己を修めた者として〔世に有るなら〕、多聞にして、不動なる法(真理)の者として〔世に〕有るなら、まさに、彼は、〔法を〕覚知している者であり、他者たちを、耳を傾け〔聴聞の〕縁を具有した者たちを、納得させるであろう。
323
それゆえに、まさに、正しい人と親しくするように−−まさしく、思慮ある者と、多聞の者とに。義(道理)を了知して実践する彼は、法(真理)の識知者となり、安楽を得るであろう。

 第九経 何が戒か

324
〔比丘が尋ねた〕「何が、戒ですか。何が、正しい行ないですか。どのような諸々の行為(業)を育てつつ、人は、正しい〔自己〕確立者として存するのですか、そして、最上の義(目的)を得るのですか」〔と〕。
325
〔世尊は答えた〕「長上(年長の先達)を敬い、嫉妬〔の思い〕なき者として存するように。そして、導師と相見[まみ]えるための〔正しい〕時を知る者として存するように。法(真理)の話が発せられた時節を知り、諸々の見事に語られた〔法の話〕をつつしんで聞くように。
326
〔正しい〕時に導師の現前に行くように。強情を捨てて、穏やかな生活者となり、義(道理)と法(真理)と自制と梵行(禁欲清浄行)について、まさしく、思念もし、実行もするように。
327
法(真理)を喜びとし、法(真理)に喜びあり、法(真理)において安立し、法(真理)の弁別を知る者となり、法(真理)を汚す論を行じおこなうことが、まさしく、ないように。見事に語られた諸々の真実によって導かれるように。
328
笑い、呟き、嘆き、怒り、〔過去に〕為した幻想[ごまかし]、虚言、貪欲と高慢、激昂と粗暴と汚濁と耽溺を捨てて、驕りを離れ、自己を安立した者として歩むように。
329
諸々の見事に語られた〔法の話〕は、識知されることを真髄とします。聞かれたものや識られたものは、〔心の〕統一(定:三昧の境地)を真髄とします。人が、〔気づきを〕怠り、〔物事を〕無理強いする者として〔世に〕有るなら、彼には、知慧も、聞かれたもの(学識)も、増えることはありません。
330
しかしながら、聖者たちによって知らされた諸々の法(教え)に喜びある者たち−−彼らは、言葉によって、意[こころ]によって、そして、行為(業)によって、無上なる者たちです。彼らは、〔心の〕寂静と〔心の〕温和と〔心の〕統一(定:三昧の境地)を確立した者です。聞かれたもの(学識)と知慧の真髄に到達したのです」〔と〕。

 第十経 奮起

331
奮起せよ。坐せ(瞑想せよ)。眠ることで、あなたたちに、何の義(利益)があるというのだろう。まさに、病んでいる者たちに、矢に貫かれ苦しんでいる者たちに、どのような眠りがあるというのだろう。
332
奮起せよ。坐せ(瞑想せよ)。〔心の〕寂静のために、断固として学べ。あなたたちに怠りあることを死魔の王が識知して、〔彼の〕支配下において〔あなたたちを〕迷わすことがあってはならない。
333
〔限定された特定のものを〕義(目的)とし、〔限定された特定のものに〕依存する、天〔の神々〕や人間たちが、そのために依って立つところの、この、執着〔の思い〕を超え渡れ。まさに、瞬時であろうが、〔あなたを〕超え行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。まさに、瞬時であろうが〔虚しく〕過ごした者たちは、地獄に引き渡され、憂い悲しむことになる。
334
怠ること(放逸)は、塵である。塵は、〔気づきを〕怠ることから生み落とされた。〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)によって、明知によって、自己の矢を抜くように。

 第十一経 ラーフラ

335
〔ラーフラ(人名・ブッダの実子にして比丘)に、世尊は尋ねた〕「〔賢者サーリプッタと〕何度となく共に住んでいるがゆえに、賢者(サーリプッタ)を見下すことがないか、どうか。人間たちにとって松明[たいまつ]の掲げ手である者(サーリプッタ)は、おまえによって、敬われているか、どうか」〔と〕。
336
〔ラーフラが答えた〕「わたしは、〔賢者サーリプッタと〕何度となく共に住んでいるがゆえに、賢者(サーリプッタ)を見下すことがありません。人間たちにとって松明の掲げ手である方(サーリプッタ)は、わたしによって、常に敬われています」〔と〕。
 序の詩偈〔が終わる〕。
337
〔世尊は言った〕「五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)を捨てて、意[こころ]が喜びとする、諸々の愛しい形態のものを〔捨てて〕、信によって家から出て、苦しみの終極[おわり]を為す者と成れ。
338
善き朋友たちと親しくせよ。そして、騒音少なく、辺境にある、遠離の臥坐〔所〕に〔慣れ親しめ〕。食について量を知る者と成れ。
339
衣料、〔行乞の〕食鉢と、日用品(薬品)、臥坐〔具〕−−これらについて渇愛〔の思い〕を為してはならない。〔迷いの〕世に、ふたたび帰り来ることがあってはならない。
340
戒め(波羅提木叉)において〔自己が〕統御された者と〔成れ〕。そして、五つの〔感官〕機能(五根:眼・耳・鼻・舌・身)において〔自己が統御された者と成れ〕。おまえの身体の状態について〔常に〕気づき(念)が存せ。〔迷いの世について〕厭離〔の思い〕多き者と成れ。
341
貪欲を伴った美しい相(世において「価値がある」と評価される事象)を遍く避けよ。〔身体について〕美しくない〔とする想い〕(不浄想)によって、一境に善く定められた心を習い修めよ。
342
また、無相〔の想い〕を習い修めよ。高慢〔の思い〕という悪習(随眠)を廃棄せよ。それゆえに、高慢〔の思い〕が寂止するがゆえに、〔おまえは〕寂静の者として、〔世を〕歩むであろう」〔と〕。

 第十二経 ワンギーサ

343
〔尊者ワンギーサが尋ねた〕「まさしく、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において、諸々の疑惑を断ち切る方である、至上の知慧ある教師(ブッダ)に、〔わたしたちは〕尋ねます。アッガーラヴァ(地名)で、〔或る〕比丘が、命を終えました。〔世に〕知られ、福徳ある者で、自己が寂滅した者です。
344
世尊(ブッダ)よ、『ニグローダ・カッパ』という、その婆羅門の名は、あなたによって付けられました。断固として法(真理)を見る方よ、彼は、あなたを礼拝しながら、解脱を期し、精進に励む者として、行じおこないました。
345
サッカ(釈迦)〔族〕の方(ブッダ)よ、一切に眼[まなこ]ある方よ、わたしたちは、〔その〕全てでさえもが、〔あなたの〕その弟子について了知することを求めます。わたしたちの耳は、〔あなたの答えを〕聞くべく、満を持しています。あなたは、わたしたちの教師です。あなたは、無上なる者として、〔世に〕存しているのです。
346
わたしたちの疑惑を、まさしく、断ち切ってください。わたしに、このことを説いてください。広き知慧ある方よ、〔彼が〕完全なる涅槃に到達した者〔であるかどうか〕を、〔わたしたちに〕知らせてください。一切に眼ある方よ、まさしく、わたしたちの中において、語ってください−−千の眼ある帝釈〔天〕が、天〔の神々〕たちに〔語る〕ように。
347
何であれ、この〔世における〕、諸々の拘束、諸々の迷いの道、諸々の知恵なき徒[やから]、諸々の疑惑の状況−−それらは、如来と会うと、〔もはや〕有りえないのです。人たちのなかの最高者、まさに、この、眼ある方と〔会うと〕。
348
もし、まさに、〔この〕人(ブッダ)が、風が層雲を〔吹き払う〕ように、諸々の汚れ(煩悩)を、しっかりと打ち払わないなら、一切世〔界〕は、まさしく、〔覆[おおい]に〕覆われた闇として存するでしょうし、光輝ある人たちでさえも、光り輝くことはないでしょう。
349
しかしながら、慧者たちは、灯火の作り手として、〔世に〕有ります。慧者よ、わたしは、あなたを、まさしく、そのような方と思うのです。あなたを、〔あるがままに〕観る者と知り、〔わたしたちは、あなたのもとへと〕近づき行ったのです。〔光なき〕衆たちのうちにあるわたしたちに、カッパのことを、明らかにしてください。
350
麗しき方よ、麗しき〔その〕言葉を、すみやかに発してください。白鳥が〔首を〕もたげて、おもむろに〔鳴く〕ように、美しく整えられた、まろやかな声で吟じてください。まさしく、〔わたしたちの〕全てが、行ないの真っすぐな者となり、あなたの〔言葉を〕聞くでありましょう。
351
余すところなく生と死を捨て去った清き方(ブッダ)に請い求めて、法(真理)を説いてもらいましょう。なぜなら、凡夫たちは、欲することを為し遂げる者ではなく、いっぽう、如来たちは、〔是非を〕考究して為し遂げる者だからです。
352
この〔問いの〕充全なる説明は、正しく真っすぐな知慧ある、あなたの把握するところです。この、〔あなたへの〕最後の合掌は、しっかりと手向けられました。至上の知慧ある方よ、〔答えを〕知っている者は、〔わたしたちを〕迷わせてはなりません。
353
彼此[ひし]における、聖なる法(真理)を知って、至上の精進ある方よ、知っている者は、〔わたしたちを〕迷わせてはなりません。炎暑のさなか、炎暑に焼かれた者が水を〔待ち望む〕ように、〔わたしは、あなたの〕言葉を待ち望みます。聞かれたもの(声)の〔雨を〕降らせてください。
354
〔涅槃の境地を〕義(目的)として、カッパーヤナ(カッパ)は梵行(禁欲清浄行)を行じおこなったのですが、はたして、それは、彼にとって、無駄ではないのですか。彼は、〔生存の依り所を残すことなく〕涅槃に到達したのですか、それとも、〔生存の〕依り所(身体)が有る者(有余依)〔として解脱したの〕ですか。〔彼が〕解脱者と成った〔経緯の〕とおりに、〔わたしたちは〕それを聞きたいのです」〔と〕。
355
世尊は〔答えた〕「〔カッパは〕名前と形態(名色:現象世界)にたいする渇愛を、この〔世において〕断ちました。長夜にわたり悪しき習いとなった、黒き者(悪魔)の流れを〔断ちました〕。余すところなく生と死を超えました」と。
 かくのごとく、五者(ブッダが最初に説法した五人の修行者)にとっての最勝の者、世尊は説いた。
356
〔尊者ワンギーサが言った〕「第七の聖賢(ブッダ)よ、この〔わたし〕は、あなたの言葉を聞いて、〔心が〕清まります。まさに、わたしの問い尋ねは、無駄ではありません。婆羅門(ブッダ)は、わたしを騙しませんでした。
357
覚者(ブッダ)の弟子(カッパ)は、〔覚者の〕説くとおり、そのとおりに為す者として、〔世に〕有りました。死魔の幻術師が広げた堅固な網を断ち切ったのです。
358
世尊よ、カッピヤ(カッパ)は、執取の最初[はじまり]を見ました。まさに、カッパーヤナ(カッパ)は、極めて超え難い死魔の領域を超え行ったのです」〔と〕。

 第十三経 正しい遍歴遊行

359
〔化仏(ブッダの化身)が尋ねた〕「多き知慧ある牟尼(ブッダ)に尋ねます。〔激流を〕超え、彼岸に達し、完全なる涅槃に到達し、自己を安立した方(ブッダ)に〔尋ねます〕。家から出て、諸々の欲望を除き去り、比丘である彼は、〔迷える〕世において、どのようにして、正しく遍歴遊行するのですか」〔と〕。
360
世尊は〔答えた〕「幸福〔の占い〕、天変地異〔の占い〕、夢〔の占い〕と、特相〔の占い〕とが完破されたなら、彼は、吉凶〔の判断〕を捨て去った者であり、比丘である彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
361
比丘が、人間たち〔の世界〕における〔諸々の欲望の対象にたいし〕、あるいはまた、諸天における諸々の欲望〔の対象〕にたいしても、貪り〔の思い〕を取り除くなら、〔迷いの〕生存を超え行き、法(真理)を行知して、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
362
比丘が、諸々の中傷〔の言葉〕に背を向けて、憤怒と吝嗇〔の思い〕を捨てるなら、好悪〔の判断〕を捨て去った者となり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
363
愛しいものも、愛しからざるものも、〔愛憎ともに〕捨てて、〔一切を〕執取せずして、どこにたいしてであれ、依存なき者は、諸々の束縛から解放された者であり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
364
彼が、諸々の依存〔の対象〕について、真髄に至らず(真実として認めず)、諸々の執取〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を取り除いて、依存なき彼は、他者に導かれない者であり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
365
言葉によって、そして、意[こころ]によって、さらには、行為(業)によって、〔他者を〕遮ることなく(他者にたいし敵意なく)、正しく法(真理)を知って、〔常に〕涅槃の境地を望みながら、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
366
比丘が、『〔彼は〕わたしを敬拝する』と傲慢にならず、たとえ罵られても、〔他者を〕怨まず、他者から食を得ても、驕り高ぶらないなら、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
367
貪欲〔の思い〕と〔迷いの〕生存とを捨てて、比丘である彼は、〔生き物を〕切ったり縛ったりすることから離れ、疑惑を超え、矢を抜いた者となり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
368
比丘が、自己〔のあり方〕について適切なことを知って、しかして、世において、誰であれ、害さずにいるなら、真実なるままに法(もの・こと)を知って、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
369
何であれ、彼に、諸々の悪習(随眠)が存在せず、諸々の善ならざることが根元から完破されたなら、彼は、依存〔の対象〕なく、〔何ものも〕願い求めない者であり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
370
煩悩が滅尽し、高慢が捨棄され、一切の貪りの道を超克し、〔心身が〕調御され、完全なる涅槃に到達し、自己を安立した者−−彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
371
信ある多聞[たもん]の者、〔解脱に至る〕決定[けつじょう](正しい実践方法)を見る者、〔特定の〕党派に赴く者たちのなかにいながら〔特定の〕党派に走り行くことがない慧者−−貪りと怒りと憤りを取り除き、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
372
清浄なる勝者、〔迷妄の〕覆が開かれた者、諸法(もの・こと)について自在なる者、彼岸に達した者、動揺なき者、形成作用(行:生の輪廻を施設し造作する働き)の止滅という知恵ある智者−−彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
373
過去についての、そしてまた、未来についての、諸々の妄想を超え行き、〔計測され概念化した時間を〕超え行って、清浄の知慧あり、一切の〔認識の〕場所(処:認識対象)から解放された者−−彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
374
〔涅槃の〕境地を了知して、〔迷妄の覆[おおい]が〕開かれた〔あるがままの〕法(真理)を行知し、諸々の煩悩の捨棄を見て、一切の依存〔の思い〕が完全に滅尽するがゆえに、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう」と。
375
〔化仏が言った〕「まさに、たしかに、世尊よ、これは、まさしく、そのとおりです。このように住する、〔心身が〕調御された比丘は、しかして、一切の束縛が超克された者であり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するでありましょう」〔と〕。

 第十四経 ダンミカ

376
〔ダンミカが尋ねた〕「広き知慧あるゴータマ(ブッダ)よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。あるいは、家から家なきに至る者、あるいはまた、家ある在俗の信者(優婆塞)たちがいます。どのように為す者が、善き弟子と成るのですか。
377
なぜなら、あなたは、天〔界〕を含む世〔界の人々〕の赴く所を、そして、〔その〕行き着く所を、〔あるがままに〕覚知するからです。微妙[みみょう]なる義(道理)を〔あるがままに〕見る者として、あなたと比ぶべき者は、〔世に〕存在しません。まさに、あなたのことを、〔賢者たちは〕『最も優れた覚者』と説きます。
378
慈しみ〔の思い〕あるあなたは、一切の知恵と法(真理)を確たるものにして、有情たちに明らかにします。一切に眼[まなこ]ある方よ、〔あなたは〕覆[おおい]が開かれた者として〔世に〕存しています。〔世俗の〕垢を離れ、一切世〔界〕において、光り輝きます。
379
エーラーヴァナという名の象王(天人)が、〔あなたのことを〕『勝者である』と聞いて、あなたの現前にやってまいりました。〔あなたの教えを〕聞いて、『善きことである』と満足した気色[ようす]で、彼もまた、あなたと話し合って、〔法に〕到達したのです。
380
毘沙門〔天〕の王クヴェーラもまた、法(真理)を遍く尋ねる者として、あなたのところに近づきます。慧者よ、あなたは〔問いを〕尋ねられた者として、彼にたいしてもまた、〔法を〕説きます。彼もまた、〔あなたの言葉を〕聞いて、満足した気色[ようす]です。
381
誰であれ、これら、論〔争〕を戒[ならい]とする異教の者(外道)たちは、あるいは、アージーヴィカ(邪命外道)たちであろうと、あるいは、ニガンタ(ジャイナ教徒)たちであろうと、〔その〕全てが、知慧によってあなたを超え渡ることはありません。立ち止まっている者が、行きつつある者を、急ぎ行く者を、〔追い越せない〕ように。
382
誰であれ、これら、論〔争〕を戒[ならい]とする婆羅門たちは、そしてまた、〔世に〕存する年長の婆羅門たちも、誰であれ、あなたについては、〔その〕全てが、義(目的)に縛られた者(他者に問い尋ねる者)として、〔世に〕有ります。あるいはまた、〔自らを〕論者と思いなしている、他者たちも〔同様です〕。
383
まさに、この法(教え)は、微妙[みみょう]なるものであり、かつまた、安楽なるものです。世尊よ、あなたによって、この〔法〕は、見事に説かれました。全ての者は、その〔法〕こそを、聞こうとしています。最勝の覚者よ、あなたは、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしたちに〔法を〕説いてください。
384
また、これらの比丘たちは、〔その〕全てが、坐についています。さらにまた、在俗の信者(優婆塞)たちも、まさしく、そこに、〔法を〕聞くため〔坐についています〕。〔さあ、みなさん〕聞いてください−−〔真実の〕法(教え)を、〔世俗の〕垢を離れた方(ブッダ)によって覚られた〔法〕を、見事に語られた〔法〕を−−天〔の神々〕たちがヴァーサヴァ(インドラ神)の〔言葉を聞く〕ように」〔と〕。
385
〔世尊は答えた〕「比丘たちよ、わたしの〔言葉を〕聞きなさい。あなたたちに聞かせよう−−〔煩悩を〕払い落とす〔真実の〕法(教え)を。また、全ての者は、その〔法〕を保ち持て。義(道理)を〔正しく〕見る、思慧ある者は、その〔法〕に、出家者にふさわしい振る舞いの道(行為のあり方)に、慣れ親しむように。
386
比丘は、まさに、時ならざる〔時〕(午後)に〔村を〕渡り歩くことがないように。そして、〔正しい〕時(午前中)に、〔行乞の〕食のために村を歩むように。なぜなら、〔正しい〕時に歩まない者を、諸々の執着〔の思い〕がつきまとうからです。それゆえに、覚者たちは、時ならざる〔時〕には〔村を〕歩まないのです。
387
諸々の形態(色:眼の対象)と音声(声:耳の対象)と味わい(味:舌の対象)と香り(香:鼻の対象)と接触(触:身の対象)は、有情たちを夢中にさせます。これらの諸法(もの・こと)にたいする欲〔の思い〕を取り除いて、彼(比丘)は、〔正しい〕時に、〔すなわち、村人たちの〕朝食〔の時間〕に、〔村に〕入るように。
388
また、比丘は、〔行乞の〕食を〔正しい〕時に得て、独り、静所に戻って、坐すように。内に思念ある者は、自己を制御した状態で、意[こころ]を外に放たないように。
389
また、もし、彼が、〔覚者の〕弟子と語り合うなら、あるいは、他者と、あるいは、比丘と、誰であれ〔語り合うなら〕、その、妙なる法(教え)を述べ伝えるように。中傷〔の言葉〕を〔発することが〕ない〔ように〕。また、他者にたいする悪態〔の言葉〕を〔発することが〕ない〔ように〕。
390
まさに、或る者たちは、論にたいし反駁します。彼ら、知慧少なき者たちを〔わたしたちは〕賞賛しません。彼らを、そこかしこから、諸々の執着〔の思い〕がつきまといます。まさに、彼らは、そこにおいて、心を遠くに行かせる(妄想する)のです。
391
善き至達者(ブッダ)によって示された法(教え)を聞いて、優れた知慧ある〔覚者の〕弟子は、〔行乞で得た〕食、住まい、臥坐〔具〕と、大衣についた塵を洗い流す水とにたいし、〔正しく〕考究して、慣れ親しむ(使用する)ように。
392
それゆえに、まさに、〔行乞で得た〕食、臥坐〔具〕と、大衣についた塵を洗い流す水とについて、これらの諸法(もの・こと)について、比丘は、蓮〔の葉〕にある水の滴[しずく]のように、汚されません。
393
つぎに、そのように為す者が善き弟子と成る、在家者の行儀について、あなたたちに説きましょう。なぜなら、この、比丘の法(教え)の全部[すべて]は、執持〔の対象〕(所有物)を有する者(在家者)には、触れることができない(実行できない)からです。
394
〔第一に〕生き物を殺さないように。また、殺させないように。また、〔生き物を〕殺している他者たちを認めないように。世における、動かないものたち、そして、動くものたち、〔すなわち〕一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて〔害さずにいるように〕(不殺生戒)。
395
それから、〔第二に〕目覚めている弟子は、どこにあっても、何であれ、与えられていないものを遍く避けるように。〔他者をして他者から〕奪わせないように。奪っている者を認めないように。一切の与えられていないものを遍く避けるように(不偸盗戒)。
396
〔第三に〕識者は、燃える火坑を〔避ける〕ようにして、梵行(禁欲清浄行)ならざること(淫欲の行為)を遍く避けるように。また、梵行(禁欲清浄行)をできずにいる者は、他者の妻を犯さないように(不邪淫戒)。
397
〔第四に〕あるいは、集会に出たとして、あるいは、衆のなかに入ったとして、独りでいて、ただの一者[ひとり]にたいしても、虚偽を語らないように。〔他者をして虚偽を〕語らせないように。〔虚偽を〕語っている者を認めないように。一切の真実ならざることを遍く避けるように(不妄語戒)。
398
また、〔第五に〕酔う飲み物(酒)を嗜[たしな]まないように。この〔不飲酒の〕法(教え)を喜ぶ在家の者は、それ(飲酒)について、『狂気という終極あるもの』と知って、〔他者に酒を〕飲ませないように。〔酒を〕飲んでいる者を認めないように。
399
なぜなら、愚者たちは、〔酒による〕驕りから、諸々の悪を為し、さらにまた、他の人たちをして、諸々の怠りある〔行為〕を為さしめるからです。愚者たちに欲せられ、〔世の人々を〕狂気と迷妄ならしむ、この、善ならざる場所(処:領域・範囲)を避けるように(不飲酒戒)。
400
〔第一に〕生き物を殺さないように。および、〔第二に〕与えられていないものを取らないように。〔第三に〕虚偽を語らないように。および、〔第四に〕酒飲みとして存さないように。〔第五に〕梵行(禁欲清浄行)ならざる淫欲〔の行為〕から離れるように。〔第六に〕夜に、時ならざる〔時の〕食を食べないように。
401
〔第七に〕花飾りを付けないように。そして、香を焚かないように。〔第八に〕大地に〔じかに〕広げた寝床で臥すように。苦しみの終極[おわり]に達した覚者(ブッダ)によって明らかにされた、まさに、この〔法〕を、『八つの支分の斎戒(布薩)』と言います。
402
また、それゆえに、半月〔ごと〕の十四〔日〕と十五〔日〕に、第八〔日〕に、斎戒に入って、さらには、半月のうちの特別な〔日〕(七日・九日・十三日・一日)には、清らかな意[こころ]で、八つの支分を具した、完全無欠な形態〔の斎戒〕を〔守るように〕。
403
また、それゆえに、斎戒に入った朝には、比丘の僧団に、食べ物と飲み物によって、清らかな意[こころ]で随喜しつつ、識者は、〔自らの〕分のままに分け与えるように。
404
法(教え)によって、母と父を養うように。彼は、法(教え)にかなう商売に従事するように。この〔法〕を転じ行く、怠りなき在家者は、『自光』という名の天〔界〕に近づき行きます」〔と〕。


第三章 大なるもの

 第一経 出家

405
〔尊者アーナンダが言った〕「〔覚者ゴータマの〕出家〔の経緯〕について、眼[まなこ]ある方(ブッダ)が出家したとおりのままに、〔あるがままに〕考察する彼(ブッダ)が出家を選んだとおりのままに、〔わたしの知るところを〕述べ伝えましょう。
406
『この、在家の住居[くらし]は煩[わずら]わしく、塵の〔積もる〕場所(処:領域・範囲)である』と〔考察し〕、『しかしながら、出家は〔煩わしいことがなく〕、開かれたところである』と見て、〔覚者ゴータマは〕出家しました。
407
出家して、身体による悪しき行為(業)を避けました。言葉による悪しき行ないを捨てて、生き方を完全に清めました。
408
覚者(ブッダ)は、マガダ〔族〕の者たちの〔住む〕ギリッバジャ(地名)に、〔すなわち〕ラージャガハ(地名・王舎城)に行きました。優れた〔聖者の〕特相を〔身体に〕ちりばめた方(ブッダ)は、〔行乞の〕食のために〔歩を〕運びました。
409
高楼に立ったビンビサーラ(人名・マガダ国王)は、彼を見ました。〔聖者の〕特相を成就した方を見て、この義(意味)を語りました。
410
〔王は言いました〕『諸君、このことを、こころして聞け。〔彼は〕形姿麗しく、偉丈夫で、清浄である。まさしく、また、行ないを成就し、かつまた、〔一〕ユガ(尋:距離の単位)ばかりのあいだを〔隙なく〕見ている。
411
〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、気づき(念)ある者である。この方が卑しい家の者であることだけは、〔有りえ〕ない。王の使者たちよ、走れ。比丘(ブッダ)は、どこに行くのだろう』〔と〕。
412
〔そのように〕命じられた、彼ら、王の使者たちは、〔覚者の〕後を追いました−−『比丘(ブッダ)は、どこに行くのだろう。どこが住居[すまい]に成るのだろう』〔と〕。
413
〔感官の〕門が守られ、〔自己が〕善く統御された方(ブッダ)は、〔行乞のため〕歩々淡々と歩みながら、すみやかに、鉢を〔施物で〕満たしました−−正知と気づきの者として。
414
牟尼である彼は、〔行乞の〕食のための歩行(托鉢)を行じおこない、町を出て、パンダヴァ〔山〕へと〔歩を〕運びました。ここが住居[すまい]に成るのでしょう。
415
〔覚者が〕住居に至ったのを見て、それから、使者たちは、〔覚者のもとに行き、一方に〕近坐しました。そして、使者の一者[ひとり]は、〔王宮に〕帰って、王に知らせました。
416
〔使者は言いました〕『偉大なる王よ、この比丘は、パンダヴァ〔山〕の東側の山窟に、虎や雄牛のように、獅子のように、〔堂々と〕坐しています』〔と〕。
417
使者の言葉を聞いて、士族(ビンビサーラ王)は、立派な乗り物でもって、急ぎの気色[ようす]でパンダヴァ山に出発しました。
418
その士族は、乗り物の〔行ける〕地まで行き、乗り物から降りて、歩行者となって〔覚者のもとに〕近しく赴き、彼のもとに至ると、〔一方に〕近坐しました。
419
王は、坐して、挨拶の言葉を喜び交わし、それから、彼は、〔覚者と〕言葉を交わして、この義(意味)を語りました。
420
〔王は尋ねました〕『さて、〔あなたは〕若く、そして、青年で、〔人生の〕最初[はじめ]を生きる若者として存しています。容貌の崇高さを成就し、出生[うまれ]よき士族のようです。
421
象の群れを先頭にした軍隊を美しく荘厳して、〔わたしは〕諸々の財物を与えましょう。受けてください。そして、〔問いを〕尋ねられた者として、〔あなたの〕出生について、告げ知らせてください』〔と〕。
422
〔覚者は答えました〕『王よ、〔この方角〕真っすぐに、ヒマヴァント(ヒマラヤ)の山麓に、財と勇を成就した地方があります。コーサラ〔族〕の者たち〔の国〕に家ある〔王〕のものです。
423
〔わたしの〕氏姓[かばね]は、アーディッチャ(太陽)という名で、出生(種族)は、サーキヤ(釈迦)という名です。王よ、その家から出家した者として、〔わたしは〕存しています。諸々の欲望〔の対象〕を望み求める者ではありません。
424
諸々の欲望〔の対象〕のうちに危険を見て、出離〔の境地〕を「平安である」と見て、〔刻苦〕精励するため、〔出家の道を〕行くでありましょう。ここに、わたしの意[こころ]は喜びます』〔と〕」〔と〕。

 第二経 精励

425
ネーランジャラー川に対〔坐〕して、精励することに自己を精励する(全身全霊を挙げて刻苦精励する)、〔まさに〕そのわたし(ブッダ)に−−束縛からの〔心の〕平安を得るため、努力して瞑想する者(ブッダ)に−−
426
ナムチ(悪魔)が、同情の言葉を語りながら、近づいてきた。
〔悪魔が言った〕「あなたは、痩せ細り、色艶の悪い〔瀕死の〕者として、存しています。あなたの死は、現前にあります。
427
死が千分なら、あなたの命は〔ただの〕一分[いちぶ]。君よ、生きたまえ。命あることは、より勝[まさ]っています。生きている者は、諸々の〔善き〕功徳を作るでありましょう。
428
また、梵行(禁欲清浄行)を行じおこなうあなたには、あるいは、祭火を捧げる〔あなた〕には、多大の功徳が積まれます。〔あなたは〕精励によって、何を為すというのでしょう。
429
精励への道は、行き難く、為し難く、征服し難きものです」〔と〕。
 悪魔は、この詩偈を語りながら、覚者(ブッダ)の現前に立った。
430
そのように説く、その悪魔に、世尊(ブッダ)は、このことを説いた。
〔世尊は答えた〕「怠りの眷属よ、パーピマント(悪魔)よ、〔世俗の功徳という、偽りの〕義(利益)によって、〔おまえは〕ここに来た。
431
功徳による義(利益)は、わたしには、微塵ばかりでさえも見出されない。しかしながら、功徳による義(利益)が〔見出される〕者たち(世俗の功徳に利を見る者たち)−−悪魔は、彼らに説くのがふさわしい。
432
〔わたしには〕信が存在する。それゆえに、わたしには、精進と知慧が見出される。また、このように、自己を精励する、〔まさにその〕わたしに、〔おまえは〕いかなる生を問い尋ねるというのだろう(刻苦精励以外の生に意味はない)。
433
諸々の川の流れでさえも、この風(瞑想する覚者の呼吸)は干上がらせるであろう。ならば、自己を精励する、〔まさにその〕わたしの、いかなる血が干上がらないというのだろう。
434
血が干上がっているとき、胆汁と痰は干上がる。諸々の肉が滅尽しているとき、心は、より一層、清まる。〔まさにその〕わたしの、気づき(念)と知慧と〔心の〕統一(定:三昧の境地)は、より一層、安立[あんりゅう]する。
435
このように住しつつ、最上の〔苦痛の〕感受(受:認識対象を感受し苦楽の価値づけをする働き)を得た、〔まさに〕そのわたしの心は、諸々の欲望〔の対象〕について、期待することがない。見よ−−自己の清浄なることを。
436
おまえの第一の軍団は、『欲望』〔と呼ばれる〕。第二〔の軍団〕は、『不満』〔と〕呼ばれる。おまえの第三〔の軍団〕は、『飢えと渇き』〔と呼ばれる〕。第四〔の軍団〕は、『渇愛』〔と〕呼ばれる。
437
おまえの第五〔の軍団〕は、『〔心の〕沈滞[おちこみ]と眠気』〔と呼ばれる〕。第六〔の軍団〕は、『恐怖』〔と〕呼ばれる。おまえの第七〔の軍団〕は、『疑惑』〔と呼ばれる〕。おまえの第八〔の軍団〕は、『隠覆と強情』〔と呼ばれる〕。
438
利得、名声、尊敬、そして、誤って得た福徳、自己を褒め上げる者も、他者を見下す者も−−
439
ナムチ(悪魔)よ、これは、おまえの軍団であり、黒き者(悪魔)の攻撃である。勇士ならざる者は、それに勝利することはない。しかしながら、勝利すれば、安楽を得る。
440
この〔わたし〕は、ムンジャ〔草〕(戦闘継続の意思表示に使う)を守り抜くであろう。ここに、〔わが〕命は、厭わしきものとして存せ。もし、敗者として生きるくらいなら、戦場で死んだほうが、わたしには、より勝[まさ]っている。
441
ここ(悪魔の攻撃)に沈んだ、或る沙門や婆羅門たちは、〔道が〕見えない。そして、善き掟[おこない]の者たちが行く、その道を知らない。
442
〔周囲に〕遍く旗をひるがえし、準備万端の、軍勢を有する悪魔を見て、〔わたしは〕戦いへと赴くのだ。わたしを、〔この〕状況から〔一歩でも〕動かすことがあってはならない。
443
おまえのその軍団を、天〔界〕を含む〔この〕世の者は、打ち負かさない。おまえのその〔軍団〕を、〔わたしは〕知慧によって〔超え〕行くのだ−−〔焼く前の〕生[なま]の鉢を石で〔打ち砕く〕ように。
444
〔思慮〕分別を自在に為して、また、気づき(念)をしっかりと確立し、〔わたしは〕国から国へと渡り歩くであろう−−多くの弟子たちを教え導きながら。
445
〔気づきを〕怠らず、自己を精励する彼らは、欲なきわたしの教えを為す者たちである。彼らは、そこに行って憂い悲しまない所(涅槃)に行くであろう」〔と〕。
446
〔ナムチが言った〕「〔わたしは〕七年のあいだ、歩から歩へと、世尊についてまわった。〔しかしながら〕気づきある正覚者(ブッダ)の瑕疵には、〔ついに〕到達しなかった。
447
〔愚かな〕烏が、脂肪の色をした岩〔の周り〕を、『はてさて、ここに柔らかい〔肉〕が見つかるだろうか。はてさて、美味しいものが存するだろうか』〔と〕歩き回ったようなもの。
448
そこに、美味しいものを得ずして、烏は、ここから去って行った。烏が岩に〔近づいた〕ように、〔わたしは〕ゴータマ(ブッダ)を襲って、〔結局は〕厭わくなって、離れ去ることになるのだ」〔と〕。
449
憂い〔の思い〕に打ち負かされた、彼の脇から、琵琶が落ちた。そののち、その夜叉(悪魔)は、まさしく、そこに、意気消沈して、〔虚空の〕間に消え入った。

 第三経 見事に語られたもの

450
〔世尊は言った〕「正しくある者たちは言う。『見事に語られた〔法〕は、最上のものである』〔と〕−−〔それが、第一である〕。法(真理)を語るように。法(真理)ならざることを〔語ら〕ない〔ように〕−−それが、第二である。愛ある〔言葉〕(思いやりの言葉)を語るように。愛なき〔言葉〕を〔語ら〕ない〔ように〕−−それが、第三である。真理を語るように。偽りを〔語ら〕ない〔ように〕−−それが、第四である」〔と〕。
451
〔尊者ワンギーサが、詩偈で答えた〕「それがために自己を苦しめず、さらには、他者たちを害さないであろう、まさしく、その〔ような〕言葉を語るように。まさに、それは、見事に語られた言葉である。
452
〔皆に〕喜ばれる言葉−−愛ある言葉(思いやりの言葉)こそを、語るように。諸々の悪しき〔言葉〕を取る(用いる)ことなくして、他者たちにとって愛ある〔言葉〕を語るのだ。
453
まさに、真理は、不死の言葉である−−これは、永遠の法(真理)である。真理と義(道理)と法(教え)において〔自己が〕確立した、正しくある者たちは言う。
454
涅槃〔の境地〕を得るため、苦しみの終極[おわり]を為すため、覚者(ブッダ)が語る平安の言葉−−まさに、それは、最上の言葉である」〔と〕。

 第四経 スンダリカ・バーラドヴァージャ

455
〔出生[うまれ]を尋ねる婆羅門バーラドヴァージャに、世尊は答えた〕「〔わたしは〕婆羅門として存在するわけではありません。王子にあらず、庶民にあらず、あるいは、〔他の〕いかなる〔階級の〕者としても存在しません。凡夫たちの氏姓[かばね](迷いの者たちの生のあり様)を知り尽くし、無一物で、智慧ある者として、〔わたしは〕世を歩みます。
456
大衣を着け、家なき者として、髪を剃り、自己が寂滅した者として、この〔世において〕、人々に汚されることなく、〔わたしは〕歩みます。婆羅門よ、わたしに、氏姓についての問いを尋ねたのは、善ならざることです」〔と〕。
457
〔婆羅門が言った〕「君よ、まさに、婆羅門たちは、婆羅門たちに相対して、『いったい、〔あなたは〕尊き婆羅門なのでしょうか』と尋ねます」〔と〕。
〔世尊は答えた〕「もし、あなたが、〔自らについて〕『婆羅門である』〔と〕説くなら、そして、わたしについて『婆羅門ではない』と説くなら、〔わたしは〕三句二十四字の、かのサーヴィッティー(サーヴィトリー讃歌)について、あなたに尋ねます」〔と〕。
458
〔婆羅門が尋ねた〕「聖賢たち、人間たち、士族たち、婆羅門たちは、何に依存して、天〔の神々〕たちへの祭祀を、この世において、多く営んできたのですか」〔と〕。
〔世尊は答えた〕「『〔世の〕終極に達し、〔真の〕知に達した者が、祭祀の時に、彼への捧げものを得るなら、彼への〔祭祀は〕、うまくゆくであろう』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。
459
婆羅門が〔言った〕「そのような、〔真の〕知に達した者を、〔わたしは〕見ました。たしかに、彼に捧げものをした〔祭祀〕は、まさに、うまくゆくでしょう。まさに、あなたのような方々に相見[まみ]えることがないので、他の人が献菓を受けるのです」と。
460
〔世尊は答えた〕「婆羅門よ、それゆえに、まさに、あなたは、〔正しい〕義(道理)を義(目的)とする者(真理の探究者)です。近しく赴いて、問い尋ねなさい。怒りを離れ、煩悶[わずらい]なく、願望なく、〔心が〕寂静で、思慮深き者を、まさしく、また、この〔世において〕も、見出すでありましょう」〔と〕。
461
〔婆羅門が尋ねた〕「君ゴータマ(ブッダ)よ、わたしは、祭祀に喜びある者です。祭祀を執り行なうことを欲する者です。わたしは、覚知してません。尊き方として、わたしに、〔法を〕教示してください。どこに捧げものをした〔祭祀〕がうまくゆくか、それを、わたしに説いてください」〔と〕。
〔世尊は答えた〕「婆羅門よ、それなら、まさに、あなたは、耳を傾けなさい。あなたに、法(真理)を示しましょう。
462
出生を尋ねてはなりません。そして、行ない〔こそ〕を尋ねなさい。まさに、火は、薪から生まれます。たとえ、卑しい家系の者でも、〔道心〕堅固な牟尼として、恥〔の思い〕で〔身を〕慎む者は、善き生まれの者と成ります。
463
真理によって調御され、〔心身の〕調御を具し、知の終極に達した、梵行(禁欲清浄行)の完成者−−彼に、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
464
諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、家なき者として歩む者たち−−自己が善く自制され、梭[ひ](はた織りの道具)のように、真っすぐな者たち−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
465
ラーフ(阿修羅の一類で日蝕や月蝕を引き起こすとされる)の捕捉から解き放たれた月のように、貪欲を離れ、〔感官〕機能(根)が善く定められた者たち−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
466
執着することなく世を渡り歩き、諸々のわがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)を捨てて、常に気づきある者たち−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
467
諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、〔一切を〕征服して歩む者−−生と死の終極[おわり]を知った者−−湖水のように、〔心が〕冷静[おだやか]で、完全なる涅槃に到達した如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
468
同等の者たちと等しくある者は、等しからざる者(迷える者)たちとは遠く隔たり、終極[おわり]なき知慧ある如来と成ります。この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、〔何ものにも〕汚されることなき如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
469
彼のうちに、幻想[ごまかし]〔の思い〕が住みつかず、高慢[おごり]〔の思い〕なき者−−貪欲を離れ、我執なく、願望なく、怒りを除き、自己が寂滅した者−−〔真の〕婆羅門たる彼は、憂いの垢を運び去りました。如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
470
意[こころ]の固着(執着の思い)を運び去って、何であれ、彼に、諸々の執持〔の対象〕(所有物)が存在しない者−−この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、〔両者ともに〕執取せずにいる如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
471
激流を超え渡り、しかして、最高の見[まなざし]によって法(真理)を知った、〔心が〕定められた者(禅定者)−−煩悩が滅尽し、最後の肉身[からだ]を保つ如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
472
諸々の生存(有)の煩悩と諸々の粗野な言葉が砕破されて滅却に至り、彼に存在しないなら、彼は、〔真の〕知に達した者であり、一切所に解脱した如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
473
彼に、諸々の執着〔の思い〕が存在しないなら、〔彼は〕執着を超え行く者であり、高慢の有情たちのなかにいながら、高慢の有情ならざる者であるなら、田畑や地所(苦しみの原因)と共に、苦しみ(苦しみそのもの)を知り尽くして、如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
474
願望〔の思い〕に依存せずして、遠離〔の境地〕を見る者となり、他者によって知られるべき見解を超克した者として、何であれ、彼に、諸々の〔欲望や執着の〕対象(所縁)が存在しないなら、如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
475
〔あるがままに〕行知して、彼此[ひし]における諸々の法(もの・こと)が砕破されて滅却に至り、彼に存在しないなら、執取の滅尽〔という境地〕において解脱した、寂静なる如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
476
束縛と出生について〔その〕滅尽と終極を見る者、貪りの道を残りなく除き去った者−−〔心が〕清らかで、汚れ(瞋:怒りや憎しみなどの悪意)なく、〔世俗の〕垢を離れ、汚濁なき如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
477
自己によって自己を観ることなく、〔心が〕定められ、行ないが真っすぐで、自己を安立した者−−まさに、彼は、〔心に〕動揺なく、鬱屈[わだかまり]なく、疑惑なき者−−如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
478
何であれ、彼に、諸々の迷いの起因が存在しないなら−−あるいは、一切の諸法(もの・こと)について知見ある者が、あるいは、無上にして至福の正覚を得た者が、しかして、最後の肉体を保つなら−−これだけで、魂の清浄があります。如来は、献菓〔を受ける〕に値します」〔と〕。
479
〔婆羅門が言った〕「ならば、そのような、〔真の〕知に達した方(ブッダ)を得た、わたしの捧げものは、真理の捧げものとして、〔世に〕存せ。まさに、梵〔天〕(ブラフマン)が証人です。世尊よ、わたしの〔献菓を〕納めてください。世尊よ、わたしの献菓を受けてください」〔と〕。
480
〔世尊は答えた〕「わたしにとって、唱えられた詩偈(詩を唱えて得たもの)は、受けるべきものではありません。婆羅門よ、正しく見る者にとって、これは、法(正義)ではありません。覚者たちは、唱えられた詩偈を除き去ります(詩を唱えて得たものを拒否する)。婆羅門よ、法(正義)が存するなら、これが、生活〔のあり方〕です。
481
また、全一者たる偉大なる聖賢には、煩悩(漏)が滅尽し悔い〔の思い〕が止み静まった者には、他の食べ物と飲み物で奉仕しなさい。まさに、それは、功徳を期す者の田畑(福田)と成ります」〔と〕。
482
〔婆羅門が言った〕「世尊よ、善きかな、わたしは、わたしのような者の施物を受けてくれる者を、〔すなわち〕祭祀の時に遍く探し求めて〔供養する〕者を、あなたの教えを得て、そのとおりに識知するでありましょう」〔と〕。
483
〔世尊は答えた〕「彼の諸々の激昂〔の思い〕が離れ去って、彼の心が濁りなく、彼の〔心の〕沈滞[おちこみ]が除かれたなら、しかして、〔彼は〕諸々の欲望から解き放たれた者であり−−
484
諸々の〔善き〕境域の終極[はて]にあるもの(煩悩)を取り除く、生と死の熟知者にたいし−−祭祀〔の場〕にやってきた、そのような、牟尼の資質を成就した牟尼にたいし−−
485
〔見下すような〕渋面[しかめつら]を取り除いて、合掌して礼拝しなさい。食べ物と飲み物によって、供養しなさい。このように〔すれば〕、諸々の施物は、うまくゆきます」〔と〕。
486
〔婆羅門が言った〕「尊き覚者(ブッダ)は、献菓(を受ける)に値します。無上なる功徳の田畑(福田)に〔値します〕。一切世〔界〕にとって、祭祀〔の対象〕となる方です。尊き方への施しは、大いなる果と〔成ります〕」〔と〕。

 第五経 マーガ

487
学生[がくしょう]マーガが〔尋ねた〕「君ゴータマ(ブッダ)に、寛容なる方に、わたしは尋ねます。黄褐色〔の衣〕(袈裟)を着け、家なき者として歩む方に〔尋ねます〕。乞いに応じる者として、在家の施主が〔祭祀をするなら〕、功徳を義(目的)とし、功徳を期す者が、この〔世において〕、他者たちに食べ物と飲み物を施しながら、祭祀をするなら、祭祀をする者の捧げものは、どこに〔捧げたら〕、清まるのでしょう」と。
488
世尊は〔答えた〕「マーガさん、乞いに応じる者として、在家の施主が〔祭祀をするなら〕、功徳を義(目的)とし、功徳を期す者が、この〔世において〕、他者たちに食べ物と飲み物を施しながら、祭祀をするなら、そのような者(祭祀をする者)は、施与されるべき者たちによって、〔目的を〕達成するでありましょう(供養するにふさわしい者に施すことで、捧げものは清まる)」と。
489
学生マーガが〔尋ねた〕「乞いに応じる者として、在家の施主が〔祭祀をするなら〕、功徳を義(目的)とし、功徳を期す者が、この〔世において〕、他者たちに食べ物と飲み物を施しながら、祭祀をするなら、世尊よ、わたしに、施与されるべき者(施すにふさわしい者)たちについて、告げ知らせてください」と。
490
〔世尊は答えた〕「まさに、執着〔の思い〕なくして世を渡り歩く、無一物で、全一者たる、自己を制した者たち−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
491
一切の束縛と結縛を断った、調御者にして解脱者たち、煩悶[わずらい]なく願望なき者たち−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
492
一切の束縛から解き放たれた、調御者にして解脱者たち、煩悶なく願望なき者たち−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
493
貪り(貪)と怒り(瞋)と迷い(痴)を捨てて、煩悩が滅尽した、梵行(禁欲清浄行)の完成者たち−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
494
彼らのうちに、幻想[ごまかし]〔の思い〕が住みつかず、高慢[おごり]〔の思い〕なき者たち−−貪欲を離れ、我執なく、願望なき者たち−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
495
まさに、諸々の渇愛のうちに陥ることなく、激流を超え、我執なく歩む者たち−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
496
また、この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、世において、どこであれ、彼らに、種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕が存在しないなら−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
497
諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、家なき者として歩む者たち−−自己が善く自制され、梭[ひ](はた織りの道具)のように、真っすぐな者たち−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
498
ラーフ(阿修羅の一類で日蝕や月蝕を引き起こすとされる)の捕捉から解き放たれた月のように、貪欲を離れ、〔感官〕機能(根)が善く定められた者たち−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
499
貪りを離れ、怒りなく、〔心が〕静まった者たち−−この〔世において〕、〔一切を〕捨てて、彼らに、〔もはや〕赴く所(来世)が存在しないなら−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
500
生と死を残りなく捨てて、一切の疑惑を超克した者たち−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
501
自己を洲(依り所)として世を渡り歩き、無一物で、一切所に解脱した者たち−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
502
『これが最後である。さらなる〔迷いの〕生存は存在しない』と、このことを、まさに、ここに、それそのとおりに知る者たち−−彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
503
〔真の〕知に達し、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を喜び、気づきある者−−正覚を得て、多くの者たちの帰依所となる者−−彼に、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら」〔と〕。
504
〔学生マーガが言った〕「たしかに、わたしの、諸々の問い尋ねは、無駄ではなく成りました。世尊は、わたしに、施与されるべき者(施すにふさわしい者)たちについて、告げ知らせてくれました。あなたは、このことを、まさに、ここに、それそのとおりに知るのです。この法(もの・こと)は、まさに、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」〔と〕。
505
学生マーガが〔尋ねた〕「乞いに応じる者として、在家の施主が〔祭祀をするなら〕、功徳を義(目的)とし、功徳を期す者が、この〔世において〕、他者たちに食べ物と飲み物を施しながら、祭祀をするなら、世尊よ、わたしに、祭祀の成就について、告げ知らせてください」と。
506
世尊は〔答えた〕「マーガさん、祭祀をしなさい。祭祀をする者は、一切所で、心を清めなさい。祭祀は、祭祀をする者が対象(所縁)とするものです。〔彼は〕ここに〔心が〕確立して、〔心の〕汚れ(瞋:怒りや憎しみなどの悪意)を捨てます。
507
貪り〔の思い〕を離れた彼は、〔心の〕汚れ(瞋:怒りや憎しみなどの悪意)を追い払って、無量なる慈愛の心を〔常に〕修める者です。夜に、昼に、常に〔気づきを〕怠らずに、無量〔なる慈愛の心〕を、全ての方角に満たし行きます」と。
508
〔学生マーガが尋ねた〕「誰が、清まり、解脱し、あるいは、結縛されるのですか。どのような自己によって、〔彼は〕梵世(梵天界)に行くのですか。牟尼よ、〔問いを〕尋ねられた者として、無知なるわたしに、説いてください。世尊よ、なぜなら、わたしは、今日、〔生き〕証人としての梵〔天〕(ブラフマン)を見たからです。なぜなら、まさに、あなたは、梵〔天〕に等しい方である、と真に〔思う〕からです。光輝ある方よ、どのようにして、〔彼は〕梵世に再生するのですか」〔と〕。
509
世尊は〔答えた〕「マーガさん、祭祀をする、そのような者は、施与されるべき者(施すにふさわしい者)たちによって、三種類の、祭祀の成就(祭祀の前後とその最中において、心が清まること)を達成するでありましょう。このように、乞いに応じる者が正しく祭祀をして、梵世に再生する、と〔わたしは〕説きます」と。

 第六経 サビヤ

510
〔遍歴遊行者〕サビヤが〔言った〕「疑いある者として、惑いある者として、〔わたしは〕やってきました。諸々の問いを問い尋ねることを、待ち望んでいる者です。〔あなたは〕わたしのそれら〔の問い〕の、終極[おわり]を為す者と成ってください。〔あなたは〕わたしの諸々の問いにたいし、〔問いを〕尋ねられた者として、順次に、法(真理)のままに、わたしに説き示してください」と。
511
世尊は〔答えた〕「サビヤさん、〔あなたは〕遠くからやってきた者として存してます。諸々の問いを問い尋ねることを、待ち望んでいる者です。〔わたしは〕あなたのそれら〔の問い〕の、終極を為す者と成りましょう。〔わたしは〕あなたの諸々の問いにたいし、〔問いを〕尋ねられた者として、順次に、法(真理)のままに、あなたに説き示しましょう。
512
サビヤさん、わたしに、問いを、何であれ、意のまま、〔あなたが〕求めるままに、尋ねてください。わたしは、あなたの、まさしく、その〔問い〕、その問いの、終極を為しましょう」と。
513
〔遍歴遊行者〕サビヤが〔尋ねた〕「何を得た者を、『比丘』と言うのですか。何によって、『温和な者』と〔言うのですか〕。また、何ゆえに、『調御された者』と言うのですか。何ゆえに、『覚者』と呼ばれるのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き示してください」と
514
世尊は〔答えた〕「サビヤさん、自己〔自身〕が作り為した道によって、完全なる涅槃に赴き、疑惑を超え、虚無(非有:無)と実体(有:存在)とを〔両者ともに〕捨てて、さらなる〔迷いの〕生存が滅尽した、〔道の〕完成者−−彼は、『比丘』〔と呼ばれます〕。
515
一切所で、〔愛憎の思いを〕放捨し、気づきある者−−〔激流を〕超えた、〔心に〕濁りなき沙門−−彼は、誰であれ、一切世〔界〕において害することがありません。彼に、諸々の増長〔の思い〕が存在しないなら、彼は、『温和な者』〔と呼ばれます〕。
516
彼の、諸々の〔感官〕機能(根)が修められ、内と外に、一切世〔界〕において〔修められ〕、この〔世〕と他世を〔あるがままに〕洞察して、〔感官を〕修めた者となり、〔死の〕時を待つ−−彼は、『調御された者』〔と呼ばれます〕。
517
全部の妄想を〔あるがままに〕弁別して、輪廻を、死滅と再生の両者を〔あるがままに弁別して〕、〔世俗の〕塵を離れ去り、穢れなく、清浄なる者を、生の滅尽を得た彼を、『覚者』と言います」と。
518
〔遍歴遊行者〕サビヤが〔尋ねた〕「何を得た者を、『婆羅門』と言うのですか。何によって、『沙門』と〔言うのですか〕。また、何ゆえに、『沐浴者』と〔呼ばれるのですか〕。何ゆえに、『龍』と呼ばれるのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き示してください」と
519
世尊は〔答えた〕「サビヤさん、一切の悪しき〔行為〕を拒否して、〔世俗の〕垢を離れ、〔心が〕善く定められ、自己を安立した者−−彼は、輪廻を超え行って、全一者となります。〔何ものにも〕依存しない、そのような者−−彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます。
520
〔心が〕静まった者が、〔規範化した〕善と悪を捨てて、〔世俗の〕塵を離れ、この〔世〕と他世を〔あるがままに〕知って、生と死を超克したなら、〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『沙門』〔と〕呼ばれます。
521
一切の悪しき〔行為〕を洗い清めて(沐浴して)、内と外に、一切世〔界〕において〔洗い清めて〕、諸々の〔計測され概念化した〕時間(時計の時間・分別妄想・輪廻的あり方)のうちにある天〔の神々〕や人間たちのなかにいながら、〔計測され概念化した〕時間に至らない(輪廻しない・妄想しない)なら、彼を、『沐浴者』と言います。
522
世において、何であれ、罪悪を作らず、一切の束縛と諸々の結縛を捨て去って、解脱者となり、一切所で執着しないなら、〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『龍』〔と〕呼ばれます」と。
523
〔遍歴遊行者〕サビヤが〔尋ねた〕「覚者たちは、誰を、『田畑の勝者』と説くのですか。何によって、『智者』と〔言うのですか〕。また、何ゆえに、『賢者』と〔呼ばれるのですか〕。何ゆえに、『牟尼』という名で呼ばれるのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き示してください」と。
524
世尊は〔答えた〕「サビヤさん、天と人間の〔田畑〕を、梵の田畑を、全部[すべて]の田畑(認識の領域、行為のあり方)を〔あるがままに〕弁別して、一切の田畑の根元の結縛から解き放たれたなら、〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『田畑の勝者』〔と〕呼ばれます。
525
天と人間の〔蔵〕を、梵の蔵を、全部[すべて]の蔵(認識の領域、行為のあり方)を〔あるがままに〕弁別して、一切の蔵の根元の結縛から解き放たれたなら、〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『智者』〔と〕呼ばれます。
526
清浄の知慧ある者として、内と外の両者における白きもの(認識の領域)を〔あるがままに〕弁別して、黒白(悪業と善業)を超克したなら、〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『賢者』〔と〕呼ばれます。
527
正しからざる者と、正しくある者と、〔両者の〕法(もの・こと)を〔あるがままに〕知って、内と外に、一切世〔界〕において〔あるがままに知って〕、彼が、天〔の神々〕や人間たちに供養されるなら、執着の網を超え行って、彼は、『牟尼』〔と呼ばれます〕」と。
528
〔遍歴遊行者〕サビヤが〔尋ねた〕「何を得た者を、『〔真の〕知に達した者』と言うのですか。何によって、『随知者』と〔言うのですか〕。また、何ゆえに、『精進ある者』と〔呼ばれるのですか〕。何ゆえに、『善き生まれの者』という名が有るのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き示してください」と。
529
世尊は〔答えた〕「サビヤさん、たとえ、沙門たちのものとして存しようが、婆羅門たちのものであろうが、全部の知を〔あるがままに〕弁別して、一切の感受(受:認識対象を感受し苦楽の価値づけをする働き)について、貪り〔の思い〕を離れたなら、一切の知を超え行って、彼は、『〔真の〕知に達した者』〔と呼ばれます〕。
530
名前と形態(名色:現象世界)という虚構(戯論:分別妄想)を〔あるがままに〕随知して、内と外に、病の根元を〔あるがままに随知して〕、一切の病の根元の結縛から解き放たれたなら、〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『随知者』〔と〕呼ばれます。
531
この〔世における〕、一切の悪しき〔行為〕を離れた者−−地獄の苦しみを超え行って、精進を住居[すまい]とする者−−彼は、精進ある者にして精励ある者です。〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『慧者』〔と〕呼ばれます。
532
彼の、まさに、諸々の結縛が刈り取られ、内と外に、執着の根元を〔あるがままに了知して〕、一切の執着の根元の結縛から解き放たれたなら、〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『善き生まれの者』〔と〕呼ばれます」と。
533
〔遍歴遊行者〕サビヤが〔尋ねた〕「何を得た者を、『聞経者(婆羅門)』と言うのですか。何によって、『聖者』と〔言うのですか〕。また、何ゆえに、『行ないある者』と〔呼ばれるのですか〕。何ゆえに、『遍歴遊行者』という名が有るのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き示してください」と。
534
世尊は〔答えた〕「サビヤさん、〔覚者の教えを〕聞いて、世における一切の諸法(もの・こと)を証知して−−何であれ、〔世に〕存するもので、罪を有するものと罪なきものを〔証知して〕−−〔それらを〕征服し、疑惑なく、解脱した者を、一切所で煩悶[わずらい]なき者を、『聞経者(婆羅門)』と言います。
535
諸々の煩悩と執着を断って、知ある彼は、胎内に近づかず、三種類の想い(想:認識対象を表象し概念化する働き)と汚泥を除いて、〔計測され概念化した〕時間に至らない(輪廻しない・妄想しない)なら、彼を、『聖者』と言います。
536
この〔世における〕諸々の行ないについて、得るものを得た者−−一切時において、法(真理)を知っている智者−−一切所で、執着しない解脱者−−彼に、諸々の憤り〔の思い〕(敵対心)が存在しないなら、彼は、『行ないある者』〔と呼ばれます〕。
537
上に、また、下に、さらにまた、横に、〔その〕中間において、苦なる報いが存する行為(業)を遍く避け、遍知の者として〔世を〕歩む者が−−幻想[ごまかし]を〔避け〕、高慢を〔避け〕、さらにまた、貪りと怒りをも〔遍く避け、遍知の者として世を歩む者が〕−−名前と形態(名色:現象世界)の完全なる終極[おわり]を為したなら、得るものを得た彼を、『遍歴遊行者』と言います」と。
538
〔遍歴遊行者サビヤが言った〕「広き知慧ある方よ、〔あなたは〕六十と三とある〔諸々の異説〕を〔取り除いて〕−−〔すなわち、迷える〕沙門の論争に依存し、『表象(想:概念)と文字』という〔迷える〕想い(想:認識対象を表象し概念化する働き)に依存した、諸々の異説を取り除いて−−激流と闇を〔超えて〕行きました。
539
〔あなたは〕苦しみの終極[おわり]に達し、彼岸に達した者として存しています。〔あなたは〕阿羅漢(人格完成者)として、正等覚者として、存しています。〔わたしは〕あなたを、煩悩が滅尽した者と思います。〔あなたは〕光輝ある方、思慧ある方、多き知慧ある方です。苦しみの終極を為す方よ、〔あなたは〕わたしをして、〔わたしの疑惑を〕超えさせてくれたのです。
540
〔あなたは〕わたしの疑いを了知する者として、存しています。〔あなたは〕わたしをして、〔わたしの〕疑惑を超えさせてくれたのです。あなたに、礼拝〔有れ〕。牟尼よ、諸々の寂黙の道において得るものを得た方よ、鬱屈[わだかまり]なき方よ、太陽の眷属よ、〔あなたは〕温和な者として存しています。
541
眼[まなこ]ある方よ、かつて存した、わたしの疑惑−−それを、〔あなたは〕わたしに説き示してくれました。たしかに、〔あなたは〕牟尼として、正覚者として、存しています。あなたにとって、〔解脱の〕妨げ(蓋)は存在しません。
542
また、あなたにとって、一切の葛藤は、砕破され、分断されました。〔心が〕冷静[おだやか]に成った方、〔心身の〕調御を得た方です。〔道心〕堅固な方、真に努力する方です。
543
かの、龍のなかの龍、偉大なる勇者である、あなたの語ることに、ナーラダ(神名)とパッバタ(神名)の両者、全ての天〔の神々〕たちは、随喜します。
544
善き生まれの人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。天〔界〕を含む〔この〕世において、あなたに対しうる人は存在しません。
545
あなたは、覚者です。あなたは、教師です。あなたは、悪魔を征服する牟尼です。あなたは、諸々の悪習(随眠)を断ち切って、〔激流を〕超えた者として、この〔世の〕人々を〔彼岸へと〕超えさせてくれます。
546
あなたにとって、諸々の依存〔の思い〕は超え行かれ、あなたにとって、諸々の煩悩は破り去られました。〔あなたは〕獅子として、執取〔の思い〕なき者として、〔あらゆる〕恐れと恐ろしさを捨て去った者として、存しています。
547
麗しき白蓮華が、〔汚〕水のなかにありながら、汚されることがないように、このように、あなたは、善と、悪と、〔その〕両者に汚されません。勇者よ、〔両の〕足を差し出してください。サビヤは、教師を敬拝します」〔と〕。

 第七経 セーラ

548
〔婆羅門セーラが言った〕「世尊よ、〔あなたは〕完成された身体をもち、極めて好ましく、善き出生[うまれ]で、見た目が美しく、黄金の色艶ある者として存しています。〔あなたは〕歯が純白で、精進ある者として存しています。
549
まさに、善き出生の人には、諸々の特徴が有ります。あなたの身体には、それらの全てが〔有ります〕。偉大なる人がもつ諸々の特相が〔有ります〕。
550
眼が清らかで、美しい顔立ち、偉丈夫で、真っすぐで、輝きある者として、〔あなたは〕沙門の僧団の中で、太陽のように、光り輝きます。
551
見た目が善く、黄金に似た肌をもつ比丘−−このように、最上の容貌をもつ、あなたにとって、沙門として〔世に〕有ることが、何になるというのでしょう。
552
〔あなたは〕車上の雄牛(戦車隊の統率者)たる転輪王として、四辺を征圧したジャンブ州(全インド)の支配者として、〔世に〕有るのがふさわしい。
553
士族たちは、地方の王たちは、あなたに付き従う者と成ります。ゴータマ(ブッダ)よ、王のなかの王として、人間〔界〕のインダ(インドラ神)として、王権を為されよ(統治せよ)」〔と〕。
554
世尊は〔答えた〕「セーラさん、わたしは、王として、〔世に〕存しています。〔わたしは〕無上なる法(真理)の王として、法(真理)によって、〔法の〕輪を転じます−−〔誰も〕反転できない〔法の〕輪を」と。
555
婆羅門セーラが〔尋ねた〕「〔あなたは、自らについて〕『正覚者である』〔と〕公言なさいます。ゴータマ(ブッダ)よ、〔あなたは〕『無上なる法(真理)の王として、法(真理)によって、〔法の〕輪を転じる』と語ります。
556
いったい、誰が、軍団の長ですか。〔誰が〕尊き方の弟子として、教師に従い行くのですか。あなたが転じた、この、法(真理)の輪を、誰が、〔後に続いて〕転じ行くのですか」と。
557
世尊は〔答えた〕「セーラさん、わたしが転じた〔法の〕輪を、無上なる法(真理)の輪を、如来に〔続いて〕生まれ来たサーリプッタ(人名・舎利弗:ブッダの高弟)が、〔後に続いて〕転じ行きます。
558
わたしによって、証知されるべきものは証知され、そして、修められるべきものは修められ、捨てられるべきものは捨てられました。婆羅門よ、それゆえに、〔わたしは〕覚者として〔世に〕存しているのです。
559
婆羅門よ、わたしにたいする疑いを取り除きなさい。〔わたしを〕信じなさい。正覚者たちと一度ならず相見えることは、得難きこととして〔世に〕有るのです。
560
彼ら(正覚者たち)が一度ならず世に出現することは、あなたたちにとって、得難きことです。婆羅門よ、そして、わたしは、その正覚者です。〔毒〕矢の治癒者にして無上なる者です。
561
〔わたしは〕梵(最高の人格者)と成り、〔他に〕比類なく、悪魔の軍団を撃破し、一切の朋[とも]ならざる〔敵〕を自在に為して、何ものも恐れず、〔自ら〕喜び楽しみます」と。
562
〔婆羅門セーラが、自らの弟子たちに言った〕「諸君、このことを、眼[まなこ]ある方(ブッダ)が語るとおりに、こころして聞け−−〔毒〕矢の治癒者にして偉大なる勇者が、林のなかで獅子が吼えるように〔語る、そのとおりに〕。
563
梵(最高の人格者)と成り、〔他に〕比類なく、悪魔の軍団を撃破する方(ブッダ)を見て、誰が、〔心が〕清まらずにいられよう。黒き生まれの者でさえも、〔心が清まるであろう〕。
564
求める者は、わたしに従え。あるいは、求めない者は、行け。ここに、わたしは、優れた知慧ある方(ブッダ)の現前で、出家するであろう」〔と〕。
565
〔弟子たちは答えた〕「もし、この、正等覚者(ブッダ)の教えが、尊き方(婆羅門セーラ)にとって、好ましきものとなるなら、わたしたちもまた、優れた知慧ある方(ブッダ)の現前で、出家するでありましょう」〔と〕。
566
〔婆羅門セーラが言った〕「これら、三百の婆羅門たちは、合掌を為して、〔あなたに〕乞います。世尊よ、あなたの現前で、〔わたしたちは〕梵行(禁欲清浄行)を行じおこなうでありましょう」〔と〕。
567
世尊は〔言った〕「セーラさん、現に見られ、時を要さない、〔真の〕梵行(禁欲清浄行)は、善く告げ知らされました。そこにおいて、〔気づきを〕怠らずに学ぶ者の出家は、無駄ではありません」と。
568
〔出家したセーラに、世尊は言った〕「諸々の祭祀は、火への供え物を頂点とし、韻文の頂点は、サーヴィッティー(サーヴィトリー讃歌)です。人間たちの頂点は、王であり、諸々の川の頂点は、海です。
569
星々の頂点は、月であり、諸々の輝くものの頂点は、太陽です。功徳を望みながら祭祀をする者たちの頂点は、まさに、僧団(僧:サンガ)なのです」〔と〕。
570
〔尊者セーラが言った〕「眼[まなこ]ある方よ、あなたという帰依所に〔わたしたちが〕やってきてこのかた(覚者に帰依してから)、〔今日で〕第八〔日〕です。世尊よ、〔わたしたちは〕七夜で、あなたの教えにおいて調御された者として、〔いまここに〕存しています。
571
あなたは、覚者です。あなたは、教師です。あなたは、悪魔を征服する牟尼です。あなたは、諸々の悪習(随眠)を断ち切って、〔激流を〕超えた者として、この〔世の〕人々を〔彼岸へと〕超えさせてくれます。
572
あなたにとって、諸々の依存〔の思い〕は超え行かれ、あなたにとって、諸々の煩悩は破り去られました。〔あなたは〕獅子として、執取〔の思い〕なき者として、〔あらゆる〕恐れと恐ろしさを捨て去った者として、存しています。
573
これら、三百の比丘たちは、合掌を為して、立っています。勇者よ、〔両の〕足を差し出してください。龍(比丘)たちよ、教師を敬拝せよ」〔と〕。

 第八経 矢

574
死すべき者(人間)たちの、この〔世における〕生命は、〔特定の〕相なく、了知されることなく、そのうえ、困難で、なおかつ、短く、しかして、それは、苦によって束縛されている。
575
それ〔をすること〕で生まれた者たちが死なずにすむ、その〔ような〕方策など、まさに、存在しない。また、老[おい]を得ては、死がある〔だけのこと〕。このように、まさに、生ある者には、諸々の法(性質)がある。
576
諸々の熟した果実には、早く落ちる恐れがあるように、このように、死すべき者(人間)として生まれた者たちには、常に、死の恐れがある。
577
また、陶工の作った諸々の土器も、全てが変壊という結末があるように、このように、死すべき者(人間)たちの生命は、〔全てが変壊という結末あるものである〕。
578
青年たちも、大人たちも、愚者たち、賢者たちも−−〔その〕全てが、死魔の支配へと赴く−−〔その〕全てが、死を行き着く所とする。
579
死魔に打ち負かされた彼らが行きつつある他世からは、父親が子供を救うことはなく、あるいはまた、親族が親族たちを〔救うこともない〕。
580
〔死に行く者を〕ただ見ているだけで、個々に泣き叫んでいる親族たちを見よ。死すべき者(人間)たちの、まさしく、一者一者[ひとりひとり]が、屠殺される牛のように、〔死へと〕導かれる。
581
このように、世〔の人々〕は、老と死とによって、悩み苦しめられている。それゆえに、慧者たちは、世〔の人々〕の行く末を知って、憂い悲しまない。
582
来た者の、あるいは、去った者の、彼の道を、〔あなたは〕知らない。〔生と死の〕両極を正しく見ずに、〔あなたは〕義(意味)なく、嘆き悲しむ。
583
もし、迷乱して、自己を害し、嘆き悲しんでいる者が、〔嘆き悲しむことで〕何らかの義(意味)を引き出すなら、しかして、明眼の者は、これ(嘆き悲しむこと)を為すであろう。
584
まさに、泣き悲しむことで、憂い悲しむことで、心の寂静を得ることはない。まさに、より一層、苦しみが生起し、肉体が打ちのめされる〔だけのこと〕。
585
自己によって自己を害しつつ、痩せ細り、色艶の衰えた〔瀕死の〕者と成るが、それによって、亡者たちがどうにかなることはない。嘆き悲しむことは、義(意味)なきこと。
586
憂い〔の思い〕を捨てずにいる人は、より一層、苦しみを受ける。命の終わりを泣き悲しんでいる者たちは、憂いの支配に従ってきたのだ。
587
また、〔自己の作り為した〕行為(業)のままに近づき行き、〔他世へと〕行く、他の人たちをも、見よ。死魔の支配が及んで、この〔世において〕、ただ震えるだけの生あるものたちを。
588
まさに、あれやこれや思い考えても、それは、その〔思い〕とは他のものと成る。見よ−−世〔の人々〕の行く末を。このような、変じ異なる状態がある〔だけのこと〕。
589
たとえ、もし、若くある者が、百年のあいだ、生きるとして、あるいはまた、より一層〔生きるとして〕、親族の群れとは別れ別れに成り、この〔世において〕、生命を捨てる〔だけのこと〕。
590
それゆえに、阿羅漢(人格完成者)の〔教えを〕聞いて、嘆き悲しみ〔の心〕を取り除くように。命を終えた亡者を見て、「彼は、わたしには〔何も〕できない」と〔知るように〕。
591
燃える家を水で消し止めるように、また、このように、慧者にして知慧を有する者は、賢者にして智者たる人は、生起した憂い〔の思い〕を、すみやかに〔消し静めるように〕−−風が、綿を吹き飛ばすように。
592
自己の、嘆き悲しみと渇望と失意〔の思い〕を〔引き抜くように〕。自己の安楽を求める者は、自己の矢を引き抜くように。
593
矢が引き抜かれた者は、〔何ものにも〕依存せず、心の寂静を得て、一切の憂いを超え行き、憂いなく、涅槃に到達した者と成る。

 第九経 ヴァーセッタ

594
〔学生ヴァーセッタが尋ねた〕「わたしたち(学生ヴァーセッタと学生バーラドヴァージャ)は、両者ともに、〔他者も〕承認し〔自らも〕公言する、三つのヴェーダある者(ヴエーダ聖典の精通者)として、〔世に〕存しています。わたし(学生ヴァーセッタ)は、ポッカラサーティ(人名)の、この者(学生バーラドヴァージャ)は、タールッカ(人名)の学生(弟子)です。
595
三つのヴェーダ(ヴェーダ聖典)について告げられた、そのときは、〔わたしたちは〕全一者として、存しています。〔わたしたちは〕詩句に通じ、文法に精通し、〔聖典の〕読誦については、師と同等の者として、存しています。
596
ゴータマ(ブッダ)よ、そのわたしたちに、出生の論について、論争が存在するのです。バーラドヴァージャは、『出生によって、婆羅門と成る』と語ります。しかしながら、わたしは、『行為(業)によって、〔婆羅門に成る〕』〔と〕説きます。眼ある方よ、このように、知ってください。
597
そして、わたしたちは、両者ともに、互いに他を了解させることができません。『正覚者』として〔世に〕聞こえた尊き方に問い尋ねるため、〔わたしたちは〕やってきました。
598
合掌した人たちが、滅〔の期間〕を過ぎた月(満月)に向かって敬拝し、礼拝するように、このように、世において、〔世の人々は〕ゴータマ(ブッダ)を〔礼拝します〕。
599
世における眼として出現したゴータマ(ブッダ)に、わたしたちは問い尋ねます。出生によって、婆羅門と成るのですか、それとも、行為(業)によって、〔婆羅門と〕成るのですか。無知なるわたしたちに、説いてください−−〔わたしたちが〕婆羅門について、知りうるように」〔と〕。
600
世尊は〔答えた〕「ヴァーセッタさん、わたしは、その〔ような〕あなたたちに、生き物たちの出生の区分を、順次に、真実のとおりに、説き示しましょう。諸々の出生は、まさに、互いを他とするもの(相異なる存在)です。
601
また、草や木々についても、知りなさい。さらにまた、公言しなくても、それらには、出生によって作られた徴表(種による差異)があります。諸々の出生は、まさに、互いを他とするもの(相異なる存在)です。
602
それから、蛆虫や蟋蟀たち、蟻たちに至るまで、それらには、出生によって作られた徴表(種による差異)があります。諸々の出生は、まさに、互いを他とするもの(相異なる存在)です。
603
また、小さいものや大きいものなど、諸々の四足〔の動物〕についても、知りなさい。それらには、出生によって作られた徴表[しるし](種による差異)があります。諸々の出生は、まさに、互いを他とするもの(相異なる存在)です。
604
また、足が腹で、胸で行き、長い背をもつ〔蛇〕たちについても、知りなさい。それらには、出生によって作られた徴表(種による差異)があります。諸々の出生は、まさに、互いを他とするもの(相異なる存在)です。
605
それから、また、水にあって、水を境涯[すみか]とする魚たちについても、知りなさい。それらには、出生によって作られた徴表(種による差異)があります。諸々の出生は、まさに、互いを他とするもの(相異なる存在)です。
606
それから、また、翼をもち、翼を乗り物として、宙を行く〔鳥〕たちについても、知りなさい。それらには、出生によって作られた徴表(種による差異)があります。諸々の出生は、まさに、互いを他とするもの(相異なる存在)です。
607
これら、諸々の出生(種)について、出生によって作られた徴表(種による差異)が別々であるように、このように、出生によって作られた徴表が別々のものとして存在することは、人間たちについては、ありません。
608
髪になく、頭になく、〔両の〕耳になく、〔両の〕眼になく、口になく、鼻になく、〔両の〕唇にも、あるいは、〔両の〕眉にもありません。
609
首になく、〔両の〕肩になく、腹になく、背になく、尻になく、胸になく、陰部になく、淫欲(性行為のあり方)にもありません。
610
〔両の〕手になく、〔両の〕足になく、〔両手の〕指にも、あるいは、〔両手の〕爪にもなく、〔両足の〕脛になく、〔両足の〕膝になく、色にも、あるいは、声にもありません。他の、諸々の出生についてのように、出生によって作られた徴表(種による差異)〔が別々のものとして存在すること〕は、〔人間たちについては〕まさしく、〔有りえ〕ないのです。
611
肉体を有するものたちにおいて各自それぞれに〔見出される〕、この〔徴表〕は、人間たちについては見出されません。そこで、〔それぞれの〕区別は、人間たちについては、呼称でもって呼ばれるのです。
612
ヴァーセッタさん、このように、知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、牧畜に依拠して生きる者−−彼は、耕作者であって、婆羅門ではありません。
613
ヴァーセッタさん、このように、知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、種々の技能によって生きる者−−彼は、技術者であって、婆羅門ではありません。
614
ヴァーセッタさん、このように、知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、売り買いに依拠して生きる者−−彼は、商人であって、婆羅門ではありません。
615
ヴァーセッタさん、このように、知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、他者に仕えることで生きる者−−彼は、下僕であって、婆羅門ではありません。
616
ヴァーセッタさん、このように、知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、与えられていないものに依拠して生きる者−−この者は、盗賊であって、婆羅門ではありません。
617
ヴァーセッタさん、このように、知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、弓術に依拠して生きる者−−〔彼は〕戦士として生きる者であって、婆羅門ではありません。
618
ヴァーセッタさん、このように、知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、司祭職によって生きる者−−彼は、祭祀者であって、婆羅門ではありません。
619

ヴァーセッタさん、このように、知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、村と国を領する者−−この者は、王であって、婆羅門ではありません。
620
また、わたしは、〔婆羅門の〕胎から生じ、〔婆羅門の〕母から生まれる者を、『婆羅門』と説きません。まさに、彼が、〔執着ある〕所有者として〔世に〕有るなら、彼は、〔単に〕婆羅門という名で〔世に〕有る〔だけのこと〕。無一物で、無執取の者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
621
一切の束縛を断ち切って、まさに、思い悩むことがない者は、執着を超え行く者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
622
紐(憤怒)、緒(渇愛)と、綱(六十二邪見)を、手綱(煩悩)と共に、断ち切って、閂(無明)を引き抜いた覚者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
623
汚れ(罪)なき者でありながら、悪罵[ののしり]に〔耐え〕、さらには、殴打と結縛を忍受する者は、忍耐力があり、力ある軍隊〔に匹敵する者〕であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
624
怒りなく、掟あり、戒あり、〔渇愛の〕増長なき者−−最後の肉体ある、調御の者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
625
蓮の葉にある水〔滴〕のように、錐[きり]の先にある芥子〔粒〕のように、諸々の欲望〔の対象〕に汚されない者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
626
まさしく、この〔世において〕、自己の苦の滅尽を覚知する者は、〔世の〕束縛を離れ、〔生の〕重荷を降ろした者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
627
甚深[じんじん]なる知慧の者、道と非道とを熟知する思慮ある者、最上の義(目的)を獲得した者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
628
在家の者たちと家なき者たち、〔その〕両者と交わらず、家なくして行く、求むこと少なき者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
629
動くものたち、そして、動かないものたち、〔一切の〕生類にたいし、棒(武器)を置いて、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させない者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
630
〔道を〕遮る者たちのなかにいながら遮ることなき者(一切に敵意なき者)、棒(武器)を取る者たちのなかにいながら涅槃に到達した者、執取〔の思い〕を有する者たちのなかにいながら執取〔の思い〕なき者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
631
芥子〔粒〕が錐の先から〔落ちる〕ように、彼の、貪り(貪)と怒り(瞋)と高慢(慢)と隠覆(覆)が打ち倒された者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
632
粗野でなく、〔はっきりと意味を〕識知させる、真理の言葉を話し、それ(言葉)によって、誰とであれ、面倒を起こさずにいる者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
633
また、あるいは、長いものと短いもの、あるいは、微細のものと粗大のもの、美しいものと美しくないもの、〔何であれ〕世において与えられていないものを取らない者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
634
この世において、そして、他〔世〕において、彼に、諸々の願望(自己中心的な期待や思惑)が見出されないなら、依存〔の対象〕なく、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
635
彼に、諸々の執着が見出されず、〔一切を〕了知して、疑惑なき者となるなら、不死への沈潜(涅槃の境地)を獲得した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
636
この〔世における〕善も悪も、両者ともに、執着〔の思い〕を超え行ったなら、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れた、清浄の者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
637
垢(汚れ)を離れた月(満月)のように、清浄で、〔心が〕清らかで、濁りなき者−−喜びの生存(迷いの生存を喜びとする、凡夫のあり方)が完全に滅尽した者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
638
この、障害と悪路と輪廻と迷妄を超え行った者−−〔激流を〕超え、彼岸に達した瞑想者−−動揺なく、疑惑なく、〔一切を〕執取せずして、涅槃に到達した者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
639
この〔世における〕諸々の欲望〔の対象〕を捨て去って、家なき者として遍歴遊行するなら、欲望と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
640
この〔世において〕渇愛〔の思い〕を捨て去って、家なき者として遍歴遊行するなら、渇愛と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
641
人間としての束縛を捨てて、天〔の神〕としての束縛を超え行ったなら、一切の束縛について束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
642
喜悦も、不満も、〔両者ともに〕捨てて、依存〔の思い〕なく、〔心が〕冷静[おだやか]に成った者−−一切世〔界〕を征服する勇者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
643
有情(生類)たちの死滅と再生を全て知ったなら、執着なく、善き至達者たる、覚者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
644
天〔の神々〕たちが、ガンダッバ(音楽神)や人間たちが、彼の赴く所を知らないなら、煩悩が滅尽した者であり、阿羅漢(人格完成者)であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
645
彼に、過去も、未来も、〔その〕中間(現在)も、何ものも存在しないなら、無一物で、無執取の者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
646
〔勇猛果敢な〕雄牛、最も優れた勇者、偉大なる聖賢、〔一切の〕征圧者、不動の沐浴者(梵行終了者)たる覚者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
647
過去(前世)の居住[いきざま]を知った者、そして、〔死後に赴く〕天上と苦境(地獄)を〔両者ともに〕見る者、しかして、生の滅尽を得た者−−わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
648
まさに、これは、世における〔ただの〕呼称であって、名前や氏姓として想い描かれた〔だけの〕ものです。慣習(世俗:社会通念)から生まれ来たものであって、そこかしこで〔そのように名づけられ〕想い描かれた〔だけの〕ものです。
649
無知なる者たちの、長夜にわたり悪しき習いとなった、悪しき見解があります。無知なる者たちは、わたしたちに説きます−−『出生によって、婆羅門と成る』〔と〕。
650
出生によって、婆羅門と成るのではありません。出生によって、婆羅門ならざる者と成るのではありません。行為(業)によって、婆羅門と成るのです。行為(業)によって、婆羅門ならざる者と成るのです。
651
行為(業)によって、耕作者と成り、行為(業)によって、技術者と成ります。行為(業)によって、商人と成り、行為(業)によって、下僕と成ります。
652
また、行為(業)によって、盗賊と成り、また、行為(業)によって、戦士としての生ある者と成ります。行為(業)によって、祭祀者と成り、また、行為(業)によって、王と成ります。
653
このように、この〔道理〕を〔知り〕、有るがままに行為(業)を見る、賢者たちは、〔物事が〕縁によって生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)を見る者たちであり、行為(業)の報いを熟知する者たちです。
654
世〔界〕は、行為(業)によって転じ行き、人々は、行為(業)によって転じ行きます。行為(業)に結縛された有情たちは、進み行く車の楔[くさび](車軸に車輪を固定する部品)のようなものです。
655
苦行、梵行(禁欲清浄行)、自制、そして、調御−−これらによって、婆羅門と成るのです。これが、最上の婆羅門〔の境地〕です。
656
ヴァーセッタさん、このように、知りなさい。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)を成就し、寂静にして、さらなる〔迷いの〕生存が滅尽した者が、識者たちにとっては、梵〔天〕(ブラフマン)であり、帝釈〔天〕なのです」と。

 第十経 コーカーリヤ

657
まさに、生まれた人の口には斧が生え、それによって、愚者は、自己を断つ−−悪しく語られた〔言葉〕(悪口)を語りながら。
658
非難すべき者を賞賛し、あるいは、賞賛すべき者であるのに彼を非難する者−−彼は、口(言葉)によって、〔悪しき〕賽の目(罪過)を弁別する(選び取る)。〔彼は〕その賽の目によって、安楽を知ることはない。
659
諸々の博打[ばくち]において、自己をも含む、一切の財をも敗失することになる、この賽の目は、〔その罪悪の量は〕僅かばかりのもの。〔しかしながら〕善き至達者(覚者)たちを意[こころ]に汚す(悪意を抱く)なら、この賽の目こそは、より大きなものとなる。
660
悪しき言葉と意[おもい]を向けて聖者を非難する者は、十万と三十六のニラッブダ(数の単位、無限大)、および、五つのアブッダ(数の単位、無限大)〔年〕のあいだ、地獄へと近づき行く。
661
真実ならざることを説く者は、地獄へと近づき行く。あるいはまた、為しておきながら「〔わたしは〕為してない」〔と〕言う者も、〔地獄へと近づき行く〕。また、彼らは、死してのち、両者ともに、下劣な行為(劣業)の人間として、他所(来世)において、等しきものと成る。
662
汚れなき人を汚し、清らかで穢れなき人を〔穢す〕者−−まさしく、その愚者に、悪は戻り来る−−風に逆らって投げられた微細な塵が〔投げた者自身に戻って来る〕ように。
663
貪欲の対象に束縛された者−−彼は、言葉によって、他者たちを誹謗する。信なく、吝嗇で、不親切、物惜しみで、〔他者を〕中傷することに〔自ら〕束縛された者である。
664
口悪しき者よ、真実を離れた聖ならざる者よ、生あるものを殺す悪しき者よ、悪行を為す者よ、人でなしの〔悪しき〕賽の目よ、劣悪な生まれの者よ、多くを語ってはならない。この〔世において〕、〔おまえは〕地獄にある者として存しているのだ。
665
〔おまえは〕益なきことのために、塵を撒き散らし、罪障を作る者(罪人)となり、寂静の者たちを非難する。そして、多くの悪しき行ないを行じおこなって、まさに、長夜にわたり、深淵(地獄)へと赴くのだ。
666
誰のものであれ、〔為した〕行為(業)は、まさに、滅することがない。それ(行為)は、かならず、至り行き、〔行為の〕主[ぬし]が、まさしく、〔その報いを〕得る。罪障を作る愚か者は、他世において、自己のうちに、苦しみを見る。
667
〔彼は〕鉄の杭が打たれた状況(地獄)へと、鋭い〔刃の〕切っ先へと、鉄の串へと、近づき行く。しかして、〔地獄には〕熱せられた鉄の玉に似た食が存在する−−〔彼に〕適した、そのとおり〔の食〕として。
668
まさに、〔地獄の獄卒たちは〕説くときは麗美に説いてはくれない。〔獄卒たちは〕助けてはくれない。救いの者たちとして、近づいてはくれない。〔地獄に堕ちた者たちは〕広げられた炭火のうえに臥し、燃え盛る遍き火のなかに入る。
669
また、網で覆って、そこにおいて、鉄で作られた諸々の槌で打つ。まさしく、漆黒の暗所に入って行くが、まさに、それ(暗所)は、霧のように広がっている。
670
しかしてまた、燃え盛る遍き火の、銅で作られた大釜へと入る。まさに、それらの、〔燃え盛る〕遍き火〔の大釜〕のなかで、〔地獄に堕ちた者たちは〕浮きつ沈みつしながら、長夜にわたり、煮られる。
671
しかして、罪障を作る者(罪人)は、膿と血が交ざり合った〔大釜〕のなかで、そこにおいて、煮られるのか。〔身体を〕臥す、その〔方向〕その方向で、そこにおいて、〔膿と血に〕触れる者は、〔膿と血で〕汚される。
672
罪障を作る者(罪人)は、蛆虫の住居[すみか]である水のなかで、そこにおいて、煮られるのか。まさに、〔出て〕行こうにも、縁さえも存在しない。なぜなら、釜は、どこも皆、全てが等しく〔できている〕のだから。
673
また、鋭い剣の葉をもつ林−−それに入ると、四肢が切り刻まれる。〔獄卒たちは〕釣針で舌を掴み取って、〔四肢を〕引き裂き、引き裂いては、打つ。
674
しかしてまた、渡り難きヴェータラニー〔川〕の鋭い切っ先へと、剃刀の切っ先へと、近づき行く。悪を為す愚か者たちは、諸々の悪を為して、そこに、堕ち行く。
675
まさに、そこにおいて、泣き叫ぶ者たちを、黒いまだらの大烏たちの群れが喰い、さらには、犬、狐、大鷲、鷹、そして、烏たちが、啄む。
676
罪障を作る人(罪人)が見る(経験する)、ここ(地獄)の生活は、まさに、これは、苦難である。それゆえに、この〔世において〕、命の残りあるうちは、為すべきことを為す人として存するように。そして、驕り高ぶらないように。
677
紅蓮の地獄に連れて行かれた者たち−−彼ら〔の寿命〕は、知者たちによって、積み荷のなかの胡麻〔の数に等しい〕と数えられた。まさに、五つの千万ナフタ(数の単位)と、他にまた、十二の百千万〔年〕に成る。
678
ここに説かれた、諸々の苦なる地獄があるかぎり、また、そこにおいて、それだけ長く住まねばならない。それゆえに、清らかで善良な善き性質の者たちにたいし、常に、言葉と意を、遍く守るように。

 第十一経 ナーラカ

679
歓喜を生じ満足している三十〔三天〕衆、清らかな衣の天〔の神々〕たち、そして、インダ〔神〕(インドラ神)が、恭しく衣を掴んで、あまりに賛嘆しているのを、アシタ聖賢は、〔天界での〕昼住(昼の休息)のときに見た。
680
こころ躍り、喜びの意[おもい]ある、天〔の神々〕たちを見て、そこで、〔アシタ聖賢は〕心〔からの思い〕を為して、このことを言った。
〔アシタ聖賢が尋ねた〕「天〔の神々〕の群れは、何を〔縁として〕、あまりに善き気色[ようす]なのですか。何を縁として、〔彼らは〕衣を掴んで振り回すのですか。
681
阿修羅たちと戦いが存したときでさえも、〔天の〕神々たちが勝ち、阿修羅たちが敗れた、そのときでさえも、このような、身の毛のよだつ〔歓喜〕はありません。どのような未曾有〔の出来事〕を見て、〔天の〕神々たちは歓喜したのですか。
682
〔天の神々たちは〕口笛を吹き、あるいは、歌い、あるいは、〔楽器を〕奏で、あるいは、〔両の〕手を打ち、あるいは、舞います。メール(須弥山)の頂きに住むあなたたちに、わたしは尋ねます。諸尊よ、わたしの疑惑を、すみやかに払い落としてください」〔と〕。
683
〔天の神々たちは答えた〕「かの菩薩が、優れた宝である無比なる方が、〔人間たちの〕利益と安楽のために、人間世〔界〕に、サキャ(釈迦)〔族〕の者たちの村に、ルンビニーの里に、生まれたのです。それによって、〔わたしたちは〕満足し、あまりに善き気色[ようす]で存しているのです。
684
彼は、一切の有情のなかの最上者たる方、至高なる人、人のなかの雄牛、一切の人々のなかの最上者たる方です。『聖賢〔の集まる所〕』と名づけられた林で、〔法の〕輪を転じるでありましょう−−百獣の王が、力ある獅子が、吼え叫ぶように」〔と〕。
685
その声を聞いて、彼(アシタ聖賢)は、急いで〔人間世界に〕降りて行った。そのとき、〔アシタ聖賢は〕スッドーダナ(浄飯王:ブッダの父親)の居所へと近づき行き、そこに坐して、サキャ〔族〕の者たちに、このことを言った。
〔アシタ聖賢が尋ねた〕「童子は、どこにおられますか。わたしもまた、〔童子に〕相見[まみ]えることを欲する者です」〔と〕。
686
それから、サキャ〔族〕の者たちは、まさしく、溶炉の口のなかで名工によって精錬された黄金のように輝く童子を、吉祥なるがゆえに至上の容貌をもち光り輝いている子供を、「アシタ」と名づけられた〔聖賢〕に見せた。
687
炎のように光り輝いている童子を見て、天空を行く、星のなかの雄牛(月)のように清浄で、秋に、雲から解き放たれた太陽のように輝いている〔童子〕を〔見て〕、歓喜を生じた〔アシタ聖賢〕は、広大なる喜びを得た。
688
〔天の〕神々たちは、無数の枝(骨)と千の円輪をもつ傘蓋[さんがい](王侯や貴人が使う日除けの大傘)を、空中に保持した。黄金の棒(柄)の諸々の払子[ほっす](柄の先に毛や布を束ねた虫除けの道具)が、〔童子を扇ぐため〕飛び交う。〔しかしながら〕払子や傘蓋を持つ者たちは、〔その姿が〕見えない。
689
「カンハシリ」と名づけられた結髪の聖賢(アシタ)は、黄色い毛布のなかの、黄金の円環のような〔童子〕を見て、また、頭上に白の傘蓋を保持されている〔童子〕を〔見て〕、心が躍り上がり、意[こころ]楽しく、〔童子を〕受け取った。
690
サキャ〔族〕のなかの雄牛(童子)を受け取って、〔聖者の〕特相と呪文の奥義に達した者(アシタ聖賢)は、しかして、〔童子の容貌に聖者の特相を〕探し求め、〔疑惑なく〕清らかな信ある心で、言葉を発した。
〔アシタ聖賢は言った〕「この〔童子〕は、無上なる方です。二足の者(人間)たちのなかでは、最上の方です」〔と〕。
691
しかして、〔アシタ聖賢は〕自己の先行きを思い浮かべながら、〔何やら〕善からざる気色[ようす]で涙を流す。〔それを〕見て、サキャ〔族〕の者たちは、泣いている聖賢に言った。
〔サキャ族の者たちが尋ねた〕「もしや、童子に、〔将来、何か〕障[さわ]りでも有るのではないでしょうか」〔と〕。
692
善からざる〔気色の〕サキャ〔族〕の者たちを見て、聖賢は言った。
〔アシタ聖賢は答えた〕「わたしは、童子について、益ならざることを思い浮かべているのではありません。あるいはまた、彼に、障りが有るというのでもありません。この方は、劣れる者ではありません。〔あなたたちは、童子にたいし〕意[おもい]を傾ける者と成りなさい。
693
この童子は、至高の正覚を体得するでありましょう。彼は、最高の清浄を見る者であり、この方は、多くの人の利益のために慈しみ〔の思い〕ある者として、法(真理)の輪を転じるでありましょう。彼の梵行(禁欲清浄行)は、広く知られるものと成りましょう。
694
しかしながら、わたしの、この〔世における〕残る寿命は、長くはありません。しかして、わたしのばあい、〔童子が正覚を得る〕中途で、命を終えることと成りましょう。そして、わたしは、忍耐強さでは同等の者なき方(成道後の童子、すなわち、ブッダ)の法(教え)を聞くことはないでしょう。それによって、〔わたしは〕苦悩し、災厄に陥った、悩苦ある者として、〔いまここに〕存しているのです」〔と〕。
695
梵行(禁欲清浄行)者である彼(アシタ聖賢)は、サキャ〔族〕の者たちに広大なる喜びを生み、〔王の〕内宮から去った。慈しみ〔の思い〕ある彼は、自ら、甥に、忍耐強さでは同等の者なき方(成道後の童子、すなわち、ブッダ)の諸々の法(教え)〔を聞くこと〕を勧めた。
696
〔アシタ聖賢が言った〕「『覚者(ブッダ)が、正覚を得た者が、法(真理)の道を渡り歩く』という声を、後に、〔おまえが〕聞くとき、そこに行って、教義について遍く尋ね、世尊である彼(ブッダ)のもとで、梵行(禁欲清浄行)を歩め」〔と〕。
697
そのような〔他者の〕利益に意ある者、未来における最高の清浄を見る者である彼(アシタ聖賢)に教え示された、かのナーラカ(人名・アシタ聖賢の甥)は、功徳の積量を蓄積し、勝者(ブッダ)〔の出現〕を待ち望みながら、〔感官〕機能(根)を守って、住していた。
698
優れた勝者の〔法の〕輪の転起についての声を聞いて、〔そこに〕行って、聖賢のなかの雄牛(ブッダ)を見て、清らかな信ある者(ナーラカ)は、「アシタ」と名づけられた者の教えが実現したので、最勝の牟尼の資質について、最も優れた牟尼(ブッダ)に尋ねた。
 序の詩偈が終わる。
699
〔ナーラカが尋ねた〕「アシタ〔聖賢〕のこの言葉は、真実のとおりに、了知されました。ゴータマ(ブッダ)よ、それ(牟尼の資質)について、あなたに、一切諸法(現象世界)の彼岸に達した方に、問い尋ねます。
700
牟尼よ、家なき〔身〕を具し、行乞の行[ぎょう]を望み求めるわたしに、〔問いを〕尋ねられた者として、最上の境地たる牟尼の資質について、説いてください」〔と〕。
701
世尊は〔答えた〕「あなたに、牟尼の資質について、教え知らせよう。為し難く、征服し難い〔牟尼の資質〕について、さあ、それを、あなたに言い示そう。〔自らを〕堅く保て。断固たる者と成れ。
702
村において、悪罵されても敬拝されても、〔心を〕等しき状態に〔保ち〕為すように。意の[こころ]汚れ(怒りや憎しみなどの悪意)を〔保ち〕守るように。寂静にして、傲慢ならずに、歩むように。
703
林においては、火炎の如き〔危険で避けねばならない〕高下諸々のことが現じ来る。女たちは牟尼を誘惑するが、まさに、彼女たちが彼を誘惑するようなことがあってはならない。
704
淫欲の法(もの・こと)から離れ、彼此[ひし]における、諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、動くものと動かないものにたいし、〔一切の〕生き物たちにたいし、〔行く手を〕遮ることなく(敵意を抱かず)、執着しない者は−−
705
『わたしがそうである、そのとおりに、これらのものたちはある。これらのものたちがそうである、そのとおりに、わたしはある』〔と〕、自己を喩えと為して(自らを引き合いにして)、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないように。
706
〔迷える〕凡夫が執着する所である、欲求と貪欲とを捨てて、眼[まなこ]ある者は、〔法の道を〕実践するように。この地獄を超えるように。
707
腹を空かし〔正しく〕量られた食の者として、求むこと少なく〔味に心が〕動かない者として、〔世に〕存するように。まさに、彼は、〔心の〕欲求にたいし、無欲かつ無求なる者であり、涅槃に到達した者と成る。
708
彼は、〔行乞の〕食のための歩行(托鉢)を行じおこなって、林の外れへと〔歩を〕運ぶように。木の根元に立ち、坐〔所〕に着き、牟尼は−−
709
彼(牟尼)は、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を追求する慧者として、林の外れで喜びある者として、存するように。自己を楽しませる者として、木の根元で瞑想するように。
710
それから、夜の明け方には、村の外れへと〔歩を〕運ぶように。〔村の者の〕招きを、あるいは、村からの〔施物の〕提供を、喜ぶことがないように。
711
村に至って、牟尼は、家々を、無理強いで歩むことがないように。食を求める者にたいし、〔余計な〕言を断ち、放埒[でまかせ]の言葉を語ることがないように。
712
『〔施物を〕得たことは、これは〔これで〕善いことである。得なかったことは、〔これはこれで〕善いことである』と、まさしく、〔得ても得なくても〕両者ともどもに、彼は、そのような者であり、ただ、木〔の根元〕に戻るだけのこと。
713
彼は、鉢を手にして、〔家々を〕渡り歩くが、唖[おし]でもないのに唖と思われる。施しが少なくても、蔑まないように−−施す者を見下すことなく。
714
まさに、高下諸々の道が、沙門(ブッダ)によって明らかにされた。〔人は〕二回、彼岸に行くことはないが、この〔道〕は、一回〔限り〕とは思われない。
715
しかして、彼に、執着〔の思い〕が存在しないなら、〔輪廻の〕流れが断ち切られた比丘に、為すべきことと為すべきでないことが〔両者ともに〕捨て去られた者に、苦悶〔の思い〕は見出されない」と。
716
〔引き続き〕世尊は〔答えた〕「あなたに、牟尼の資質について、教え知らせよう。剃刀の切っ先にある如く(剃刀の切っ先に塗られた蜜を舐めるのが人間の生である、と自戒して)、〔世に〕有るように。舌を上顎に付けて、腹において〔食が〕自制された者として存するように。
717
また、心が陰鬱ならざる者として存するように。あるいはまた、多くを思い考えないように。生臭[なまぐさ]ならず、〔何ものにも〕依存せず、梵行(禁欲清浄行)を〔自らの〕行き着く所(最終目標)とする者は−−
718
独り坐すことを学ぶように。そして、沙門の従事すること(瞑想)を〔学ぶように〕。独りあることは、寂黙〔の道〕である、〔と、覚者によって〕告げ知らされた。もし、独りあるなら、〔彼は、独りあることを〕喜び楽しむであろう。
719
しかして、〔彼は〕十方に光り輝くであろう。慧者たちの評判を聞いて、欲望を捨てた瞑想者たちの〔評判を聞いて〕、それゆえに、わたしにしたがう者は、より一層、恥〔を知る思い〕と信〔の思い〕とを作り為すように。
720
それを、諸々の川によって〔それらを喩えとして〕識知するように。諸々の溝や峡谷などの小さな流れは、騒ぎ立てつつ行くが、大河は、沈黙なるままに行く。
721
不足のもの−−それは騒ぎ立て、満ちているもの−−まさしく、それは寂静なるまま。愚者は、〔ぴちゃぴちゃと音を立て、中身が〕半分の瓶の如く、賢者は、〔水が〕満ちた湖のようなもの。
722
沙門が多く語るなら、〔その言葉は〕義(意味)を伴い、具している。〔あるがままに〕知る者として、彼は、法(真理)を示す。〔あるがままに〕知る者として、彼は、多く語る。
723
また、〔あるがままに〕知る者として、自己を制した者−−〔あるがままに〕知る者として、多く語らない者−−彼は、寂黙〔の道〕に値する牟尼である。彼は、寂黙〔の道〕に到達した牟尼である」と。

 第十二経 二種の随観

724
苦しみを覚知せず、しかして、苦しみの生起を〔覚知せず〕、さらには、そこにおいて、苦しみが残りなく全て消滅し、かつまた、苦しみの寂止へと至る、その道(八正道)を知らない者たち−−
725
彼らは、心の解脱に劣る者たちであり、しかして、彼らは、知慧の解脱と〔苦しみの〕終極[おわり]を為すことができない。まさに、彼らは、生と老〔の輪廻〕へと近づき行く者たちである。
726
しかしながら、苦しみを覚知し、しかして、苦しみの生起を〔覚知し〕、さらには、そこにおいて、苦しみが残りなく全て消滅し、かつまた、苦しみの寂止へと至る、その道(八正道)を覚知する者たち−−
727
〔彼らは〕心の解脱を成就した者たちであり、しかして、彼らは、知慧の解脱と〔苦しみの〕終極[おわり]を為すことができる。彼らは、生と老〔の輪廻〕へと近づき行く者たちではない。
728
何であれ、世における、無数なる形態の苦しみは、依存という縁から生起する。まさに、〔あるがままに〕知ることなく、依存〔の対象〕を作る者−−愚か者は、繰り返し、苦しみへと近づき行く。それゆえに、〔あるがままに〕覚知する者として、苦しみの発生の起源を観る者として、依存〔の対象〕を作らないように。
729
〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)から他の〔迷いの〕状態(来世)へと、生と死の輪廻へと、繰り返し赴く者たち−−まさしく、無明によって、その赴く所が〔決まる〕。
730
なぜなら、この無明は、大いなる迷妄であり、それ(無明)によって、長きにわたり、これ(迷いの状態)として輪廻してきたのだから。しかしながら、明知に到達した有情たち−−〔彼らは〕さらなる〔迷いの〕生存には帰り来ない(輪廻的あり方を超越する)。
731
何であれ、苦しみが生起するなら、一切は、形成作用(行:生の輪廻を施設し造作する働き)という縁から〔生起する〕。諸々の形成作用が止滅することで、苦しみの生起は存在しない(有りえない)。
732
「苦しみは、形成作用(行:生の輪廻を施設し造作する働き)という縁から〔生起する〕」〔と〕、この危険を知って、一切の形成作用が止息し、表象作用(想:認識対象を表象し概念化する働き)が破壊するがゆえに、このように、苦の滅尽が有る。このことを、真実のとおりに知って−−
733
正しく見る者たちは、〔真の〕知に達した賢者たちは、正しく了知して、悪魔の束縛を征服して、さらなる〔迷いの〕生存には帰り来ない(輪廻的あり方を超越する)。
734
何であれ、苦しみが生起するなら、一切は、識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)という縁から〔生起する〕。識別作用が止滅することで、苦しみの生起は存在しない(有りえない)。
735
「苦しみは、識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)という縁から〔生起する〕」〔と〕、この危険を知って、比丘は、識別作用が寂止するがゆえに、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる。
736
接触(触:感覚・経験)〔の喜悦〕に打ち負かされ、生存の流れ(輪廻)に従い行き、邪道を実践する彼らにとって、束縛の滅尽は、遠く離れている。
737
しかしながら、接触(触:感覚・経験)を知り尽くし、了知して、〔心の〕寂止に喜びある者たち−−まさに、彼らは、接触〔の喜悦と、その危険〕を知悉するがゆえに、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる。
738
もしくは、楽しいことであろうが、苦しいことであろうが、苦でもなく楽でもないことと共に、内も、外も、何であれ、〔愛憎の対象として〕感受されたものが存在しないなら−−
739
「これは、苦しみである。虚偽の法(もの、こと)である。壊れ崩れるものである」と知って、このように、〔その〕接触(触:感覚・経験)〔その〕接触の衰滅を見る者(瞬間瞬間の感覚が生じては滅するあり方をあるがままに見る者)は、そこにおいて、離染する。比丘は、諸々の感受作用(受:認識対象を感受し苦楽の価値づけをする働き)が滅尽するがゆえに、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる。
740
渇愛を伴侶とする人は、長時にわたり、輪廻する。〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)から他の〔迷いの〕状態(来世)へと、〔生死の〕輪廻を超克することはない。
741
渇愛〔の思い〕を、苦しみの生起と、この危険を知って、比丘は、渇愛〔の思い〕を離れ、執取〔の思い〕なく、気づきの者として、遍歴遊行するであろう。
742
〔迷いの〕生存は、執取〔の思い〕という縁から〔生起する〕。〔作られたものとして〕有るものは、苦を受ける。生まれたものには、死が有る。これが、苦しみの生起である。
743
それゆえに、執取〔の思い〕が滅尽するがゆえに、賢者たちは、正しく了知し、生の滅尽を証知して、さらなる〔迷いの〕生存には帰り来ない(輪廻的あり方を超越する)。
744
何であれ、苦しみが生起するなら、一切は、〔利己的な〕勉励という縁から〔生起する〕。諸々の〔利己的な〕勉励が止滅することで、苦しみの生起は存在しない(有りえない)。
745
「苦しみは、〔利己的な〕勉励という縁から〔生起する〕」〔と〕、この危険を知って、一切の〔利己的な〕勉励を放棄して、〔利己的な〕勉励なき〔境地〕における解脱者にとって−−
746
〔迷いの〕生存にたいする渇愛〔の思い〕が断たれた、寂静心の比丘にとって、生の輪廻は超えられた。彼に、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。
747
何であれ、苦しみが生起するなら、一切は、食という縁から〔生起する〕。諸々の食が止滅することで、苦しみの生起は存在しない(有りえない)。
748
「苦しみは、食という縁から〔生起する〕」〔と〕、この危険を知って、一切の食を知り尽くして、一切の食について依存なき者となる。
749
無病〔の境地〕を正しく了知して、諸々の煩悩が完全に滅尽するがゆえに、〔食について正しく〕考究して、〔正しい食のあり方に〕慣れ親しむ者は、法(正義)に依って立ち、〔真の〕知に達した者となり、〔虚構の〕名称(概念)に近づくことはない(名付けを離れた存在となる)。
750
何であれ、苦しみが生起するなら、一切は、動揺という縁から〔生起する〕。諸々の動揺〔の思い〕が止滅することで、苦しみの生起は存在しない(有りえない)。
751
「苦しみは、動揺という縁から〔生起する〕」〔と〕、この危険を知って、それゆえに、〔心の〕動揺を放棄し、諸々の形成作用(行:生の輪廻を施設し造作する働き)を破壊して、比丘は、〔心の〕動揺なく、執取〔の思い〕なく、気づきの者として、遍歴遊行するであろう。
752
〔何ものにも〕依存しない者は、動揺しない。しかしながら、〔何ものかに〕依存する者は、〔常に〕執取している。〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)から他の〔迷いの〕状態(来世)へと、〔生死の〕輪廻を超克することはない。
753
「諸々の依存〔の対象〕のうちに、大いなる恐怖がある」〔と〕、この危険を知って、比丘は、〔何ものにも〕依存せず、執取〔の思い〕なく、気づきの者として、遍歴遊行するであろう。
754
あるいは、形態(色)に近づき行く有情たち(人間)−−あるいは、形態なきところ(無色)に住む者たち(神々)−−〔彼らは〕止滅〔の境地〕を覚知することなく、さらなる〔迷いの〕生存へと帰り来る者たちである。
755
しかしながら、諸々の形態(色)を知り尽くして、諸々の形態なきもの(無色)のうちに止[とど]まることなく、止滅〔の境地〕において解脱する者たち−−彼らは、死を捨て去る人たちである。
756
見よ−−自己でないものについて「自己である」と高慢し、名前と形態(名色:現象世界)のうちに〔思いが〕固着した、天〔界〕を含む〔この〕世の者を。「これは、真理である」と〔迷いのままに〕思いなす。
757
まさに、あれやこれや思い考えても、それは、その〔思い〕とは他のものと成る。まさに、それは、その〔思い〕にとっては虚偽なるものとして有る。まさに、移り行く、虚偽の法(もの・こと)として〔有る〕。
758
涅槃〔の境地〕は、迷妄ならざる法(もの・こと)であり、聖者たちは、それを「真理である」と知る。まさに、彼らは、真理を知悉するがゆえに、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる。
759
諸々の形態(色:眼の対象)、諸々の音声(声:耳の対象)、諸々の味わい(味:舌の対象)、諸々の香り(香:鼻の対象)、諸々の接触(触:身の対象)、諸々の法(法:意の対象)の全部と、諸々の求められ欲せられ意に適うものと、「〔世に〕存在する」と言われるかぎりのもの−−
760
こられこそは、天〔界〕を含む〔この〕世の者にとって、「楽しみである」と思われたものである。さらには、これらのものが消滅する所−−それは、彼らにとって、「苦しみである」と思われたものである。
761
身体が有る〔という誤った見解〕の破壊は、聖者たちによって、「楽しみである」と見られた。〔あるがままに〕見る者の、この〔ものの見方〕は、一切世〔界〕とは、正反対のものと成る。
762
他者たちが「楽しみである」と言うもの−−それを、聖者たちは、「苦しみである」と言う。他者たちが「苦しみである」と言うもの−−それを、聖者たちは、「楽しみである」と知る。見よ−−了知し難き法(真理)を。ここに、迷乱の者たちがいる。無知なる者たちがいる。
763
〔迷妄に〕覆われた者たちには、闇が有る。〔あるがままに〕見ない者たちには、暗黒が〔有る〕。しかしながら、正しくある者たちには、〔迷妄の覆[おおい]が〕開かれた〔あるがままの真実〕が有る−−〔あるがままに〕見る者たちに、光明が〔有る〕ように。〔しかしながら〕法(真理)の熟知者ならざる獣愚の者たちは、〔法の〕現前にいながら〔法を〕識知しない。
764
〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされ、〔迷いの〕生存の流れ(輪廻)に従い、悪魔の領域に堕ちた者たちによって、この法(真理)が真に正覚されることはない。
765
聖者たちより他の、いったい、誰が、〔その〕境地を正覚するにふさわしいというのだろう−−煩悩なき者たちが、正しく了知して、完全なる涅槃に到達する、〔まさにその〕境地に。


第四章 八なるもの

 第一経 欲望

766
欲望〔の対象〕を欲している彼にとって、もし、その〔願い〕が適うなら、たしかに、人は、求めるものを得て、〔その時だけは〕喜びの意[おもい]が有る。
767
〔欲望の対象を〕欲している彼にとって、欲〔の思い〕が生じた人にとって、もし、それらの欲望〔の対象〕が衰え滅びるなら、〔彼は〕矢に貫かれた者のように、悩み苦しむ。
768
足で蛇の頭を〔避ける〕ように、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける者−−〔常に〕気づきある彼は、世における、この執着を超克する。
769
田畑、地所、黄金、あるいは、牛馬、奴隷や下僕、婦女たち、眷属たちなど、種々なる欲望〔の対象〕を貪り求める人−−
770
彼を、まさしく、諸々の力なきもの(時の流れ)が押しつぶす。彼を、諸々の危難が踏みにじる。それゆえに、彼に、苦しみが従い行く−−壊れた舟に、水が〔浸み入る〕ように。
771
それゆえに、常に気づきある人は、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるもの。それら(欲望の対象)を捨てて、〔貪欲の〕激流を超えるなら、〔人は〕舟〔に浸み入る水〕を汲み出して、彼岸に達した者となる。

 第二経 洞窟についての八なるもの

772
〔煩悩の〕洞窟(身体)に執着し、多く〔の迷妄〕に覆われた者−−迷妄ならしむもの(欲望の対象)のうちに沈み、止[とど]まっている人−−そのような類[たぐい]の者である彼は、まさに、遠離〔の境地〕から、遠く離れている。まさに、世における諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、捨て易きものではない。
773
未来、あるいはまた、過去について、〔あれこれと〕期待する者たち−−あるいは、〔現前する〕これらの欲望〔の対象〕を、あるいは、以前〔に見た欲望の対象〕を、〔貪りの思いで〕渇望する者たち−−彼ら、〔潜在的な心の〕欲求という縁から〔生起した〕生存(有)の快[よろこび]に結縛された者たちは、解脱し難く、まさに、他のもの(他者・他物)〔を依り所とする〕解脱は、〔どこにも存在し〕ない。
774
諸々の欲望〔の対象〕について、貪り、追い求め、〔心が〕迷乱した者たち−−彼ら、しみったれで、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した者たちは、〔いざ、死の〕苦しみ〔の前〕に連れて行かれたなら、〔うってかわって〕嘆き悲しむ。「死んだ〔わたしたち〕は、これから、いったい、どう成るのだろう」〔と〕。
775
それゆえに、まさに、人は、この〔世において〕こそ、学ぶように。何であれ、世において、「不正である」と知られるなら、それを理由に、不正を行じおこなうことがないように。慧者たちは言う「その寿命は、まさに、僅かである」〔と〕。
776
〔わたしは〕見る−−諸々の生存にたいする渇愛に陥り、世において、震えおののいている、この人々を。下劣な人たちは、〔死に瀕しても〕種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられず、死魔の門にて泣きわめく。
777
見よ−−わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)に、震えおののいている者たちを−−水少なく、涸れた流れのなかにいる、魚たちのような者たちを(彼らは、所有物を失う不安と恐怖で悩み苦しんでいる)。また、このことを見て、諸々の生存について執着〔の思い〕を為さずにいる者は、我執なくして、行じおこなうように。
778
〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を取り除き、〔感官とその対象の〕接触(触:感覚・経験)を知り尽くして、〔欲望の対象を〕貪り求めない者は−−自己を難じる者が〔為す〕こと、それを為さずにいる慧者は−−諸々の見られ聞かれたもの(欲望の対象)に汚されない。
779
諸々の執持〔の対象〕(所有物)に汚されない牟尼(沈黙の聖者)は、〔心中の〕想い(想:認識対象を表象し概念化する働き)を知り尽くして、〔貪欲の〕激流を超え渡るであろう。〔貪欲の〕矢が引き抜かれた者は、〔気づきを〕怠ることなく行じおこなう者は、この世と他〔世〕を、〔両者ともに〕願い求めない。

 第三経 邪悪についての八なるもの

780
また、或る者たちは、まさに、〔憎しみや怒りなどの〕汚れた意[こころ]で、〔自己の論を〕説く。しかしてまた、まさに、〔自説だけが〕真理である〔という、思い上がりの〕意[こころ]で、〔自己の論を〕説く。しかしながら、牟尼は、〔論敵への憎悪と自説への固執から〕生じた〔悪意ある〕論に近づかない。それゆえに、牟尼は、〔他者にたいする〕鬱屈[わだかまり](偏見)が、どこにも存在しない。
781
欲〔の思い〕に導かれ、好みによって〔思いが〕固着した者は、まさに、どのようにして、自らの見解を超え渡るというのだろう。〔諸々の特定の見解について〕「〔それらは〕完全である」〔と〕自ら〔思いを〕為す者は、まさに、〔限定された自己だけの観点から〕知るであろうとおりに、そのように〔自説を独善的に〕説くであろう。
782
また、自己の〔保持する〕諸々の戒や掟について、〔他者から〕尋ねられていないのに、他者たちに説く人−−まさしく、自ら、自己について、〔あれこれと〕説く者−−智者たちは、彼を「聖ならざる法(性質)」と言う。
783
しかしながら、自己が寂滅した、寂静なる比丘は、「わたしは云々」と、諸々の戒について誇らない。彼に、世に〔はびこる〕増長[おもいあがり]〔の妄想〕が、どこにも存在しないなら、智者たちは、彼を「聖なる法(性質)」と説く。
784
彼に、〔執着の対象として〕想い描かれ〔妄想によって〕作られた諸々の法(もの・こと)が〔存在し〕、〔特別のものとして〕偏重された諸々の清浄ならざるものが存在するなら、〔彼は〕自己〔だけ〕に利徳を見る者であり、その、動揺を縁とする〔虚妄の〕寂静に依存する者である。
785
諸々の見解にたいする固着は、まさに、超克し易きものではない。〔比丘は〕諸々の法(もの・こと)のうちに、〔執着の対象として〕執持されたもの(悪しき法)を、〔正しく〕弁別するように。それゆえに、人は、それら、諸々の〔妄執が〕固着する場において、法(もの・こと)を放棄し、かつまた、執取する。
786
清き者には、まさに、世のどこにおいても、種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた〔特定の〕見解は存在しない。幻想[ごまかし]も、高慢も、〔両者ともに〕捨てて、清き者たる彼が、どうして、〔迷いの生存に〕赴くであろう。彼は、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者である。
787
〔執着の対象に〕近づく者は、まさに、諸々の法(見解)について、〔特定の〕論に近づく。〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう(彼は、論争の相手にはならない)。なぜなら、彼には、〔執着の対象として〕執取されたものと、〔排除の対象として〕放棄されたものが、〔両者ともに〕存在しないのだから(彼は、特定の見解を執着の対象として執取することもなく、排除の対象として放棄することもない)。彼は、まさしく、この〔世における〕一切の見解を払い落としたのだ。

 第四経 清浄についての八なるもの

788
「〔わたしは〕見る−−清浄で、無病で、最高なる者を。〔外に〕見られたものによって、人の清浄は有る」〔と〕、〔見てくれだけで〕清浄を観る(理解する)者は、これ(清浄)を〔自己だけの観点で〕証知しながら、「〔外に見られたものが〕最高である」と〔自分勝手に〕知って、〔形だけの知識を〕「〔正しい〕知識である」と盲信する。
789
もし、〔外に〕見られたものによって、人の清浄が有るなら、あるいは、〔形だけの〕知識によって、彼が苦を捨てるなら、彼は、〔見解や知識にたいする〕依存〔の思い〕ある者であって、〔自己でない〕他のものによって清まる〔ことになる〕。なぜなら、〔他のものである、彼の〕見解は、彼について、そのように〔形だけで〕説いている者であることを、〔自ら〕説くからである。
790
〔真の〕婆羅門(人格完成者)は、他のものから〔生まれた、虚妄の〕清浄を、〔清浄とは〕言わない。自己を捨て、この〔世において〕、〔執着の思いを〕為さずにいる者は、見られたものと聞かれたものと思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、あるいは、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教的行為)について、善と悪と(概念化され規範化した価値基準)について、汚されない者である。
791
前の〔教師や教義〕を捨てて他の〔教師や教義〕に依存する者たち、〔心の〕揺れ動くまま〔他のものに〕従い行く彼らは、〔自らの〕執着〔の思い〕を超えることがない。彼らは、〔特定の何かを、執着の対象として〕執持し、〔排除の対象として〕放棄する−−猿が、枝を掴んでは放つようなもの。
792
自ら〔自分勝手に〕、諸々の掟を受持して、〔自分勝手な〕想い(想:概念・表象)に執着する人は、〔迷いのままに〕高下に赴く。しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法(真理)を行知して、広き知慧ある者となり、高下に赴くことがない。
793
あるいは、見られたもの、あるいは、聞かれたものと思われたもの、何であれ、彼は、一切の諸法(もの・こと)にたいし、敵対という有り方を離れている。このように見る者である彼を、〔迷妄の覆が〕開かれた者として行じおこなう者を、この世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)。
794
彼ら(知慧ある者たち)は、〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、「〔これこそ〕究極の清浄である」と説かない。〔執着の思いで〕拘束された執取の拘束(欲望や執着の対象)を捨てて、世のどこにおいても、〔自分勝手な〕願望を作らない。
795
〔執着の対象として〕執持されたものを〔「執着の対象である」と〕、あるいは、〔あるがままに〕知って、あるいは、〔あるがままに〕見て、〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門−−彼には、〔執着の対象が〕存在しない。〔彼は〕貪り〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪〔の思い〕に染まった者でもない。彼には、この〔世において〕、「〔これこそ〕最高である」〔と〕執持されたもの(執着の対象)が存在しない。

 第五経 最高についての八なるもの

796
世において、人は、〔自らが〕より上と為すものを、諸々の見解のなかにおいて、「最高である」と〔独善的に固執し〕固着しながら、それより他のものについては、〔その〕一切を、「劣る」と言う。それゆえに、〔人は〕諸々の論争を超克しない。
797
見られたものと聞かれたものと思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、あるいは、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教的行為)について、自己〔だけ〕に利徳を見る者−−彼は、そこにおいて、それ(自己の利徳)だけに執持して、他者の一切を「劣る」と見る。
798
〔何ものかに〕依存する者が、他者を「劣る」と見るなら、たとえ、それ(「劣る」という思い)だけでも、智者たちは、拘束と説く。それゆえに、まさに、比丘は、見られたものに〔依存せず〕、あるいは、聞かれたものと思われたものに〔依存せず〕、あるいは、戒や掟に依存しないように。
799
あるいは、知識によって、あるいはまた、戒や掟によっても、世において、〔いかなる〕見解も想い描かないように。自己を〔他者と〕「等しい」と見なさないように。あるいはまた、「劣る」「勝る」〔と〕思いなさないように。
800
〔比丘である〕彼は、自己を捨てて、執取することなく、また、知識にも依存を為さない。まさに、彼は、相争う者たちのなかにいながら、〔特定の〕党派に走り行く者ではない。また、彼は、何であれ、〔特定の〕見解を盲信しない。
801
この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、種々なる〔迷いの〕生存のために〔あれこれと願い求めず〕、彼に、この〔世において〕、〔生と死の〕両極について、〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら、彼に、諸々の〔妄執が〕固着する場は、何であれ、存在しない。〔比丘は〕諸々の法(もの・こと)のうちに、〔執着の対象として〕執持されたもの(悪しき法)を、〔正しく〕弁別するように。
802
彼には、この〔世において〕、あるいは、見られたものについて、あるいは、聞かれたものと思われたものについて、〔執着の対象として〕想い描かれたもの(妄想)や、〔自分勝手な〕想い(想:概念・表象)は、微塵でさえも存在しない。〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を、この世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)。
803
〔特定の見解を〕想い描かず、偏重しない者たち−−彼らには、〔いかなる〕諸法(もの・こと)でさえも受容されない。〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない。彼岸に達した、そのような者は、〔もはや、この世に〕戻らない。

 第六経 老

804
まさに、この寿命は、僅かである。百年にも満たずに、〔人は〕死ぬ。たとえ、もし、〔百年を〕超えて生きるとして、しかして、彼もまた、まさに、老によって死ぬ。
805
わがものと〔錯視〕された諸々のもの(欲望や執着の対象)について、〔世の〕人たちは憂い悲しむ。まさに、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、常住のものとして存在しない。「これは、変じ異なる状態として存在しているだけである」と見て、〔賢者は〕家に住み止[とど]まらないもの。
806
「これは、わたしのものである」と、人が思うもの−−それもまた、死によって失われる。また、このように知って、賢者は、わたし(ブッダ)にしたがう者は、我執〔の思い〕に屈さないもの。
807
また、夢で一緒になった者を、目覚めた人が〔もはや〕見ないように、また、このように、〔かつて〕愛された人もまた、命を終えた亡者となっては、〔誰も〕見ない。
808
彼らのばあい、〔世俗の慣習にすぎない〕この名前で呼ばれ、〔かつては〕見られもし、聞かれもした、それらの人たちであるが、人が亡者となっては、名前だけが残り、告げ知らされる〔だけのこと〕。
809
わがものと〔錯視〕された諸々のもの(欲望や執着の対象)を貪る者たちは、憂いや嘆きや物惜しみ〔の心〕を捨てない。それゆえに、牟尼(沈黙の聖者)たちは、執持〔の対象〕(所有物)を捨てて、〔無一物に〕平安を見る者として、行じおこなった。
810
〔欲望の対象から〕退去して行じおこなう、遠離の意[おもい]に慣れ親しむ比丘にとって、彼にとって、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないようにするなら、それを、〔賢者たちは〕「〔比丘として〕ふさわしいこと」と言う。
811
一切所で依存なき牟尼は、愛しきものを作らず、また、愛しからざるものも〔作ら〕ない。〔蓮の〕葉に水が着かないように、彼のうちに、嘆きや物惜しみ〔の心〕は〔存在しない〕。
812
また、蓮〔の葉〕に水滴が〔着かない〕ように、〔あるいは〕蓮華に水が着かないように、このように、牟尼は、〔世の人々が執着の対象とする〕この、見られ聞かれたものに〔汚されず〕、あるいは、諸々の思われたものについても汚されない。
813
まさに、〔汚れを払った〕清き者は、〔世の人々が執着の対象とする〕この、見られ聞かれたものに〔汚されず〕、あるいは、諸々の思われたものについても〔汚されず〕、それ(見られ聞かれたもの)によって〔あれやこれや〕思い考えることがない。〔彼は〕他のものによって、清浄を求めない。なぜなら、彼は、〔欲に〕染まらず、〔欲から〕離染することもないのだから。

 第七経 ティッサ・メッテイヤ

814
尊者ティッサ・メッテイヤが〔言った〕「尊師よ、〔わたしたちに〕淫欲に束縛された者の悩み苦しみを説いてください。あなたの教えを聞いて、〔わたしたちは〕遠離を学ぶつもりです」と。
815
世尊(ブッダ)は〔答えた〕「メッテイヤよ、淫欲に束縛されたなら、〔その時は、わたしの〕教えを忘れもするだけのこと。そして、誤って実践する〔だけのこと〕。〔淫欲に束縛された〕彼のうちには、この、聖ならざる〔悩み苦しみ〕があります。
816
かつては独り行じおこないながら、〔今は〕淫欲に慣れ親しむ者−−迷走する乗り物のような彼を、〔賢者たちは〕『世における下劣な凡夫』と言います。
817
あるいは、かつての福徳と栄誉が、彼にとっては、それが失われもするだけのこと。また、このことを見て、淫欲を捨てるべく、〔遠離こそを〕学ぶように。
818
諸々の妄想に打ち負かされた彼は、貧者のように思い惑います。そのような類[たぐい]の者は、他者たちの〔悪しき〕評判を聞いて、愕然と成ります。
819
そして、他者たちの論によって叱責された者は、諸々の刃[やいば]〔の如き悪しき行ない〕を為します。まさに、これは、彼にとっては、大いなる貪り。〔彼は〕虚偽の言葉に沈みます。
820
〔かつては〕『賢者』と知られ、独り行じおこなうことを確立した者が、しかしてまた、淫欲に束縛されたなら、愚か者のように悩み苦しみます。
821
この危険を知って、牟尼は、この〔世においてこそ〕、過去と未来について、独り行じおこなうことを〔すなわち、遠離こそを〕、断固として為すように。淫欲に慣れ親しまないように。
822
遠離こそを、学ぶように。これは、聖者たちにとって、最上のもの。それによって〔自己を〕『最勝である』〔と、独善的に〕思いなさないなら、まさに、彼は、涅槃の現前にあります。
823
諸々の欲望〔の対象〕を捨て(遠離して)、〔あれこれと〕期待することなく、〔遠離のままに〕行じおこない、激流を超えた牟尼を、諸々の欲望〔の対象〕に拘束された人々は羨みます」と。

 第八経 パースラ

824
〔対話者パースラに、世尊は答えた〕「〔彼らは〕『ここ(自説)だけに、清浄がある』と〔執着の思いで、自説を〕説きます。〔けっして〕他者たちの諸々の法(教え)のうちに、清浄を言いません(認めない)。〔自説に〕依存する者たちは、そこ(自説)において、〔自説を〕『美しい(価値がある)』と〔独善的に〕説きつつ、各自の真理にたいし、個々〔それぞれ〕に固着しているのです。
825
彼ら、論を欲する者たちは、衆のうちに入って、互いに他と敵対し、〔他者を〕『愚者である』と決め付けます。彼ら、賞賛を欲する者たちは、〔自らを〕『智者である』〔と〕説きながら、〔実際には〕他者〔の権威〕に依存して、論難の言葉を説きます。
826
衆の中で、〔論争の〕言葉に束縛された者は、賞賛を求めつつ、敗北を恐れる者と成ります。また、〔他者に〕排斥されて、愕然と成ります。彼は、〔他者の〕欠点を探し求める者であり、〔自分への〕非難には怒ります。
827
問〔答〕を審査する者たちが、彼の論について、『遍く劣る、排斥された』と言うなら、劣った論の者は、〔それを〕嘆き、憂い悲しみます。『〔彼は〕わたしを超え行った』と、泣き悲しむのです。
828
これらの論争が、沙門たちのあいだで生じたなら、これらのうちには、〔心の〕高揚と落胆が有ります。また、このことを見て、〔比丘は〕論難の言葉を離れるように。なぜなら、賞賛を得ることの他に、義(利益)は存在しないからです。
829
あるいはまた、衆の中で、〔自己の〕論を告げて、そこにおいて、賞賛された者に成るとして、彼は、意[こころ]が〔そう〕有った(心に想い描いた)とおりの、その義(利益)を得て、それによって、狂喜し、そして、傲慢になります。
830
傲慢−−それは、彼にとって、悩み苦しみの境地です。また、この者は、〔以前にも増して〕高慢と増慢〔の論〕を説きます。また、このことを見て、〔比丘は〕論争しないように。なぜなら、智者たちは、それによって、清浄を説かないからです。
831
王の食禄に養われた〔蛮勇の〕勇士が、雄叫びをあげ、敵の勇士を求めて行くように、勇士よ、まさしく、彼(敵)のいるところ、そこへと去り行きなさい。〔ここには〕戦いのための〔縁[よすが]である〕これ〔という思い、すなわち、『これだけが、真理である』と主張するための『これ』〕は、すでにもう、存在しないのです。
832
〔特定の〕見解を執持して論争し、そして、『これだけが、真理である』と説く者たち−−彼らに、あなたは、〔このように〕説きなさい。『諸々の論が生じても、あなたたちにたいし、敵対〔の思い〕を為す者は、まさに、ここには存在しない』〔と〕。
833
また、〔一切にたいし〕敵対〔の思い〕を為すことなくして行じおこない、諸々の見解によって見解(ものの見方)を遮られない者たち−−彼らのうちに、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたもの(特定の見解)が存在しないなら−−パースラさん、彼らにたいし、あなたは、何を得るというのでしょう。
834
しかして、あなたは、意[こころ]で悪しき見解を思い考えながら、〔何ものかを〕尋ね求めて〔わたしのところに〕やってきました。〔そして、あなたは〕清き者(ブッダ)とともに〔論争という〕軛[くびき]を〔身に〕付けました。まさに、あなたは、〔それがために〕進み行くことができないでありましょう」〔と〕。

 第九経 マーガンディヤ

835
〔世尊は言った〕「渇愛、不満、貪欲と、〔これら、三人の魔女〕を見て、〔わたしには〕淫欲(性交)にたいする欲〔の思い〕さえも、有りませんでした。この、糞尿に満ちたものが、まさしく、何だというのでしょう。足でさえも、それに触れることを求めません」〔と〕。
836
〔マーガンディヤが尋ねた〕「もし、〔あなたが〕このような宝を求めないなら、〔すなわち〕多くの人間〔界〕のインダ(インドラ神)たち(多くの国王たち)に切望された女性〔という宝〕を〔求めないなら〕、〔あなたは〕悪しき見解、戒や掟に生〔のあり方〕、そして、〔迷いの〕生存への再生について、どのようなものと説くのですか」〔と〕。
837
世尊は〔答えた〕「マーガンディヤさん、『〔わたしは〕これを説く』という〔執着は〕、彼(ブッダ)には有りません。〔彼は〕諸々の法(もの・こと)のうちに、〔執着の対象として〕執持されたもの(悪しき法)を、〔正しく〕弁別するでありましょう。また、諸々の見解について〔あるがままに〕見ている者は、〔それらを〕執持せずして、〔正しく〕弁別しつつ、内なる寂静を見たのです」と。
838
マーガンディヤが〔尋ねた〕「牟尼よ、〔前もって『こうである』と〕想い描かれた諸々の〔思い〕があり、〔それらにたいする〕諸々の〔断定的〕結論があります。それらを執持せずして、まさに、〔あなたは〕『内なる寂静』という、この義(意味)を説きます。いったい、その〔内なる寂静〕は、慧者たちによって、どのように〔告げ〕知らされたのですか」と。
839
世尊は〔答えた〕「マーガンディヤさん、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知識によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。〔逆に〕見解なきによって、伝承なきによって、知識なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです。そして、これらを放棄し、執持せずして、〔心が〕寂静となり、〔何ものにも〕依存せずして、〔迷いの〕生存を渇望しないのです」と。
840
マーガンディヤが〔言った〕「もし、〔あなたが〕言うように、見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知識によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わ〔ない〕なら、〔逆に〕見解なきによって、伝承なきによって、知識なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら、わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです。或る者たちは、見解によって清浄を〔認知し〕信受します」と。
841
世尊は〔答えた〕「マーガンディヤさん、しかして、〔あなたは〕見解(特定の主義・主張)に依存して尋ねているのです。諸々の執着のうちで迷妄へと陥り、しかして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕表象(想:認識対象を表象し概念化する働き)を、微塵でさえも見なかったのです。それゆえに、あなたは、〔わたしの法を〕『迷愚である』と決め付けるのです。
842
『等しい』『勝る』、あるいはまた、『劣る』〔と、種々に〕思いなす者−−彼は、その〔思い〕によって〔他者と〕論争するでありましょう。〔しかしながら、これらの〕三種類について〔心が〕不動であるなら、彼には、『等しい』『勝る』という〔思いは〕有りません。
843
〔真の〕婆羅門たる彼は、『〔これこそが〕真理である』と、〔いったい〕何を説くというのでしょう。あるいは、彼は、『〔それは〕虚偽である』と、何によって論争するというのでしょう。さらにまた、彼のうちに、『等しい』『等しくない』〔という思い〕が存在しないなら、彼は、何によって論に関わるというのでしょう。
844
家を捨てて、家なくして行く者−−牟尼は、村において、諸々の親愛〔の情〕(愛着の思い)を為しません。諸々の欲望〔の対象〕を捨て去った者は、〔もはや、それらを特別のものとして〕偏重しないのです。〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言葉を為すことはないでしょう。
845
それら(諸々の悪しき見解)から遠離した者として、世を渡り歩くなら、龍(牟尼)は、それらを執持して説くことはないでしょう。汚水に生える、荊ある水蓮が、水や泥に汚されないように、このように、寂静〔の境地〕を説き、貪欲なき牟尼は、欲望〔の対象〕にも、世〔間〕にも、汚されないのです。
846
〔真の〕知に達した者は、見解によって、〔高慢の思いに至ることが〕ありません。彼は、思想によって、高慢の思いに至ることがありません。なぜなら、彼は、それに関わらないからです。〔特定の宗教的〕行為(業)によって〔導かれ〕ず、また、〔他者からの伝え聞きでしかない〕聞かれたものによっても導かれません。彼は、〔諸々の妄執が〕固着する場に連れて行かれないのです。
847
〔誤った〕表象(想:認識対象を表象し概念化する働き)が離染した者には、〔人を縛る〕諸々の拘束は存在しないのです。知慧によって解脱した者には、〔人を惑わす〕諸々の迷妄は存在しないのです。〔特定の〕表象やら見解やらを掴み取った者たち−−彼らは、〔互いに〕対立しながら、世を渡り歩くのです」と。

 第十経 変壊の前に

848
〔対話者が尋ねた〕「どのように見る者が、どのように戒〔を守る者〕が、『寂静者』と呼ばれるのですか。ゴータマ(ブッダ)よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに、その、最上の人のことを説いてください」〔と〕。
849
世尊は〔答えた〕「〔身の〕変壊(死)の前に、渇愛〔の思い〕を離れ、過去〔の記憶〕に依存せず、〔過去と未来の〕中間(現在)において〔虚妄の思いで〕形成されない者−−彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません。
850
憤怒[いかり]なく、畏怖[おそれ]なく、誇らず、悔やまず、智慧によって語り、〔心が〕浮つかない者−−まさに、彼は、言葉を制した牟尼(沈黙の聖者)です。
851
未来について執着なき者は、過去を憂いません。諸々の接触(触:感覚・経験)や見解について遠離を見る者は、〔もはや、何ものにも〕導かれません。
852
〔欲望の対象から〕退去し、虚言なく、羨望〔の思い〕なく、物惜しみ〔の思い〕なき者は、尊大ならず、〔他者を〕忌避せず、また、〔他者の〕中傷に陥る者でもありません。
853
諸々の快[たのしみ]に溺れない者は、しかして、増慢に陥る者でもありません。また、こころ優しく、応答自在の者は、信仰なく、離染しません(今に生きる者は、限定された特定の信仰を持たず、無執着の者には、離染という行為自体が存在しない)。
854
利得(行乞の施物)を欲して学ばず、また、利得がなくても怒りません。そして、〔他者の道を〕遮らない者(他者にたいし敵意なき者)は、諸々の味についても、渇愛の〔思い〕で貪りません。
855
〔愛憎の思いを〕放捨し、常に気づきある者は、世において、〔自己と他者について〕『等しい』と思いません。『勝る』〔とも思い〕ません。『より劣る』〔とも思い〕ません。彼には、諸々の増長〔の思い〕は存在しません。
856
彼に、〔他にたいし〕依存〔の思い〕が存在しないなら、法(真理)を知って、依存なき者となります。彼に、〔迷いの〕生存への〔渇愛の思い〕、あるいは、〔迷いの〕生存から離れることへの渇愛〔の思い〕が見出されないなら−−
857
〔わたしは〕彼を、諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を、『寂静者』と説きます。彼に、諸々の拘束は見出されません。彼は、執着〔の思い〕を超えたのです。
858
彼に、子供たちや家畜たちは〔見出され〕ません。あるいは、田畑や地所も見出されません。あるいはまた、〔執着の対象として〕執取されたものも、あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものも、彼においては、〔対象として〕認められないのです。
859
そこで、〔世の〕凡夫たちや、そして、沙門や婆羅門たちが、彼のことを〔種々に〕説くであろうが、そのことは、彼にとって偏重されることではありません。それゆえに、〔世にはびこる〕諸々の論にたいし、〔いささかも〕動じないのです。
860
貪りを離れ、物惜しみ〔の思い〕なき牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。〔計測され概念化した〕時間(時計の時間・分別妄想・輪廻的あり方)のうちに〔存在し〕ない者は、〔計測され概念化した〕時間に至らない(輪廻しない・妄想しない)のです。
861
世において、彼に、自らのもの〔という思い〕が存在しないなら、しかして、〔彼は〕所有するものがないので、憂い悲しまず、また、諸々の法(もの・こと)に〔思いが〕行かず、まさに、彼は、『寂静者』と呼ばれます」と。

 第十一経 紛争と論争

862
〔対話者が尋ねた〕「諸々の紛争と論争は、何を〔縁として〕生起したのですか。また、諸々の物惜しみ〔の思い〕と共にある諸々の嘆きと憂い、そして、諸々の中傷と共にある諸々の高慢と増慢、それらは、何を〔縁として〕生起したのですか。どうか、それを説いてください」〔と〕。
863
〔世尊は答えた〕「諸々の紛争と論争は、愛しきもの(自己中心的な愛着や愛執の対象)を〔縁として〕生起しました。また、諸々の物惜しみ〔の思い〕と共にある諸々の嘆きと憂い、そして、諸々の中傷と共にある諸々の高慢と増慢、〔それらもまた、愛しきものを縁として生起しました〕。諸々の紛争と論争は、諸々の物惜しみ〔の思い〕に束縛され、しかして、〔他者とのあいだで〕諸々の論争が生じたとき、〔諸々の物惜しみの思いが有るため、他者にたいする〕諸々の中傷と〔成るのです〕」〔と〕。
864
〔対話者が尋ねた〕「世における諸々の愛しきもの(自己中心的な愛着や愛執の対象)は、いったい、何を縁として〔生起したのですか〕。あるいはまた、世を渡り歩く諸々の貪欲は、〔何を縁として生起したのですか〕。未来〔という概念〕のために人に有るもの、〔すなわち〕諸々の願望と目標とは、何を縁として〔生起したのですか〕」〔と〕。
865
〔世尊は答えた〕「諸々の欲〔の思い〕を縁として、世における諸々の愛しきもの(自己中心的な愛着や愛執の対象)は〔生起しました〕。あるいはまた、世を渡り歩く諸々の貪欲も、〔欲の思いを縁として生起しました〕。未来〔という概念〕のために人に有るもの、〔すなわち〕諸々の願望と目標とは、これ(欲の思い)を縁として〔生起しました〕」〔と〕。
866
〔対話者が尋ねた〕「世における欲〔の思い〕は、いったい、何を縁として〔生起したのですか〕。あるいはまた、〔世の人々が下す〕諸々の〔断定的〕結論は、何を〔縁として〕生起したのですか。あるいはまた、〔世の迷える〕沙門によって説かれた〔悪しき〕諸法(もの・こと)である、怒りと虚偽の言葉と疑い〔の思い〕は、〔何を縁として生起したのですか〕」〔と〕。
867
〔世尊は答えた〕「『世における快と不快−−その〔二者〕に依存して、欲〔の思い〕が生起する』と〔慧者たちは〕言います。世において、人は、諸々の形態(色:妄想によって固定され実体化した形相)のうちに、〔表象として顕現した〕虚無(非有:無)と実体(有:存在)〔だけ〕を見て、〔断定的〕結論を為すのです。
868
怒りと虚偽の言葉と疑い〔の思い〕−−これらの〔悪しき〕諸法(もの・こと)もまた、まさしく、〔快と不快の〕二者(概念的二項対立図式)を〔縁として〕存在しているのです。疑いある者は、知識の道(妄想によって固定され断片化した学問知識)に学ぶもの。〔このように〕知って、〔これらの悪しき〕諸法(もの・こと)は、〔世の迷える〕沙門によって説かれたのです」〔と〕。
869
〔対話者が尋ねた〕「快、および、不快〔の二者〕は、何を縁として〔生起したのですか〕。何が存在していないとき、これらのものは、まさに、有りえないのですか。さらにまた、虚無(非有:無)と実体(有:存在)という、この義(無と有の概念的二項対立)は、何を縁として〔世に有るのか〕を、このことを、わたしに説いてください」〔と〕。
870
〔世尊は答えた〕「接触(触:妄想によって固定され断片化した感覚・経験)を縁として、快と不快〔の二者〕が〔生起しました〕。接触(触)が存在していないとき、これらのものは、まさに、有りえないのです。さらにまた、虚無(非有)と実体(有)という、この義(無と有の概念的二項対立)は、これ(接触)を縁として〔世に有ること〕を、このことを、あなたに説きます」〔と〕。
871
〔対話者が尋ねた〕「接触(触:妄想によって固定され断片化した感覚・経験)は、世において、いったい、何を縁として〔生起したのですか〕。あるいはまた、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、何を〔縁として〕生起したのですか。何が存在していないとき、我執は存在しないのですか。何が実体〔というあり方〕を離れたとき、諸々の接触(感官機能の対象)は、〔諸々の感官機能と〕接触しないのですか」〔と〕。
872
〔世尊は答えた〕「名前(名:妄想によって固定され概念化した言葉)と形態(色:妄想によって固定され実体化した形相)と〔その二者〕を縁として、諸々の接触(触:感覚・経験)が〔生起しました〕。諸々の欲求(潜在的な心の衝動)を縁として、諸々の執持〔の対象〕(所有物)が〔生起しました〕。欲求が存在していないとき、我執は存在しません。形態(色)が実体〔というあり方〕を離れたとき、諸々の接触(感官機能の対象)は、〔諸々の感官機能と〕接触しません」〔と〕。
873
〔対話者が尋ねた〕「どのように行知した者の形態(色:妄想によって固定され実体化した形相)が消滅するのですか。あるいはまた、楽と苦は、どのようにして消滅するのですか。このことを、〔それが〕消滅するとおりに、わたしに説いてください。わたしの意[こころ]は言います−−『〔わたしたちは〕それを知りたいのです』と」〔と〕。
874
〔世尊は答えた〕「想いのままに想う者でなく、想いを離れて想う者でなく、また、想いなき者でなく、実体〔というあり方〕を離れて想う者でなく、このように行知した者の形態(色:妄想によって固定され実体化された形相)は消滅します。なぜなら、諸々の表象作用(想:認識対象を表象し概念化する働き)を縁として、諸々の虚構(戯論:分別妄想)の名称(世界認識の道具として虚構された概念)が〔存在しているにすぎない〕からです」〔と〕。
875
〔対話者が尋ねた〕「〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことを、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました。〔今度は、あなたが最後に説き示された形態の消滅というあり方とは〕他のものについて、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください。
 まさに、或る賢者たちは、いったい、これだけで〔すなわち、形態の消滅というあり方だけでもって〕、魂の、この〔世における〕至高の清浄を説くのですか。あるいはまた、これ(形態の消滅)とは他のものを説くのですか」〔と〕。
876
〔世尊は答えた〕「まさに、或る賢者たちは、また、これだけで〔すなわち、形態の消滅というあり方だけでもって〕、魂の、この〔世における〕至高の清浄を説きます。いっぽうで、彼らのなかの或る者たちは、〔これとは他の〕教義を説き、『〔生存の〕依り所(身体)が無い者たちが、智者である』〔と〕説いています。
877
しかしながら、〔牟尼は〕『これらの者は、〔いまだ〕依存ある者たちである』と知って−−〔すなわち〕考察者にして牟尼たる彼は、〔彼らの〕諸々の依存〔の思い〕を知って−−〔しかして〕解脱者は、〔彼らの依存あるあり方を〕知って−−論争に至らないのです。〔そのように知り見る、真の〕慧者は、種々なる生存のために行知することがありません(彼は、輪廻を超脱する)」〔と〕。

 第十二経 小さなまとまり

878
〔対話者が尋ねた〕「互いに自ら〔各自の〕見解に固着する者たちは、〔自らの見解に〕種々に執持して、〔自らを〕『智者である』〔と〕説きます。『このように知る彼は、法(真理)を知っている』『このことを非難している彼は、全一者ではない』〔等々と〕。
879
また、このように、〔世の自称智者たちは、自らの見解に〕固執して論争します。そして、『他者は、愚者である。智者ではない』と言います。いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか。まさに、これらの者たちは、まさしく、〔その〕全てが、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」〔と〕。
880
〔世尊は答えた〕「もし、他者の法(見解)を承認しないでいる者が、知慧の劣る愚者と〔成り〕、獣愚の者と成るなら、まさしく、全ての者は、知慧の極めて劣る愚者と〔成ります〕。まさしく、全ての者は、これらの見解に〔各人各様に〕固着しているのです。
881
いっぽうで、もし、自らの見解によって、清浄と〔成り〕、清浄の知慧ある者と〔成り〕、智者と〔成り〕、思慧ある者と〔成る〕なら、彼らのうちに、知慧の遍く劣る者は、誰もいなくなります。なぜなら、〔自らの見解という点で〕彼らの見解は、また、そのように、〔彼にとってだけは〕完全であるからです。
882
愚者たちは、互いに他と敵対して、〔『これは、真実である』と〕言うのですが、わたしは、〔断定的かつ限定された言い方で〕『これは、真実である』と説くことが、まさしく、ないのです。〔愚者たちは〕互いに自らの見解〔だけを〕を、真理と為したのですが、それゆえに、まさに、他者を『愚者である』と決め付けるのです」〔と〕。
883
〔対話者が尋ねた〕「或る者たちが、『真理である。真実である』と言うなら、それを、他者たちは、『虚妄である。虚偽である』と言います。また、このように、〔世の迷える沙門たちは、異なる見解に〕執持して〔互いに〕論争します。何ゆえに、沙門たちは、ひとつのことを説かないのですか」〔と〕。
884
〔世尊は答えた〕「覚知している人々が、それについて論争しないなら、まさに、真理はひとつです。第二のものは存在しません。〔しかしながら、覚知していない〕彼ら(迷える沙門たち)は、諸々の真理を、種々に、自ら〔自分勝手に、『これこそは、真理である』と〕騒ぎ立てるのです。それゆえに、〔世の迷える〕沙門たちは、ひとつのことを説かないのです」〔と〕。
885
〔対話者が尋ねた〕「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いている、論争好きの者たちは、いったい、何ゆえに、諸々の真理を、種々に説くのですか。種々に〔異なる〕多くの真理は、〔伝え聞きとして〕聞かれたもの(受け売りの知識)ですか、あるいは、彼らが〔自己の〕説を〔独善的に『真理である』と〕思い込む〔だけのことですか〕」〔と〕。
886
〔世尊は答えた〕「種々に〔異なる〕多くの真理は、世において、『常住である』〔と盲信された虚妄の〕想い(想:表象・概念)より他には、まさしく、まさに、〔存在し〕ないのです。しかして、〔彼らは〕諸々の見解のうちに〔自己の〕説を想い描いて、『〔自説は〕真理である。〔他説は〕虚偽である』と、二つの法(見解)を言います。
887
〔他者を〕軽侮して見る者は、さらには、これら、諸々の見られたものと聞かれたものと思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)に、あるいは、諸々の戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教的行為)に依存して、〔他者を〕嘲笑しつつ、諸々の〔断定的〕結論(自己顕示の道具としての主義・主張)に立脚して、しかして、『他者は愚者である。智者ではない』と言います。
888
〔彼は〕他者を『愚者である』と決め付けることで、まさしく、それによって、しかして、自己を『智者である』と言います。自己によって、自ら、『智者である』〔と、独善的に〕説いている彼は、まさしく、そのように〔独善的に〕説き、〔一方的に〕他者を軽侮します。
889
錯誤ある見解によって、〔自らを〕『完全である』〔と見る〕彼は、高慢〔の思い〕で驕慢した者、〔自らについて〕『完成された』と高慢する者です。まさしく、自ら、自らについて、意[こころ]で灌頂[かんじょう]している(王位に就けている)のです。なぜなら、彼にとって、その見解は、そのように、〔彼にとってだけは〕完全であるからです。
890
もし、まさに、他者の言葉によって、〔人が〕劣る者と〔成る〕なら、〔その他者〕自身も、〔別の他者の言葉によって〕共に知慧の劣る者と成ります。また〔逆に〕、もし、自ら〔自分勝手に〕、〔真の〕知に達した慧者と〔成る〕なら、誰であれ、沙門たちのうちに、愚者は存在しなくなります。
891
『これ(自説)より他の法(見解)を宣説する者たち−−〔彼らは〕清浄に違背し、全一者ではない』〔と〕、まさに、このように、異教の者たちは、個々〔それぞれ〕に〔自説を〕説きます。まさに、彼らは、自らの見解にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちです。
892
〔彼らは〕『ここ(自説)だけに、清浄がある』と説きます。他者たちの諸々の法(見解)のうちに、清浄を言いません。また、このように、個々〔それぞれ〕に〔思いが〕固着した異教の者たちは、そこに、自らの道について、断固として〔自らの正しさを〕説いているのです。
893
あるいはまた、自らの道について、断固として〔自らの正しさを〕説いている者は、どうして、ここに、他者を『愚者である』と決め付けることができましょう。他者のことを、不浄の法(見解)ある愚者と説いている彼は、まさしく、自ら、〔他者とのあいだに〕確執をもたらすでありましょう。
894
〔断定的〕結論に立拠して、自ら、〔独善的に〕思い量って、その上で、彼は、世において、〔無益な〕論争へと至るのです。〔しかしながら〕一切の〔断定的〕結論を捨てて、人は、世において、〔一切にたいし〕確執を為さないのです」〔と〕。

 第十三経 大きなまとまり

895
〔世尊は言った〕「誰であれ、これらの者たち−−〔各自の〕見解に固着しながら、『これ(自説)だけが、真理である』と〔独善的に〕論争する者たち−−彼らは、まさしく、〔その〕全てが、〔他者からの〕非難を招き寄せます。しかしてまた、そこに、〔一部の〕賞賛を得るにしても。
896
まさに、この〔賞賛〕は、僅かです。〔心の〕静けさ〔を得る〕には、十分ではありません。〔わたしは〕論争の結果を、〔非難と賞賛の〕二者〔だけ〕と説きます。また、このことを見て、無論争の境地を平安と観ている者は、〔無益な〕論争はしないものなのです。
897
何であれ、これら、諸々の凡俗なる主義(世俗:通念化した特定の世界観)は、まさしく、これらの全てに、知ある者は近づかないのです。見られたものと聞かれたものについて愛着〔の思い〕を為さずにいる者が、〔特定の見解に〕近づかない彼が、いったい、どうして、〔特定の見解に〕近づく者のところへと行けましょう。
898
〔与えられた〕戒を最上とし、〔守るべき〕掟を受持して、〔特定の宗教的行為に〕奉仕している者たちは、〔形だけの〕自制によって、清浄を言います。『この〔世において〕こそ、〔わたしたちは〕学ぶべきだ』、しかして、『〔いまここにこそ〕清浄は存すべきだ』〔などと、自らを〕『智者である』〔と〕説きつつ、〔結局は、迷いの〕生存へと連れて行かれたのです。
899
もし、戒や掟から離れた者と成るなら、彼は、〔為すべき宗教的〕行為(業)を失って、動揺します。彼は、〔皮肉にも、彼の言葉のとおり〕この〔世において〕清浄を渇望し、切望します−−家から離れ、〔そのうえ、共に旅する〕隊商から捨てられた者のように。
900
あるいはまた、〔比丘は〕一切の戒や掟を捨てて、さらには、罪を有するものも罪なきものも、この、〔宗教的〕行為(業)を〔捨てて〕、『〔これは〕清浄、〔あれは〕不浄』と切望せず、〔一切の執着を〕離れた者となり、寂静について〔さえも〕執持せずして、行じおこなうでありましょう。
901
あるいは、苦行に依存して、〔排除の対象として〕忌避されたものを、しかして、あるいはまた、見られたものを、あるいは、聞かれたものを、あるいは、思われたものを、種々なる〔迷いの〕生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられない者たちは、声高に清浄と唱えます。
902
〔何ものかを〕切望している者には、まさに、諸々の渇望されたもの(欲望の対象)があります。さらにまた、諸々の想い描かれたもの(妄想)にたいする動揺があります。彼に、この〔世において〕、死滅と再生〔の両者〕が存在しないなら、彼は、何に動揺するというのでしょう。また、どこに、〔何を〕渇望するというのでしょう」〔と〕。
903
〔対話者が尋ねた〕「或る者たちは、〔自らの〕法(見解)を『最高である』と言い、いっぽうで、他者たちは、まさしく、その〔同じ法〕を『劣る』と言います。いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか。まさに、これらの者たちは、まさしく、〔その〕全てが、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」〔と〕。
904
〔世尊は答えた〕「まさに、〔彼らは〕自らの法(見解)を、完成されたものと言い、いっぽうで、他者の法(見解)を、劣るものと言います。また、このように、〔自らの法に〕執持して〔互いに〕論争し、互いに自らの〔各自の〕主義(世俗:通念化した特定の世界観)を、真理と言います。
905
もし、他者から誹られたことで、〔或る法が〕劣るものと〔成る〕なら、諸々の法(見解)のうちで、勝るものは、何であれ、存在しないでありましょう。なぜなら、〔彼らは〕個々〔それぞれ〕に、自ら〔の法〕について、断固として〔自らの正しさを〕説きつつ、他者の法(見解)を、『劣っている』と説くからです。
906
また、いっぽうで、自らの道を賞賛するように、まさしく、そのように、自らの法(見解)を〔清浄なるものとして〕供養する(信奉する)なら、まさしく、全ての論が、まさしく、そのように、〔賞賛されるものと〕成りましょう。なぜなら、彼らにとって〔自己の論は〕、まさしく、各自それぞれに清浄であるからです。
907
〔真の〕婆羅門(人格完成者)には、他者に導かれるということ〔自体〕が存在しないのです。諸々の法(もの・こと)のうちに、〔執着の対象として〕執持されたもの(悪しき法)を、〔正しく〕弁別するでありましょう。それゆえに、〔彼は〕諸々の論争を超克した者となります。なぜなら、〔彼は〕他者の法(見解)を『勝る』と見ないからです。
908
『この〔清浄の境地〕を、まさしく、そのとおりに、〔わたしは〕知り、見る』〔などと、受け売りの〕見解によって、或る者たちは、〔外に見られた形だけの〕清浄を盲信します。もし、〔他者である彼が〕見たとして、そのことが、〔あなた〕自身にとって、まさに、何になるというのでしょう。〔道を〕外れて、〔彼らは〕他のもの(受け売りの見解)によって、清浄を説くのです。
909
〔貪欲の思いに眩まされて〕見ている人は、名前と形態(名色:現象世界)を〔『常住である』と〕見ます。あるいは、〔そのように〕見て、まさしく、それら(名前と形態)を〔『常住である』と〕了知するでありましょう。〔迷える者は〕欲するままに、多くを見よ−−あるいは、少なくを。なぜなら、〔真の〕智者たちは、それ(誤ったものの見方)によって、清浄を説かないからです。
910
〔特定の見解に〕固着して説く者は、まさに、〔真の〕清浄へと導く者ではありません。〔執着の対象として〕想い描かれた〔特定の〕見解を偏重している者です。〔何ものかに〕依存する者は、そこ(自説)において、〔自己の依存するものについて〕『美しい(価値がある)』〔と、独善的に〕説いているのです。〔自己だけの〕清浄を説く者として、彼は、そこにおいて、そのとおり、〔彼だけの清浄を〕見たのです。
911
〔真の〕婆羅門は、〔虚構の〕名称(概念)に〔近づかず〕(名付けを離れた存在となる)、〔計測され概念化した〕時間に近づきません(輪廻しない・妄想しない)。見解に走り行く者ではなく、また、知識の眷属(知識に結縛された者)でもありません。そして、彼は、諸々の凡俗なる主義(世俗:通念化した特定の世界観)を知って、〔それらを〕放捨します−−他者たちは、〔各自の見解に、各人各様に〕執持しているのですが。
912
牟尼(沈黙の聖者)は、この世における諸々の拘束を捨てて、論争が生じても、〔特定の〕党派に走り行く者ではありません。彼は、寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で、〔諸々の主義・主張を〕放捨していて、〔特定の見解を〕執持することがありません−−他者たちは、〔各自の見解に、各人各様に〕執持しているのですが。
913
過去の諸々の煩悩を捨てて、〔現に生じつつある〕諸々の新しい〔煩悩〕には〔執着の思いを〕為さずにいる者−−〔彼は〕欲〔の思い〕に行く者ではありません。また、〔特定の見解に〕固着して説く者でもありません。彼は、諸々の悪しき見解から解き放たれた、〔真の〕慧者です。自己を難じることなき者は、世において、〔何ものにも〕汚されません。
914
あるいは、見られたもの、あるいは、聞かれたものと思われたもの、何であれ、彼は、一切の諸法(もの・こと)にたいし、敵対という有り方を離れています。〔生の〕重荷を降ろした彼は、牟尼であり、〔生の〕束縛を離れた者です。〔計測され概念化した〕時間(時計の時間・分別妄想・輪廻的あり方)のうちになく、〔さりとて、まったくの〕滅止ではなく、〔何ものも〕切望しません」〔と〕。
 かくのごとく、世尊は〔語った〕。

 第十四経 迅速

915
〔対話者が尋ねた〕「太陽の眷属にして偉大な聖賢である、あなた(ブッダ)に、遠離について、そして、寂静の境地について、尋ねます。比丘は、どのように見て、涅槃に到達するのですか−−何であれ、世において、執取することなく」〔と〕。
916
世尊は〔答えた〕「虚構(戯論:分別妄想)の名称(世界認識の道具として虚構された概念)の根元を、『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、智慧によって、破壊するように。何であれ、内に、渇愛〔の思い〕があるなら、それらを取り除くため、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。
917
しかして、内に、あるいはまた、外に、何であれ、法(もの・こと)を〔あるがままに〕証知するように。〔ただし〕それによって、強がり(力の誇示)を為さないように。なぜなら、〔高慢の思いは〕正しくある者たちの説く、かの、寂滅〔の境地、すなわち、涅槃〕ではないからです。
918
それによって、〔他者より〕『より勝る』〔と〕思わないように。しかして、『より劣る』〔とも〕、あるいはまた、『等しい』〔とも思わないように〕。〔自己について〕無数の形態で尋ねられても、自己について〔あれこれと〕想い描くことなく、〔自己を〕安立するように(自己を執着の対象として妄想しない)。
919
比丘は、内こそを、寂止するように。他のものから〔生起した、虚妄の〕寂静を求めないように。内に寂静なる者に、〔執着の対象として〕執取されたものは存在しません。あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが、どうして、ありましょう。
920
海の中では波が立たず、〔全てが〕安立して有るように、このように、安立し、不動の者として存するように。比丘は、どこにおいても、増長〔の思い〕を為さないように」と。
921
〔対話者が尋ねた〕「開かれた眼[まなこ]の方よ、〔あなたは〕述べ伝えてくれました−−自ら体現した、危難を取り除く法(教え)を。あなたに、幸せ〔有れ〕。〔幸いなる人よ、どうか、わたしに〕道を説いてください。しかして、戒め(波羅提木叉)を〔説いてください〕。あるいはまた、〔心の〕統一(定:三昧の境地)についても〔説いてください〕」〔と〕。
922
〔世尊は答えた〕「諸々の眼〔で見られたもの〕による〔心の〕動転が、まさしく、存さないように。村の言葉(卑俗な話)から、耳を遠ざけるように。また、味について、貪り求めないように。そして、世において、何であれ、わがものと〔錯視〕しないように。
923
〔病いに〕罹[かか]り〔飢えに〕襲われた者として存するとき、比丘は、どこにおいても、嘆き悲しみ〔の思い〕を為さないように。また、〔迷いの〕生存を渇望しないように。そして、諸々の恐ろしいことに動揺しないように。
924
しかして、諸々の食べ物や飲み物を〔得ても〕、しかしてまた、諸々の固形の食料や衣を得ても、蓄積[たくわえ]を為さないように。また、それらを得ないでいても、思い悩まないように。
925
瞑想者は、〔物欲しそうに〕足を運ぶ者(必要以上の施しを望む強欲の者)として存さないように。悔い〔の思い〕を離れるように。〔常に気づきを〕怠らないように。しかして、比丘は、騒音の少ない諸々の坐〔所〕と臥〔所〕に住するように。
926
眠りを多く為さないように。熱情ある者として、〔眠ることなく〕起きていることに慣れ親しむように。倦怠、幻想、笑話、遊興、淫欲を、〔身を〕飾り立てることと共に、捨て去るように。
927
魔術、夢〔占い〕、特相〔占い〕、しかしてまた、星〔占い〕に関わらないように。また、わたしにしたがう者は、〔動物の〕叫び声〔による占い〕、懐妊術、医術に親しまないように。
928
〔他者の〕非難にたいし、動揺しないように。比丘は、〔他者から〕賞賛されて、傲慢にならないように。物惜しみ〔の心〕と共にある貪り〔の思い〕を〔除くように〕。〔他者への〕怒りと中傷〔の思い〕を除くように。
929
〔生活を〕売買[うりかい]に立脚しないように。比丘は、どこにおいても、悪態〔の言葉〕を為さないように。また、村において、面倒を起こさないように。利得(行乞の施物)を欲して、人と話をしないように。
930
また、比丘は、自慢する者として存さないように。そして、放埒[でまかせ]の言葉を語らないように。尊大に学ばないように。争議[ののしりあい]の言葉を発しないように。
931
虚偽の言葉に導かれないように。正知の者は、諸々の狡猾[あこぎ]なことを為さないように。しかして、〔相手の〕寿命[とし]によって、知慧によって、戒や掟によって、他者を軽んじないように。
932
種々の言葉ある者たちや〔迷える〕沙門たちの、多くの〔悪しき〕言葉を聞いて、傷つけられた〔比丘〕は、彼らにたいし、粗暴〔の言葉〕でもって言い返さないように。なぜなら、正しくある者たちは、〔他者にたいし〕敵対〔の思い〕を為さないからです。
933
また、この法(教え)を了知して、〔法を、正しく〕弁別する比丘は、常に気づきの者として、〔怠ることなく〕学ぶように。寂滅〔の境地、すなわち、涅槃こそ〕を、『〔真の〕寂静である』と知って、ゴータマ(ブッダ)の教えにおいて怠らないように。
934
まさに、彼(ブッダ)は、〔自己を〕征服する者。〔他者に〕征服される者ではありません。〔彼は〕自ら体現した、伝え聞きでない、〔真実の〕法(真理)を見たのです。それゆえに、まさに、世尊である彼の教えにおいて、〔気づきを〕怠ることなく、常に〔彼を〕礼拝しながら、〔彼に〕学ぶように」〔と〕。
 かくのごとく、世尊は〔語った〕。

 第十五経 棒を取ること

935
〔対話者に、世尊は答えた〕「〔人を傷つける目的で〕棒を取ることから、恐怖が生まれました。見よ−−確執ある人を。わたしが〔世の苦しみを〕畏怖したとおりに、〔まさにその〕畏怖〔の思い〕を、〔あなたに〕述べ伝えましょう。
936
水が少ない〔流れ〕のなかにいる魚たちのように震えおののいている人々を見て、互いに他の者たちと反対〔し合い、反目し合うの〕を見て、恐怖〔の思い〕が、わたしを侵した。
937
世〔界〕は、どこも皆、真髄なく〔常住ならざるもの〕。一切の方角は、動揺し〔常住ならざるもの〕。自己の居所を求めつつ、〔苦しみに〕取り憑かれていないところを、〔ついに〕見ませんでした。
938
しかしながら、まさしく、最後には、〔自己の願い求めるところと〕反対〔の結果になるの〕を見て、わたしに、満たされない〔思い〕が有りました。しかして、ここに、心を依り所とする、〔凡夫には〕見難き矢を見たのです。
939
矢に貫かれた者は、一切の方角へと走ります。まさしく、その矢を引き抜いて、〔貪りの思いで〕走らず、〔欲の激流に〕沈みません。
940
そこで、諸々の学び〔のあり方〕が、〔以下に〕随説されます。
 世における、諸々の拘束されたもの(欲望や執着の対象)−−それらを追い求める者として存さないように。諸々の欲望〔の対象〕を全て厭離して、自己の涅槃を学ぶように。
941
真理〔の者〕は、尊大ならず、幻想[ごまかし]なく、中傷〔の思い〕を捨てた者として存するように。怒りなき牟尼となり、貪りの悪と物欲〔の心〕を超え渡るように。
942
眠気、倦怠、〔心の〕沈滞[おちこみ]を、打ち負かすように。怠り(放逸)と共に住まないように。涅槃の意ある人は、増慢〔の思い〕に安立しないように。
943
虚偽の言葉に導かれないように。形姿にたいし、愛執〔の心〕を為さないように。また、高慢〔という心のあり方〕を知り尽くすように。無理強いすること(暴力)から離れて行じおこなうように。
944
古いものを喜ばないように。新しいものに愛着〔の思い〕を為さないように。失われつつあるものを憂い悲しまないように。虚空[うつろなもの]に依存する者として存さないように。
945
〔わたしは〕貪欲〔の思い〕を、『大いなる激流』と説きます。〔欲望の〕奔流と渇望〔の思い〕を、〔欲望の〕対象(所縁:欲望の対象として想い描かれた認識対象)と〔対象の〕妄想(遍計:認識対象を欲望の対象として想い描く心の働き)を、『超え難き欲望の汚泥』〔と〕説きます。
946
牟尼は、真理から外れず、〔真の〕婆羅門は、高き地に立ちます。彼は、一切を放棄して、まさに、彼は、『寂静者』と呼ばれます。
947
まさに、彼は、知ある者です。彼は、〔真の〕知に達した者です。法(真理)を知って、依存なき者と〔成ります〕。彼は、世において正しく振る舞う者です。この〔世において〕、誰をも羨みません。
948
この世における、諸々の欲望〔の対象〕と超え難き執着〔の思い〕を超え渡った者−−〔渇愛の〕流れを断ち、結縛なき彼は、〔もはや、何ものも〕憂わず、悩みません。
949
過去にあるもの−−それを、干上がらせなさい。未来においては、何ものも、あなたにとって、有ってはなりません。もし、〔その〕中間(現在)において、〔何ものも〕掴み取らないなら、〔あなたは〕寂静の者として、行じおこなうでありましょう。
950
彼に、名前と形態(名色:現象世界)について、わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)が、全く存在しないなら、しかして、〔彼は〕所有するものがないので、憂い悲しまず、まさに、彼は、世において、〔何ものも〕失いません。
951
彼にとって、『これは、わたしのものである』という〔思いが〕、あるいはまた、『〔これは〕他者たちのものである』〔などの思いが〕、何ものも存在しない者−−彼は、〔自らの心中に〕我執〔の思い〕を見出さず、『わたしには、〔何ものも〕存在しない』と憂い悲しむことがありません。
952
冷酷ならず、貪欲ならず、〔心が〕不動で、一切所で〔一切にたいし〕等しくあります。動揺なき者について、〔問いを〕尋ねられた者として、その利徳を、〔あなたに〕説きましょう。
953
〔心が〕不動の識知者には、何であれ、作為は存在しないのです。〔利己的な〕勉励から離れた彼は、一切所に平安を見ます。
954
牟尼(沈黙の聖者)は、等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。彼は、寂静の者です。物惜しみ〔の思い〕を離れた者です。〔特定の何かを、執着の対象として〕執取せず、〔排除の対象として〕放棄しません」〔と〕。
 かくのごとく、世尊は〔語った〕。

 第十六経 サーリプッタ

955
尊者サーリプッタが〔尋ねた〕「かつてこのかた、わたしは、見たことがなく、あるいは、誰からも聞いたことがない−−このように、麗しき声ある教師(ブッダ)を−−兜率〔天〕からやってきた衆師たる方を。
956
眼[まなこ]ある方(ブッダ)は、天〔界〕を含む〔この〕世の者に〔はっきりと〕見えるように、一切の闇を取り除いて、まさしく、独り、〔真の〕喜悦に到達しました。
957
かの覚者(ブッダ)に、そのような、依存なく虚言なき方に、〔兜率天から〕やってきた衆師たる方に、この〔世における〕多くの結縛された者たちのために、問い尋ねることを義(目的)とし、〔わたしは〕やってまいりました。
958
〔世俗の生活を〕忌避し、〔遠離の場所に〕慣れ親しむ比丘にとって−−〔無用となり〕捨てられた坐〔所〕や木の根元、あるいは、墓場に〔慣れ親しむ比丘にとって〕−−あるいは、山々の諸々の洞窟にある〔比丘にとって〕−−
959
諸々の高下の臥〔所〕には、そこには、どれだけの恐ろしいことがあるのですか。比丘は、音のしない臥坐〔所〕において、それら〔の恐ろしいこと〕によって〔心が〕動揺しないものなのです。
960
不死の地(涅槃)に赴く者にとって、世において、どれだけの危難があるのですか。比丘は、辺境の臥坐〔所〕において、それら〔の危難〕を征服するものなのです。
961
彼の、諸々の言葉の用途(言葉の用い方)は、どのように存するべきですか。彼の、この〔世における〕諸々の境涯(行為のあり方)は、どのように存するべきですか。自己を精励する(全身全霊を挙げて刻苦精励する)比丘の、諸々の戒や掟は、どのように存するべきですか。
962
〔心を〕専一にし、賢明で、気づきある彼は、どのような学びを受持して、自己の垢を取り払うのですか−−鍛冶屋が銀の〔垢を取り除く〕ように」と。
963
世尊は〔答えた〕「サーリプッタよ、〔世俗の生活を〕忌避し、〔無用となり〕捨てられた坐〔所〕と臥〔所〕に慣れ親しみ、正覚を欲する者にとって、もし、この、平穏〔の境地〕があるなら、法(真理)のままなるとおりに、それを、あなたに、〔わたしが〕覚知しているとおりに言示しましょう。
964
慧者は、気づきの比丘は、〔苦しみの〕完全なる終極[おわり]〔の道〕を歩む者は、彼は、五つの恐怖に恐怖しないように。〔すなわち〕諸々の虻と蛾の〔恐怖〕、諸々の蛇の〔恐怖〕、諸々の人間と接触することの〔恐怖〕、諸々の四足〔の動物(猛獣)と接触すること〕の〔恐怖〕です。
965
また、他の法(教え)にしたがう者(異教徒)たちを畏怖しないように。また、彼らの〔有し、与える〕多くの恐ろしいことを見て〔その愚を知り〕、しかして、善を求める者は、他の諸々の危難を征服するように。
966
病いに罹り、飢えに襲われても、暑さ寒さを耐え忍ぶように。家なき彼は、それら〔の危難〕に、多種多様に襲われても、〔道心〕堅固に努力して、精進を為すように。
967
盗みを為さないように。虚偽〔の言葉〕を語らないように。動くものと動かないものたち(一切の生類)にたいし、慈愛〔の心〕で接するように。意[こころ]の乱れを、『黒き者(悪魔)の徒である』と識知し、取り除くように。
968
憤怒と増慢の支配に赴かないように。また、それらの根を掘り尽くし、〔自己を〕安立するように。しかしてまた、あるいは、愛しきものを、あるいは、愛しからざるものを、〔世に〕有る者は、確実に征服するように。
969
善を喜ぶ者は、知慧を尊んで、それらの危難を除き去るように。辺境の臥〔所〕にあることの不満を打ち負かすように。〔以下に述べる〕四つの嘆き悲しみの法(もの・こと)を打ち負かすように。
970
〔すなわち〕『いったい、何を食べようか。あるいは、どこで食べようか。まさに、苦しみのうちに臥した(寝苦しかった)。今日は、どこで臥そうか』〔の四つの法を打ち負かすように〕。家なくして行く、学びの者は、これら、嘆き悲しみに導く諸々の思考〔の働き〕を取り除くように。
971
食べ物と衣とを、〔正しい〕時に得て、彼は、この〔世における〕満足の義(意味)を、量を、知るように。それら(衣食)を守り、〔自己を〕制して歩む彼は、村において、たとえ、〔村人の言葉に〕傷つけられても、粗暴の言葉を説かないように。
972
〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、また、〔物欲しそうに〕足を運ばず、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)に専念し、〔眠らずに〕多く起きている者として存するように。放捨[おのずから]〔の心〕(捨:分け隔てのない心)に努めて、自己が定められた者は、〔自己の〕説に依存することを、悔い〔の思い〕を、断ち切るように。
973
諸々の言葉をもって叱責された、気づきある者は、〔その言葉を〕喜ぶように。梵行(禁欲清浄行)を共にする者たちにたいする鬱屈[わだかまり]〔の思い〕(嫉妬心)を壊し去るように。限度を超えず、〔常に〕善の言葉を放つように。〔世の〕人の〔迷える〕論という〔悪しき〕法(もの・こと)によって、〔あれこれと〕思い考えないように。
974
しかして、他に、世〔界〕には、気づきある者が、それらを取り除くために学ぶであろう、五つの塵があります。〔すなわち〕諸々の形態(色:眼の対象)、諸々の音声(声:耳の対象)、さらには、諸々の味わい(味:舌の対象)、諸々の香り(香:鼻の対象)、諸々の接触(触:身の対象)にたいする貪り〔の思い〕を打ち負かすように。
975
心が見事に解脱した、気づきある比丘は、これらの諸法(もの・こと)にたいする欲〔の思い〕を取り除くように。彼は、〔正しい〕時に正しく法(もの・こと)を考察する者、真実に専一なる彼は、〔世の〕闇を打ち払うでありましょう」と。
 かくのごとく、世尊は〔語った〕。


第五章 彼岸へと至るもの

 第一経 序の詩偈

976
呪文の奥義に達し、無所有〔の境地〕を切望する婆羅門(バーヴァリ)は、コーサラ〔族〕の者たちの喜ばしき町から、南の道へと赴いた。
977
彼は、アッサカとアラカ〔国〕が接する境域、ゴーダーヴァリー〔川〕の岸辺で、落穂やら果実やら〔を採取すること〕で、住んでいた。
978
また、そのすぐ近くに、広く大きな村が有った。その〔村〕から生まれた収益で、〔彼は〕大いなる祭祀を営んだ。
979
〔彼は〕大いなる祭祀を執り行なって、ふたたび、草庵に入った。そこに帰り戻ったところに、他の婆羅門がやってきた。
980
足が傷つき、〔喉が〕渇き、歯は泥だらけで、頭は塵まみれの、その〔婆羅門〕は、しかして、彼のところに近しく赴いて、五百〔金〕を乞う。
981
この〔ような姿の〕彼を見て、バーヴァリ(人名)は、坐〔所〕に招き入れた。〔体調が〕楽であるか、そして、〔具合が〕善いかを尋ね、この言葉を説いた。
982
〔バーヴァリは言った〕「まさに、わたしのもので、〔あなたに〕施されるべき法(もの・こと)は、〔その〕全てが、わたしによって捨て去られました。婆羅門よ、わたしを許してください。わたしには、五百〔金〕は存在しないのです」〔と〕。
983
〔婆羅門が答えた〕「もし、わたしが乞うているのに、貴様が施さないというのなら、第七日に、おまえの頭は、七様に裂けてしまえ」〔と〕
984
虚言者[くわせもの]のその〔婆羅門〕は、〔呪いの〕準備をして、〔このような〕恐ろしいことを述べ伝えた。バーヴァリは、彼の、その言葉を聞いて、苦悩の者と成った。
985
食もなく、憂いの矢に射抜かれた〔バーヴァリ〕は、打ち萎れ、しかしてまた、このような心では、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)にあっても、意[こころ]は喜ばない。
986
恐れわななく苦悩の者を見て、〔彼の〕義(利益)を欲する天〔の神〕は、バーヴァリのところに近しく赴いて、この言葉を説いた。
987
〔天の神は言った〕「彼は、頭のことを覚知してません。彼は、財を義(目的)とする虚言者[くわせもの]です。彼には、頭について、あるいは、頭が落ちることについて、知識は見出されません」〔と〕。
988
〔バーヴァリが尋ねた〕「それでは、尊き方(神)は、知っておられます。〔問いを〕尋ねられた者として、それを、頭と頭が落ちることを、わたしに告げ知らせてください。あなたの、その言葉を聞きましょう」〔と〕。
989
〔天の神は答えた〕「わたしもまた、これを知りません。わたしには、ここには、知識は見出されません。頭と頭が落ちることは、まさに、これは、〔法を究めた〕勝者たちの見るところです」〔と〕。
990
〔バーヴァリが尋ねた〕「それでは、しかして、誰が、この、大地の圏域において、頭と頭が落ちることを知っているのですか。天〔の神〕よ、それを、わたしに告げ知らせてください」〔と〕。
991
〔天の神は答えた〕「カピラヴァッツ(地名)の町から出家された、世の導き手がおられます。オッカーカ王(甘蔗王:古代の大王)の後裔にしてサキャ(釈迦)〔族〕の子である、光の作り手がおられます。
992
婆羅門よ、まさに、その方は、正覚者です。一切諸法(現象世界)の彼岸に達した方です。一切を証知する力を得た方です。一切諸法(現象世界)について眼[まなこ]ある方です。一切諸法(現象世界)の滅尽を得た方です。依存〔の思い〕の消滅〔という境地〕における解脱者です。
993
その方は、覚者です。世尊です。眼ある方は、世において、法(真理)を示します。あなたは、行って、それ(頭と頭が落ちること)を尋ねなさい。その方は、あなたに、それを説き示すでありましょう」〔と〕。
994
「正覚者」という言葉を聞いて、バーヴァリは、こころ躍る者と成った。存する彼の憂いは些細なものとなり、しかして、〔彼は〕広大なる喜びを得た。
995
わが意を得て、こころ躍る、かのバーヴァリは、感嘆〔の思い〕が生まれ、彼(正覚者)について、天〔の神〕に尋ねる。
〔バーヴァリが尋ねた〕「どこの村に、あるいはまた、町に、あるいは、どこの地方に、世の主(正覚者)はおられるのですか。そこに行って、正覚者に、最上の二足者に、〔わたしたちは〕礼拝したいのです」〔と〕。
996
〔天の神は答えた〕「コーサラ〔国〕の都サーヴァッティ(地名・舎衛城)に、勝者はおられます。多き知慧ある方です。優れた、広き思慮ある方です。その方は、サキャ〔族〕の子で、〔人としての〕重荷を離れ、煩悩なく、〔頭と〕頭が落ちることを知る、人のなかの雄牛です」〔と〕。
997
それから、〔バーヴァリは〕呪文の奥義に達した婆羅門である〔彼の〕弟子たちに呼びかけた。
〔バーヴァリは言った〕「来たれ、学生[がくしょう]たちよ、〔わたしは〕告げ知らせるであろう。わたしの言葉を聞け。
998
その方が一度ならず世に出現すること、これは、得難きことだ。その方が、今日、世に生起した。『正覚者』として〔世に〕聞こえた方だ。すみやかに、サーヴァッティ(舎衛城)に行って、最上の二足者に相見[まみ]えよ」〔と〕。
999
〔学生たちが尋ねた〕「婆羅門よ、それでは、〔わたしたちは〕どのようにして、〔その方を〕見て、『覚者』と知りうるのでしょう。〔その方を〕知らないわたしたちに、〔見分け方を〕説いてください。わたしたちが、その方を知りうるように」〔と〕。
1000
〔バーヴァリは答えた〕「まさに、諸々の呪文(ヴェーダ聖典)に伝えられて来た、偉大なる人の特相がある。そして、三十二の完全なる〔特相〕が、順次に説かれている。
1001
その方の四肢に、これらの、偉大なる人の特相が有るなら、その方の赴く所は、二つだけである。第三は、まさに、見出されない。
1002
もし、家に住み止[とど]まるなら、この大地を征圧するであろう。棒(刑罰)によらず、刃(武力)によらず、法(正義)によって統治する。
1003
また、もし、その方が、家から家なきへと出家するなら、〔迷妄の〕覆[おおい]が開かれた正覚者にして阿羅漢(人格完成者)、無上なる者と成る。
1004
〔わたしの〕出生、氏姓と、特相、〔わたしが通じている〕諸々の呪文(ヴェーダ聖典)、〔わたしの〕弟子たち、さらには、他に、頭と頭が落ちることを、〔言葉に出さず〕意[こころ]によってのみ、問い尋ねよ。
1005
〔その方が〕妨げなく見る覚者として〔世に〕有るなら、意によって尋ねられた諸々の問いに、言葉でもって答えるであろう」〔と〕。
1006
バーヴァリの言葉を聞いて、弟子である十六名の婆羅門たち、〔すなわち〕アジタ、ティッサ・メッテイヤ、プンナカ、そして、メッタグー−−
1007
ドータカ、ウパシーヴァと、ナンダと、そして、ヘーマカ、トーデイヤとカッパの両者、賢者ジャトゥカンニと−−
1008
バドラーヴダ、ウダヤと、および、婆羅門ポーサーラと、思慮あるモーガラージャンと、偉大なる聖賢ピンギヤと−−
1009
〔彼らの〕全ては、各自が衆師たる者たちであり、一切世〔界〕に〔名の〕聞こえた者たちである。瞑想(禅・静慮:禅定の境地)に喜びある瞑想者たち、過去(前世)〔に為した善き行為〕の残り香(薫習:過去の業の潜勢力)を香らせた慧者たちである。
1010
〔彼らは〕バーヴァリを拝して、そして、彼にたいし右回り〔の礼〕を為して、結髪と皮衣を〔身に〕付け、全てが北に向かって出発した。
1011
それから、アラカ〔国〕のパティッターナへ、昔の〔都〕マーヒッサティへ、そしてまた、ウッジェーニーへ、ゴーナッダへ、ヴェーディサへ、ヴァナサと名づけられたところへ−−
1012
そしてまた、コーサンビへ、サーケータへ、そして、最上の町サーヴァッティ(舎衛城)へ、セータヴヤへ、カピラヴァッツへ、そして、クシナーラの都へ−−
1013
そして、パーヴァーへ、ボーガの城市へ、ヴェーサーリーへ、マガダの町へ、そして、意[こころ]が喜びとし、喜ぶべきところ、〔美しき〕パーサーナカ廟へと〔歩を進めた〕。
1014
〔喉が〕渇いた者が冷たい水を〔求める〕ように、商人が大きな利得を〔求める〕ように、炎暑に焼かれた者が影を〔求める〕ように、〔彼らは〕大急ぎで、山に登った。
1015
比丘の僧団の尊ぶところである世尊(ブッダ)は、しかして、その時、比丘たちに、法(真理)を示す−−獅子が、林のなかで吼えるように。
1016
アジタは見た−−光を放ち、太陽のような正覚者(ブッダ)を−−十五〔夜〕の月のように、円満成就〔の境地〕に着いた者を。
1017
しかしてまた、彼の四肢[からだ]に、円満成就の特徴(偉大なる人の三十二相)を見て、一方に立ち、喜びあふれて、諸々の意による問いを尋ねた。
1018
〔アジタが尋ねた〕「〔わたしたちの師の〕生まれに関して、説いてください。氏姓を説いてください。有している特相を〔説いてください〕。諸々の呪文(ヴェーダ聖典)における最奥義〔に到達しているか〕を説いてください。婆羅門(バーヴァリ)は、どれだけ〔の数〕の者に教えていますか」〔と〕。
1019
〔世尊は答えた〕「百二十年の寿命、そして、彼の氏姓はバーヴァリ、彼の四肢には三つの特相があります。三つのヴェーダ(ヴェーダ聖典)の奥義に達した者です。
1020
〔偉大なる人の〕諸々の特相を、そして、諸々の古伝を、語彙を含み活用を含めて、五百〔の弟子〕に教えます。自らの法(教え)における最奥義に達した者です」〔と〕。
1021
〔アジタが尋ねた〕「最上の人よ、渇愛を断つ方よ、バーヴァリの諸々の特相についての〔詳しい〕考究を明らかにしてください。わたしたちに、疑い〔の思い〕が有ってはなりません」〔と〕。
1022
〔世尊は答えた〕「〔バーヴァリは〕顔を舌で覆い隠します。彼の眉の間には白毫があります。陰部が覆で覆蔵されています。学生[がくしょう]よ、このように知りなさい」〔と〕。
1023
まさに、何であれ、問いを〔言葉で〕聞かずに〔意で〕聞いて、〔正しく〕問いが説き示されたので、全ての人は、感嘆〔の思い〕が生まれ、〔世尊にたいし〕合掌を為して、〔このように〕考える。
1024
〔すなわち〕「あるいは、天〔の神〕が、あるいは、梵〔天〕(ブラフマン)が、あるいはまた、スジャーの夫インダ(インドラ神)が、いったい、誰が、意によって、それらの問いを〔世尊に〕尋ねたのだろう。これを、誰に、〔世尊は〕答えるのだろう」〔と〕。
1025
〔アジタが尋ねた〕「〔わたしたちの師である〕バーヴァリは、頭と頭が落ちることを遍く尋ねます。世尊よ、それを説き示してください。聖賢よ、わたしたちの疑いを取り除いてください」〔と〕。
1026
〔世尊は答えた〕「『無明が、頭である』と知りなさい。明知が、頭(無明)を落とします。諸々の信と気づき(念)と〔心の〕統一(定:三昧の境地)に、〔涅槃の境地への〕欲〔の思い〕(意欲)と〔揺るぎない〕精進〔の心〕に、〔明知は〕結び付いています」〔と〕。
1027
そののち、学生は、大いなる感嘆〔の思い〕で〔身を〕堅くし、皮衣を一方の肩に掛けて、〔世尊の両の〕足に、頭をもって、ひれ伏した。
1028
〔アジタが言った〕「尊師よ、眼[まなこ]ある方よ、婆羅門バーヴァリは、弟子たちと共に、心が躍り上がり、意楽しく、尊き方の〔両の〕足を敬拝します」〔と〕。
1029
〔世尊は答えた〕「婆羅門バーヴァリは、弟子たちと共に、楽しみの者と成れ。そしてまた、あなたも、楽しみの者と成りなさい。学生よ、長く生きよ。
1030
では、バーヴァリやあなたの、あるいは、全ての者たちの、一切の疑惑にたいし、〔問い尋ねの〕機会を作りましたから、何であれ、意[こころ]が求めるところを尋ねなさい」〔と〕。
1031
正覚者(ブッダ)に〔問い尋ねの〕機会を作ってもらった者は、坐して、合掌し、そこにおいて、アジタは、第一の問いを、如来に尋ねた。

 第二経 学生アジタの問い(一)

1032
尊者アジタが〔尋ねた〕「世〔界〕は、まさに、何によって覆われているのですか。まさに、何によって光り輝かないのですか。〔あなたは〕何を、それ(世界)にとっての汚れと説きますか。いったい、何を、それ(世界)にとっての〔すなわち、世の人々にとっての〕大いなる恐怖と〔説きますか〕」と。
1033
世尊は〔答えた〕「アジタさん、世〔界〕は、無明によって覆われています。物欲〔の心〕あるがゆえに、怠り(放逸)あるがゆえに、光り輝かないのです。〔わたしは〕渇望〔の思い〕を、〔世界にとっての〕汚れと説きます。苦しみを、それ(世界)にとっての〔すなわち、世の人々にとっての〕大いなる恐怖と〔説きます〕」と。
1034
尊者アジタが〔尋ねた〕「諸々の〔欲望の〕流れは、一切所に流れ行きます。何が、諸々の〔欲望の〕流れの防護となるのですか。諸々の〔欲望の〕流れの統御となるものを説いてください。何によって、諸々の〔欲望の〕流れは塞がれますか」と。
1035
世尊は〔答えた〕「アジタさん、世〔界〕には、諸々の〔欲望の〕流れがあります。気づき(念)が、それら〔の流れ〕の防護となります。諸々の〔欲望の〕流れの統御となるものを説きましょう。知慧(般若・慧)によって、これら〔の流れ〕は塞がれます」と。
1036
尊者アジタが〔尋ねた〕「あるいは、知慧こそが〔諸々の欲望の流れの統御となり〕、あるいは、気づきが〔諸々の欲望の流れの防護となるなら〕、さらに、尊師よ、〔つぎは〕名前と形態(名色:現象世界)についてです。〔問いを〕尋ねられた者として、これを、わたしに説いてください。この〔名前と形態〕は、どのような所で消滅するのですか」と。
1037
〔世尊は答えた〕「アジタさん、〔あなたが〕尋ねたこの問いについて、それを、あなたに説きましょう。名前(名)と形態(色)とが残りなく消滅する所とは、識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)の止滅によって、この〔名前と形態〕が消滅する、〔ほかならぬ、いま〕この場のことです」〔と〕。
1038
〔尊者アジタが尋ねた〕「この〔世〕には、あるいは、法(真理)を究めた者たちが、あるいは、多くの学びの者たちがいます。尊師よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞い(正しい行為のあり方)について、わたしに説いてください」〔と〕。
1039 〔世尊は答えた〕「諸々の欲望〔の対象〕を貪り求めないように。意[こころ]に濁りなき者として存するように。比丘は、一切諸法(現象世界)に気づきある智者として、遍歴遊行するように」〔と〕。

 第三経 学生ティッサ・メッテイヤの問い(二)

1040
尊者ティッサ・メッテイヤが〔尋ねた〕「この世において、〔常に〕満ち足りている者は、誰ですか。諸々の動揺〔の思い〕が存在しないのは、誰ですか。両極を証知して、〔その〕中間において、〔何ものにも〕汚されない、智慧ある者は、誰ですか。誰を、『偉大なる人である』と〔あなたは〕説くのですか。この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのは、誰ですか」と。
1041
世尊は〔答えた〕「メッテイヤさん、諸々の欲望〔の対象〕について、梵行(禁欲清浄行)ある者−−渇愛を離れ、常に気づきある者−−〔法を〕究めて、涅槃に到達した比丘−−彼には、諸々の動揺〔の思い〕は存在しません。
1042
彼は、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、〔何ものにも〕汚されない、智慧ある者です。彼を、『偉大なる人である』と〔わたしは〕説きます。彼は、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのです」と。

 第四経 学生プンナカの問い(三)

1043
尊者プンナカが〔尋ねた〕「動揺することがなく、〔ものごとの〕根元を見る方(ブッダ)への問い尋ねを義(目的)とし、〔わたしは〕やってまいりました。聖賢たち、人間たち、士族たち、婆羅門たちは、何に依存して、天〔の神々〕たちへの祭祀を、この世において、多く営んできたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。
1044
世尊は〔答えた〕「プンナカさん、誰であれ、これらの、聖賢たち、人間たち、士族たち、婆羅門たちが、天〔の神々〕たちへの祭祀を、この世において、多く営んできたのは、プンナカさん、〔まさに、いま〕この場で〔彼ら自身が陥っている、迷いの〕状態を〔自ら〕願い求めている者たちが、〔自らの〕老[おい]に依存して、〔意味なき〕祭祀を営んできたのです」と。
1045
尊者プンナカが〔尋ねた〕「誰であれ、これらの、聖賢たち、人間たち、士族たち、婆羅門たちは、天〔の神々〕たちへの祭祀を、この世において、多く営んできたのですが、尊師世尊よ、はたして、いったい、祭祀の道に怠りなき彼らは、生と老とを超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。
1046
世尊は〔答えた〕「プンナカさん、〔彼らは〕願望し、賞賛し、渇望し、供犠をします。〔しかしながら、実のところは〕利得〔という目的〕を縁として、欲望〔の対象〕を渇望します。彼らは、祭祀という束縛ある者たちであり、〔迷いの〕生存(有)にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちであり、『生と老を超えてはいない』と〔わたしは〕説きます」と。
1047
尊者プンナカが〔尋ねた〕「尊師よ、もし、彼らが、祭祀という束縛ある者たちであり、諸々の祭祀によって生と老とを超えていないなら、尊師よ、それでは、しかして、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、生と老とを超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。
1048
世尊は〔答えた〕「プンナカさん、世における彼此[ひし]〔のあり方〕を究めて、彼に、動揺〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら、寂静にして怒りを離れ、煩悶[わずらい]なく願望なき者であり、『彼は、生と老を超えた』と〔わたしは〕説きます」と。

 第五経 学生メッタグーの問い(四)

1049
尊者メッタグーが〔尋ねた〕「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。〔わたしは〕あなたを、〔真の〕知に達した方と、自己を修めた方と、思うのです。何であれ、世における、無数なる形態の、これらの苦しみは、いったい、どこから、生まれ来たのですか」と。
1050
世尊は〔答えた〕「メッタグーさん、まさに、苦しみの起源を、〔あなたは〕わたしに尋ねました。それを、あなたに、〔わたしが〕覚知しているとおりに言示しましょう。何であれ、世における、無数なる形態の、〔これらの〕苦しみは、依存という縁から生起します。
1051
まさに、〔あるがままに〕知ることなく、依存〔の対象〕を作る者−−愚か者は、繰り返し、苦しみへと近づき行きます。それゆえに、まさに、〔あるがままに〕知る者として、苦しみの発生の起源を観る者として、依存〔の対象〕を作らないように」と。
1052
〔尊者メッタグーが尋ねた〕「〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことを、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました。〔今度は、それとは〕他のものについて、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください。
 慧者たちは、いったい、どのようにして、激流を超え渡るのですか。生と老を、そして、憂いと嘆きを〔超え行くのですか〕。牟尼よ、どうぞ、わたしに、それを説き示してください。この法(もの・こと)は、まさに、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」〔と〕。
1053
世尊は〔答えた〕「メッタグーさん、あなたに、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)のうちで、伝え聞きでない〔あるがままの〕法(真理)を述べ伝えましょう。〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者が、それを知って、世における執着を超えるであろう〔真実の法を〕」と。
1054
〔尊者メッタグーが言った〕「偉大なる聖賢よ、しかして、わたしも、その、最上の法(真理)を喜びます。〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者が、それを知って、世における執着を超えるであろう〔真実の法を〕」〔と〕。
1055
世尊は〔言った〕「メッタグーさん、何であれ、上に、下に、さらにまた、横に、〔その〕中間において、〔あなたが〕正しく知るなら、これらにたいする喜悦〔の思い〕と固着〔の思い〕とを〔除き去って〕、〔さらには〕識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)を除き去って、〔迷いの〕生存のうちに止[とど]まらないように。
1056
このように住する者は、怠りなく〔常に〕気づきある比丘は、わがものと〔錯視〕された諸々のもの(欲望や執着の対象)を捨てて、〔あるがままに〕行じおこなう者です。知ある者は、この〔世において〕こそ、苦しみを捨てるように。生と老を、そして、憂いと嘆きを〔超え行くように〕」と。
1057
〔尊者メッタグーが言った〕「偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕喜びます。ゴータマ(ブッダ)よ、依存なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました。世尊よ、たしかに、まさに、〔あなたは〕苦しみを捨てました。この法(もの・こと)は、まさに、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです。
1058
牟尼よ、あなたが、止[とど]まることなく教え諭すであろう者たち−−しかして、彼らもまた、まちがいなく、苦しみを捨てるでありましょう。龍(ブッダ)よ、それゆえに、〔あなたの面前に〕共に赴いて、あなたを礼拝します。世尊よ、まさしく、また、わたしも、〔彼ら同様〕止まることなく教え諭してください」〔と〕。
1059
〔世尊は答えた〕「無一物で、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着がなく、〔真の〕婆羅門にして〔真の〕知に達した者と〔あなたが〕証知するであろう者−−たしかに、まさに、彼は、この激流を超えたのです。しかして、彼岸へと〔激流を〕超えた者は、〔心に〕鬱屈[わだかまり]なく疑惑[まどい]なき者です。
1060
また、その人は、この〔世において〕、知ある者であり、〔真の〕知に達した者です。種々なる〔迷いの〕生存にたいする、この執着を捨てて、彼は、渇愛を離れた者であり、煩悶[わずらい]なく願望なき者です。『彼は、生と老を超えた』と〔わたしは〕説きます」〔と〕。

 第六経 学生ドータカの問い(五)

1061
尊者ドータカが〔尋ねた〕「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。偉大なる聖賢よ、〔わたしは〕あなたの言葉を待ち望みます。あなたの話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです」と。
1062
世尊は〔答えた〕「ドータカさん、それなら、まさに、この〔世において〕こそ、賢明なる気づきの者として、熱く為しなさい(全身全霊をあげて気づきを実践する)。これから〔告げ知らせる、わたしの〕話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです」と。
1063
〔尊者ドータカが言った〕「わたしは、見ます−−天〔の神々〕と人間たちの世において、〔正しく〕振る舞う、無一物の婆羅門を。一切に眼ある方よ、それゆえに、〔わたしは〕あなたを礼拝します。サッカ(釈迦)〔族〕の方よ、わたしを、諸々の疑惑から解き放ってください」〔と〕。
1064
〔世尊は答えた〕「ドータカさん、わたしは、誰であれ、世における疑惑者のところへと、〔疑惑から〕解き放つことのために、赴くことはないでしょう(他者を解脱へと至らしめることはない)。しかして、最勝の法(真理)を了知している者として、このように、あなたは、〔あなた自身で〕この激流を超えるのです」〔と〕。
1065
〔尊者ドータカが言った〕「梵〔天〕(ブッダ)よ、慈悲ある者として、教えてください−−わたしが識知しなければならない、遠離の法(教え)を。わたしが、虚空のように、〔他者に〕害を加えず、まさしく、この〔世において〕、寂静の者として、依り所なき者として、行じおこないうるように」〔と〕。
1066
世尊は〔答えた〕「ドータカさん、あなたに、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)のうちで、伝え聞きでない〔真の〕寂静を述べ伝えましょう。〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者が、それを知って、世における執着を超えるであろう〔真の寂静を〕」と。
1067
〔尊者ドータカが言った〕「偉大なる聖賢よ、しかして、わたしも、その、最上の寂静を喜びます。〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者が、それを知って、世における執着を超えるであろう〔真の寂静を〕」〔と〕。
1068
世尊は〔言った〕「ドータカさん、何であれ、上に、下に、さらにまた、横に、〔その〕中間において、〔あなたが〕正しく知るもの−−これを、『世における執着〔の対象〕である』と知って、種々なる生存にたいし、渇愛〔の思い〕を為してはなりません」と。

 第七経 学生ウパシーヴァの問い(六)

1069
尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕「サッカ(釈迦)〔族〕の方(ブッダ)よ、わたしは、独りで、大いなる激流を、依り所なく、〔独力で〕超えることができません。一切に眼[まなこ]ある方よ、〔依存の〕対象(所縁)を説いてください。それを依り所にして、この激流を超えるであろう〔依存の対象を〕」と。
1070
世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、無所有〔の境地〕を見る、気づきの者となり、『〔何ものも〕存在しない』という〔思い、すなわち、無一物の境地を〕依り所にして、激流を超えなさい。諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、諸々の言葉(論説)から離れた者となり、渇愛の滅尽を昼夜に観なさい」と。
1071
尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕「一切の欲望〔の対象〕にたいする貪りを離れた者、他のもの(他者・他物)を捨てて無所有〔の境地〕を依り所にした者、表象作用(想:認識対象を表象し概念化する働き)の解脱という最高〔の解脱〕において解脱した者−−いったい、彼は、〔何ものも〕追い求めることなく、そこにおいて〔すなわち、解脱の境地において〕安立するのでしょうか」と。
1072
世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪りを離れた者、他のもの(他者・他物)を捨てて無所有〔の境地〕を依り所にした者、表象作用(想:認識対象を表象し概念化する働き)の解脱という最高〔の解脱〕において解脱した者−−彼は、〔何ものも〕追い求めることなく、そこにおいて〔すなわち、解脱の境地において〕安立するでありましょう」と。
1073
〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕「一切に眼ある方よ、もし、彼が、〔何ものも〕追い求めることなく、また、多くの年月を、そこにおいて安立するなら、まさしく、そこにおいて、彼は、〔欲の炎が消えた〕解脱者として、〔欲の炎なく〕冷静に存するのでしょうか。〔それとも〕そのような類の者の識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)は、〔解脱後も〕有るのでしょうか」〔と〕。
1074
世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、風の勢いで飛び散った炎が滅却し去り行くと、〔もはや〕名称に近づかない(名づけようがない)ように、このように、名前と身体(名身)から解脱した牟尼(沈黙の聖者)は、滅却〔の道〕へと去り行き、〔虚構の〕名称(概念)に近づくことはありません(名付けを離れた存在となる)」と。
1075
〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕「その、滅却に至った者(解脱者)ですが、あるいはまた、彼は、〔もはや〕存在しないのですか。それとも、まさに、常恒であるため、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか。牟尼よ、どうぞ、わたしに、それを説き示してください。この法(もの・こと)は、まさに、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」〔と〕。
1076
世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、滅却に至った者(解脱者)には、量ることが〔すなわち、量るべき尺度[よすが]が〕存在しないのです。それによって、彼のことを〔あなたに〕説こうとしても、彼には、その〔量るべき尺度〕が存在しないのです。一切の諸法(もの・こと)が完破されたとき、一切の論〔へと至る〕道もまた、完破されたのです」と。

 第八経 学生ナンダの問い(七)

1077
尊者ナンダが〔尋ねた〕「『〔この〕世には、諸々の牟尼が存在する』〔と〕、〔世の〕人たちは説きます。いったい、彼らは、このことを、どのように〔説くの〕ですか。いったい、〔彼らは〕知識を具有した者を、牟尼と説くのですか。それとも、まさに、〔正しい〕生を具有した者を〔牟尼と説くのですか〕」と。
1078
〔世尊は答えた〕「ナンダさん、智者たちは、この〔世において〕、牟尼たちを、見解によって〔説か〕ず、伝承によって〔説か〕ず、知識によって説かないのです。煩悶[わずらい]なく願望なく、〔他者にたいし〕敵対〔の思い〕を為すことなくして行じおこなう者たち−−彼らを、『牟尼(沈黙の聖者)である』と〔わたしは〕説きます」〔と〕。
1079
尊者ナンダが〔尋ねた〕「〔いっぽうで、わたしが知っている〕これらの沙門や婆羅門たちは、誰もが、〔外に〕見られたもののうちに〔清浄の境地を〕、さらには、〔他から〕聞かれたものによって清浄〔の境地〕を説きます。さらには、戒や掟によって清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数の〔外的な〕形態によって清浄〔の境地〕を説きます。尊師世尊よ、はたして、いったい、彼らが、そこにおいて、〔そのように〕行じおこなうとおりに、〔彼らは〕生と老とを超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。
1080
世尊は〔答えた〕「ナンダさん、これらの沙門や婆羅門たちは、誰もが、〔外に〕見られたもののうちに〔清浄の境地を〕、さらには、〔他から〕聞かれたものによって清浄〔の境地〕を説きます。さらには、戒や掟によって清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数の〔外的な〕形態によって清浄〔の境地〕を説きます。たとえ、何であれ、彼らが、そこにおいて、〔そのように〕行じおこなうとおりに、『〔彼らは〕生と老を超えてはいない』と〔わたしは〕説きます」と。
1081
尊者ナンダが〔尋ねた〕「これらの沙門や婆羅門たちは、誰もが、〔外に〕見られたもののうちに〔清浄の境地を〕、さらには、〔他から〕聞かれたものによって清浄〔の境地〕を説きます。さらには、戒や掟によって清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数の〔外的な〕形態によって清浄〔の境地〕を説きます。牟尼よ、もし、〔彼らを〕激流を超えざる者たちと説くなら、尊師よ、それでは、しかして、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、生と老とを超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。
1082
世尊は〔答えた〕「ナンダさん、わたしは、『全ての沙門や婆羅門たちが、生と老に覆われている』と説くのではありません。まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを、あるいは、聞かれたものと思われたものを、あるいはまた、一切の戒や掟を捨てて、さらには、一切の無数の〔外的な〕形態を捨てて、渇愛を知り尽くして煩悩なき者たち−−まさに、彼らを、『激流を超えた人たちである』と〔わたしは〕説きます」と。
1083
〔尊者ナンダが言った〕「偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕喜びます。ゴータマ(ブッダ)よ、依存なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました。まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを、あるいは、聞かれたものと思われたものを、あるいはまた、一切の戒や掟を捨てて、さらには、一切の無数の〔外的な〕形態を捨てて、渇愛を知り尽くして煩悩なき者たち−−わたしもまた、彼らを、『激流を超えた者たちである』と説きます」〔と〕。

 第九経 学生ヘーマカの問い(八)

1084
尊者ヘーマカが〔言った〕「ゴータマ(ブッダ)の教え以前に、『〔これこれこういうもの〕として存していた』『〔これこれこういうもの〕と成るであろう』〔と〕、かつて、〔人々が〕わたしに説き示したことは、その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり、その一切が、〔迷える〕説を増大させるものです。
1085
わたしは、そこに、〔いささかも〕喜ぶことはありませんでした。牟尼よ、しかして、あなたは、わたしに、渇愛の絶滅という法(教え)を告げ知らせてください。〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者が、それを知って、世における執着を超えるであろう〔真実の法を〕」と。
1086
〔世尊は答えた〕「ヘーマカさん、この〔世において〕、見られ聞かれ思われ識られた、諸々の愛しい形態のものについての、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を取り除くことが、不死なる涅槃の境地です。
1087
このことを了知して、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において涅槃に到達した、気づきある者たち−−しかして、彼らは、常に寂静であり−−世における執着を超えた者たちです」〔と〕。

 第十経 学生トーデイヤの問い(九)

1088
尊者トーデイヤが〔尋ねた〕「彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく、彼に、渇愛〔の思い〕が見出されることなく、しかして、諸々の疑惑を超えた者−−彼には、どのような解脱が〔存在するのですか〕」と。
1089
世尊は〔答えた〕「トーデイヤさん、彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく、彼に、渇愛〔の思い〕が見出されることなく、しかして、諸々の疑惑を超えた者−−彼には、他の解脱は〔存在し〕ないのです」と。
1090
〔尊者トーデイヤが尋ねた〕「彼は、依存なき者ですか。あるいは、願い求める者ですか。彼は、知慧ある者ですか。あるいは、知慧によって想い描く(思量し分別する)者ですか。サッカ(釈迦)〔族〕の方よ、一切に眼[まなこ]ある方よ、わたしが、牟尼を識知できるように、それを、わたしに説明してください」〔と〕。
1091
〔世尊は答えた〕「彼は、依存なき者です。願い求める者ではありません。彼は、知慧ある者です。しかしながら、知慧によって想い描く(思量し分別する)者ではありません。トーデイヤさん、また、このように、牟尼を識知しなさい。〔牟尼は〕無一物です。欲望の生存にたいする執着なき者です」〔と〕。

 第十一経 学生カッパの問い(十)

1092
尊者カッパが〔言った〕「尊師よ、大いなる恐怖を生む激流の〔まさにその〕流れの中で立ちすくんでいる者たちのために、老と死に打ち負かされた者たちのために、〔依り所となる〕洲を説いてください。しかして、あなたは、わたしに、洲を告げ知らせてください。他のものが存在すべくもない、このとおり〔の洲を〕」と。
1093
世尊は〔答えた〕「カッパさん、大いなる恐怖を生む激流の〔まさにその〕流れの中で立ちすくんでいる者たちのために、老と死に打ち負かされた者たちのために、〔依り所となる〕洲を、カッパさん、あなたに説きましょう。
1094
無一物にして無執取であること−−これが、他のものが〔存在すべくも〕ない、〔このとおりの〕洲です。それを、老と死の完全なる滅尽を、『涅槃である』と〔わたしは〕説きます。
1095
このことを了知して、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において涅槃に到達した、気づきある者たち−−彼らは、悪魔の支配に従う者ではありません−−彼らは、悪魔の奴隷に堕す者ではありません」と。

 第十二経 学生ジャトゥカンニの問い(十一)

1096
尊者ジャトゥカンニが〔言った〕「わたしは、欲なき〔あり方〕を欲する勇者(ブッダ)のことを聞いて、激流を超え行く方(ブッダ)に、欲なき〔あり方〕を問い尋ねるため、やってまいりました。〔わたしと〕生を共にする眼ある方よ、寂静の境地を説いてください。世尊よ、それを、わたしに、真実のとおりに説いてください。
1097
なぜなら、世尊は、光り輝く太陽が〔その〕輝きによって大地を〔征服する〕ように、諸々の欲望〔の対象〕を征服して、〔あるがままに〕振る舞うからです。広き知慧ある方よ、少なき知慧のわたしに、法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならないところの、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」と。
1098
世尊は〔答えた〕「ジャトゥカンニさん、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を取り除きなさい。出離〔の境地〕を『平安である』と見て、〔執着の対象として〕執持されたものが、あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが、あなたにとって、何ものも見出されてはなりません。
1099
過去にあるもの−−それを、干上がらせなさい。未来においては、何ものも、あなたにとって、有ってはなりません。もし、〔その〕中間(現在)において、〔何ものも〕掴み取らないなら、〔あなたは〕寂静の者として、行じおこなうでありましょう。
1100
婆羅門よ、名前と形態(名色:現象世界)にたいする貪り〔の思い〕を離れた者には、彼には、諸々の煩悩は、全く見出されません−−それら(煩悩)によって、死の支配は〔世の人々に〕行き渡るのですが」と。

 第十三経 学生バドラーヴダの問い(十二)

1101
尊者バドラーヴダが〔言った〕「家を捨て渇愛を断った動揺なき方、喜びを捨て激流を超えた解脱者、〔計測され概念化した〕時間(時計の時間・分別妄想・輪廻的あり方)を捨てた思慮深き方に、〔わたしは〕乞い願います。龍(ブッダ)の〔言葉を〕聞いて、〔ここに集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう。
1102
勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる種々の人たちが、諸々の地方から〔ここにこうして〕集いあつまったのです。あなたは、彼らのために、どうか、〔真実の法を〕説き示してください。この法(もの・こと)は、まさに、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」と。
1103
世尊は〔答えた〕「バドラーヴダさん、一切の執取と渇愛を取り除くように。上に、下に、さらにまた、横に、〔その〕中間において、まさに、〔一切〕世〔界〕において、〔世の人々が、それぞれに〕執取するものともの−−まさしく、その〔執取の対象〕によって、人に、悪魔が従い行くのです。
1104
それゆえに、〔このことを〕覚知している、気づきある比丘は、一切世〔界〕において、何ものも執取しないであろう−−死の領域において〔欲望の対象に〕執着するこの人々を、『執取の有情たちである』と〔あるがままに〕見ながら」と。

 第十四経 学生ウダヤの問い(十三)

1105
尊者ウダヤが〔言った〕「〔世俗の〕塵を離れ端座する瞑想者、為すべきことを為し煩悩なき方、一切諸法(現象世界)の彼岸に達した方(ブッダ)への問い尋ねを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。了知による解脱を、無明の破壊を、〔わたしに〕説いてください」と。
1106
世尊は〔答えた〕「ウダヤさん、諸々の欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕と諸々の失意〔の思い〕の両者を捨て去ること、そして、〔心の〕沈滞[おちこみ]を除き去ること、諸々の悔い〔の思い〕を防ぎ護ること−−
1107
〔諸々の認識の対象にたいする〕放捨(捨)と気づき(念)という清浄〔の境地〕、〔あるがままの〕法(真理)という〔正しい〕説を先導とする〔解脱〕−−〔これらを〕了知による解脱と、無明の破壊と、〔わたしは〕説きます」と。
1108
〔尊者ウダヤが尋ねた〕「いったい、何が、世の束縛なのですか。いったい、何が、それ(世)にとっての〔すなわち、世の人々にとっての〕彷徨[さまよい]なのですか。何を捨棄することで、それ(世)にとって〔すなわち、世の人々にとって〕、『涅槃』と呼ばれるのですか」〔と〕。
1109
〔世尊は答えた〕「喜びが、世の束縛です。思考が、それ(世)にとっての〔すなわち、世の人々にとっての〕彷徨です。渇愛を捨棄することで、『涅槃』と呼ばれるのです」〔と〕。
1110
〔尊者ウダヤが尋ねた〕「どのようにして、〔あるがままに〕行じおこなう気づきある者の、識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)が消滅するのですか。〔わたしたちは〕世尊に問い尋ねるため、やってまいりました。〔わたしたちは〕あなたの、その言葉を聞きたいのです」〔と〕。
1111
〔世尊は答えた〕「内も、外も、感受作用〔の結果〕(受:苦楽の知覚)を喜ばずにいる者−−このように、〔あるがままに〕行じおこなう気づきある者の、識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)が消滅するのです」〔と〕。

 第十五経 学生ポーサーラの問い(十四)

1112
尊者ポーサーラが〔尋ねた〕「過去を〔過去として、あるがままに〕指し示し、動揺なく〔一切の〕疑惑を断った者である、一切諸法(現象世界)の彼岸に達した方(ブッダ)への問い尋ねを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。
1113
実体〔というあり方〕を離れて形態を想う者(妄想によって固定され実体化された形相を捨象し、認識対象をあるがままに表象する者)、一切の身体を捨て去る者、『内も、外も、何であれ、存在しない』と見る者の知恵について、サッカ(釈迦)〔族〕の方よ、〔わたしは〕尋ねます。そのような類の者は、どのように導かれるのですか」と
1114
世尊は〔答えた〕「ポーサーラさん、一切の識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)の止住(固着・停滞)を証知している如来は、この、〔識別作用の〕安立を、解脱であり、彼の行き着く所と知るのです。
1115
無所有〔の境地〕の生起を知って、『喜びは、束縛である』と〔知るのです〕。このように、このように証知して、それゆえに、そこにおいて、〔あるがままの無常を〕観るのです。〔梵行の〕完成者にして婆羅門たる彼に、この、真実の知恵が〔成就するのです〕」と。

 第十六経 学生モーガラージャンの問い(十五)

1116
尊者モーガラージャンが〔尋ねた〕「わたしは、〔かつて〕二度、サッカ(釈迦)〔族〕の方(ブッダ)に問い尋ねましたが、眼ある方(ブッダ)は、わたしに説き示してくれませんでした。しかしながら、『天の聖賢(ブッダ)は、三度目には説き示してくれる』と、わたしは聞きました。
1117
この世、他世、天〔界〕を含む梵の世〔界〕は、あなたの、福徳あるゴータマ(ブッダ)の、〔あるがままの〕見[まなざし]を証知しません。
1118
このように、崇高なる見者への問い尋ねを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。どのように世〔界〕を観察する者を、死魔の王は見ないのですか」と。
1119
〔世尊は答えた〕「モーガラージャンさん、常に気づきある者として、世〔界〕を『空[くう]である』と観察しなさい。自己についての誤った見解を取り去って、このように、死を超え渡る者として存するように。このように、世〔界〕を観察する者を、死魔の王は見ないのです」〔と〕。

 第十七経 学生ピンギヤの問い(十六)

1120
尊者ピンギヤが〔言った〕「目は清浄ならず、耳は平穏ならず、〔今の〕わたしは、無力で、生彩なく、老い朽ちた者として存しています。わたしが、中途半端なまま、迷愚の者として、消え行くことがあってはならないのです。〔わたしに〕法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならないところの、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」と。
1121
世尊は〔答えた〕「ピンギヤさん、〔気づきを〕怠る人たちは、諸々の形態〔の思い〕に悩み苦しみます。〔彼らが〕諸々の形態〔の思い〕に打ちのめされているのを見て、ピンギヤさん、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者として、さらなる〔迷いの〕生存がないように、形態〔の思い〕を捨て去りなさい」と。
1122 〔尊者ピンギヤが言った〕「四方(東西南北)、四維(四方の中間)、上方、下方−−これら、十方〔世界〕で、あなたにとって、見られないもの、あるいは、聞かれ思われないものはなく、さらには、世において、識られないものは、何ものも存在しないのです。〔わたしに〕法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならないところの、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」〔と〕。
1123
世尊は〔答えた〕「ピンギヤさん、渇愛〔の思い〕に囚われ、苦悩を生じ、老に打ち負かされた人間たちを見る者として、ピンギヤさん、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者として、さらなる〔迷いの〕生存がないように、渇愛〔の思い〕を捨て去りなさい」と。

 第十八経 十六学生の問いの結語

1124
アジタ、ティッサ・メッテイヤ、プンナカ、そして、メッタグー、ドータカ、ウパシーヴァと、ナンダと、そして、ヘーマカ−−
1125
トーデイヤとカッパの両者、賢者ジャトゥカンニと、バドラーヴダ、ウダヤと、および、婆羅門ポーサーラと、思慮あるモーガラージャンと、偉大なる聖賢ピンギヤと−−
1126
これらの者たちは、覚者(ブッダ)のもとに、行ないを成就した聖賢のもとに、近づき行った。〔彼らは〕諸々の微妙[みみょう]なる問いを問う者として、最勝の覚者のもとに近づき行った。
1127
〔問いを〕尋ねられた覚者は、彼らの問いにたいし、真実のとおりに説き示した。牟尼は、諸々の問いに〔正しく〕説明することで、婆羅門たちを満足させた。
1128
太陽の眷属によって、眼ある覚者によって、満足させられた彼らは、優れた知慧ある方の現前で、梵行(禁欲清浄行)を行じおこなった。
1129
一つ一つの問いに覚者が示したとおりに、そのとおり実践する者は、此岸から彼岸へと赴くであろう。
1130
最上の道を習い修める者は、此岸から彼岸へと赴くであろう。それは、彼岸へと至るための道であり、それゆえに、『彼岸へと至るもの』と〔呼ばれる〕。
1131
尊者ピンギヤは〔バーヴァリのもとに帰り、師に言った〕「〔わたしは〕『彼岸へと至るもの』を読誦するでありましょう。〔世俗の〕垢を離れた、広き思慮ある方(ブッダ)は、〔自らが〕見たとおりに、そのとおり告げ知らせました。無欲で、〔欲の〕林なく、〔世の〕主[あるじ]たる方が、何を因として、虚偽を語るでありましょう。
1132
〔煩悩の〕垢と〔思考の〕迷いを捨て去った方の、高慢(慢)と隠覆(覆)〔の思い〕を捨て去る方の、徳を伴った〔真実の〕言葉を、さあ、わたしは述べ伝えるでありましょう。
1133
梵〔天〕(婆羅門)よ、〔世の〕闇を除去する覚者にして一切に眼ある方、世の終極に達し一切の〔迷いの〕生存を超克した方、煩悩なく一切の苦を捨て去る方、『真理』と名づけられた方は、わたしによって近侍[きんじ]されたのです。
1134
鳥が、まばらな林を捨てて、多き果ある森に住むように、また、このように、わたしは、見少なき者たちを捨てて、白鳥のように、大海原に達し得たのです。
1135
ゴータマ(ブッダ)の教え以前に、『〔これこれこういうもの〕として存していた』『〔これこれこういうもの〕と成るであろう』〔と〕、かつて、〔人々が〕わたしに説き示したことは、その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり、その一切が、〔迷える〕説を増大させるものです。
1136
彼は、独り、〔世の〕闇を除去して、端座する方、出生よき、光の作り手です。ゴータマ(ブッダ)は、広き知慧ある方です。ゴータマ(ブッダ)は、広き思慮ある方です。
1137
その方は、わたしに、現に見られ時を要さない〔即座の〕法(真理)を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を、示してくださったのです。その方には、どこにも喩えが存在しないのです」と。
1138
〔バーヴァリが言った〕「ピンギヤよ、それゆえに、〔おまえは〕いったい、どうして、寸時でさえも、広き知慧あるゴータマ(ブッダ)から、広き思慮あるゴータマ(ブッダ)から、離れて住むことがあろうか。
1139
その方は、わたしに、現に見られ時を要さない〔即座の〕法(真理)を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を、示してくださったのだ。その方には、どこにも喩えが存在しないのだ」〔と〕。
1140
〔ピンギヤは言った〕「婆羅門よ、それゆえに、わたしは、寸時でさえも、知慧広きゴータマ(ブッダ)から、広き思慮あるゴータマ(ブッダ)から、離れて住むことがないのです。
1141
その方は、わたしに、現に見られ時を要さない〔即座の〕法(真理)を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を、示してくださったのです。その方には、どこにも喩えが存在しないのです。
1142
婆羅門よ、〔わたしは〕彼を見ます−−意[こころ]によって、あるいは、眼[まなこ]によって。昼夜にわたり、〔気づきを〕怠らず、夜は、〔ゴータマを〕礼拝する者として過ごし、まさしく、それによって、〔もはや、ゴータマから〕離れて住むことなき者と〔自らを〕思うのです。
1143
〔迷いなき〕信と〔真なる〕喜びと〔切なる〕意[おもい]と〔怠りなき〕気づき(念)が、わたしを、ゴータマ(ブッダ)の教えから離れさせないのです。知慧広き方が行く、その方角、その〔方角〕に、まさしく、その〔場〕、その〔場〕に、そのわたしは、礼拝者として存在するのです。
1144
老い朽ち、力と強さに劣る、わたしにとって、まさしく、それによって、身体〔自体〕がそこに行くことはありません。常に〔思慮〕分別を傾けることで、〔そこに〕行くのです。婆羅門よ、まさに、わたしの意は、その方と結ばれているのです。
1145
汚泥に臥し、震えおののく者として、〔わたしは〕洲から洲へと漂いました。しかして、激流を超えた、煩悩なき正覚者(ブッダ)を見たのです」〔と〕。
1146
〔その時、世尊がピンギヤの前に現われて言った〕「ヴァッカリ(人名)、バドラーヴダ(人名)、アーラヴィ・ゴータマ(人名)など、解き放たれた信ある者が〔そう〕有ったように、ピンギヤよ、あなたもまた、まさしく、このように、信を解き放ちなさい(信仰を依存の対象にしない)。〔そうすれば〕あなたは、死魔の領域の彼岸へと至るでありましょう」〔と〕。
1147
〔ピンギヤは言った〕「この〔わたし〕は、牟尼の言葉を聞いて、より一層、〔心が〕清まります。〔迷妄の〕覆が開かれた正覚者(ブッダ)は、〔心に〕鬱屈[わだかまり]なく、応答自在の方です。
1148
〔牟尼は〕天のそのまた上をも証知し、彼此[ひし]の一切を知っておられます。教師(ブッダ)は、疑いありと公言する者たちの、諸々の問いの終極[おわり]を為す方です。
1149
〔わたしは〕どこにも喩えが存在しない、不動で、揺るぎない〔境地〕へと、確実に至るでありましょう。ここに、わたしに、疑いはありません。このように、わたしを、確固たる心ある者と認めてください」〔と〕。