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【臨時書き込み部分】             2017.9.9-Sat

要点; イエスの実際の教えに「党派性」(partisanship)はあったのかどうか?

わたしの結論は、
「イエスの実際の教えは、『こころ』に関してのものであり、『党派性』はなかった。」
というもの。

導入

話題の書、
「仁義なきキリスト教史」(ちくま文庫)  架神 恭介(かがみ・きょうすけ)   

  (subroutine)→著者、架神 恭介であるが、架神とは「十字架の神」であろう。

魅力ある広島弁。→方言には「魂」がこもっている。

「キリスト教会の歴史なんざ、ヤクザ抗争と同じじゃないか。」という提起。

仏教的な背景もあるこの筆者に「爆弾」投下する必要がある。

謎解きをするなら、新約聖書の福音書部分に関しても、教会成立後の「お約束」が入っているということ。

典型的な「挿入」は、
>あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。Matt:16:18

イエスが現在の「教会」を見ると、びっくりするだろう。

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では、「癒し」はどうだろう。
ペテロのしゅうとめを癒す。(p.13-)

「祟り神」(p.15冒頭)からの解放。

そして、「安息日にしていい」の話 → 

これは、形式主義への異議申し立て。

すなわち「みこころ」に関しての価値選び取りである。

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(【臨時書き込み部分】 、おわり)
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2017.1.30-Tues
遠藤周作『#沈黙』。その主題は「信仰って形式(form)じゃないよね」ということ。
「わたしはイエスと『交わった』」。この霊的体験が「すべて」(panta)。
イエスという流入(flow)は溢れるように、他者との関わり方や世界のとらえ方に及ぶ。このようにわたしは思っています。

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イエスとの『交わり」。

いつも泣いてしまう文章なのですが、遠藤周作『イエスの生涯』から---。


イエスの慰めの物語 (遠藤周作『イエスの生涯』(新潮文庫 1982)より)

聖書のなかにはあまたイエスと見棄てられたこれらの人間との物語が出てくる。形式は二つあって,
一つはイエスが彼らの病気を奇蹟によって治されたという所謂(いわゆる)「奇蹟物語」であり,
もう一つは奇蹟を行うというよりは彼らのみじめな苦しみを分かちあわれた「慰めの物語」である。
だが,聖書のこの二種類の話のうち,「慰めの物語」のほうが「奇蹟物語」よりはるかにリアリティを持っているのはなぜだろう。「奇蹟物語」よりも「慰めの物語」のほうがはるかにイエスの姿が生き生きと描かれ,その状況が眼に見えるようなのはなぜだろう。 たとえばルカ七章三十六節にこういう話がある。

「パリサイ派の人,イエスを食事に招きしが,イエスその家に入りて食卓につき給いし時,町に住む罪を犯せし一人の女(娼婦のこと)香油盛りたる器をもち来たり,
……泪(なみだ)にてその御足を次第にぬらし」

その一節を読むだけで,我々はそこに描かれていないさまざまな状況をまぶたに浮かべることができる。
おそらくこの話に出てくる娼婦はマグダラか,その付近に住む貧しい娘だったのだろう。生きるために彼女はさまざまな男に体を与え,男たちはその体を弄(もてあそ)んだくせに彼女を蔑(さげす)みながら金を与えたのであろう。男と横になっている時,彼女は闇の中に空虚(うつろ)な眼をじっと見ひらいて身じろがなかっただろう。

イエスのことを彼女は誰に聞いたのだろうか。どうして彼女は彼をたずねようと思ったのだろうか。ひょっとすると,ある夜,自分を買った男から耳にしたのかもしれぬ。湖畔にじっと腰かけている疲れたような彼の姿を遠くから見たのかもしれぬ。 彼女はイエスがどんな人かは知らなかったにちがいない。ただその姿から言いようのない「やさしさ」を見ぬいたのだろう。自分の惨めさにも自分にたいする蔑みにもあまりに馴れていた彼女は, どんな人が本当の心のやさしさを持っているか本能的に感じたのだ。

イエスが食事をしている家がパリサイ派の男の家であったため,彼女はおそらくその中に入る時, 下男たちから遮(さえぎ)られたであろう。パリサイ派の人たちには娼婦などは話しかけることも 避けねばならぬ賤しい,恥ずべき女だった。旧約の世界では彼女たちはしばしば預言者たちの呪いの対象となっている。だから下男たちの制止をふりきって彼女は広間に入り,食卓から驚いたようにふりむいた人々の視線を浴びながら,
イエスの前まで一直線に歩いていったにちがいないのだ。

彼女は何も言わなかった。何も言わずイエスを見つめただけだった。やがてその眼から泪が溢(あふ)れでた。その泪だけで今日までの自分の哀しみを訴えた。「泪にてその御足をぬらし」という簡潔な表現がこのときの彼女の惨めさと苦しさとをはっきりと私たちに伝えてくれる。

その泪でイエスはすべてを知られた。この女がどんなに半生,人々から蔑まれ,自分で自分の惨めさを噛みしめたかも理解された。その泪で充分だった。神がこの女を悦んで迎え入れるには,それで充分だった。
「もう,それでいい。わたしは……あなたの哀しみを知っている」 とイエスは彼女にやさしく答えた。彼がこの時,つぶやかれた言葉は聖書のなかでも最も美しいものの一つである。「この女は多く愛したのだ 」
そして,イエスは次のように言った。 多く愛するものは 多く許さるる…… この「慰めの物語」には数多くのイエス奇跡物語よりも,はるかに生き生きとわれわれに訴えるものがある。「泪、次第にその足をぬらし」という女の悲しみの表現と「多く愛する者は多く許さるる」と女をゆるすイエスの静かな声とにはわれわれを感動させずにはおかぬ響きがある。

もう一つ,別の「慰めの物語」を例にとろう。マルコや,ルカやマタイがそれぞれ記述している。 長血を患う女の話である。

「ここに十二年,血漏を患える女ありて,あまたの医師にかかりて様々に苦しめられ,持てる物を 悉(ことごと)く費やしたれど何の効(かい)もなく,却って益々,悪しかりしにイエスのことを 聞きしかば,雑踏のうちより後ろに来たりて,その衣服に触れたり。……イエス,たれかわが衣服 を触れしぞと言い給いければ,……」( マルコ,五の二十五)

これもガリラヤ湖畔のひとつの村で起こった出来事である。長血という不治の病にかかった女が その苦しさのあまり,イエスを見るために集まった群衆のかげにかくれ,その衣服におずおずと指を触れてみる。女にとっては藁をもつかむ気持ちだったのだろう。 おずおずと触れた指でイエスは彼女の今日までの苦しさをすべて,その藁をもつかみたい気持ち を感じとる。 「誰かが,私の服に触れた」 と彼は弟子をふりかえる。弟子たちは笑いながら答えた。 「これだけ,おびただしい人がいるのです。ぶつかるのも仕方がありますまい」 「いや,そうではない」イエスは首をふられた。「 誰かが私の衣服にふれたのだ」 そして自分を見つめている多くの顔のなかから彼は怯えた女の表情を発見する。

この物語はイエスが彼女の病を治すという奇蹟物語が混じてはいるが,私たちの心を動かすのは 彼女の病気がイエスの奇蹟で治されたという結末よりも,おずおずと衣服に触れたその女の指一本 から彼女の切ない苦しみのすべてを感じとったイエスである。たくさんの人々の蔭からそっと差しだされた女の指,衣にかすかにふれただけでイエスはふりむく。彼は彼女の苦しみのすべてがわかったのだ。我々にはその時の女の怯えた顔もイエスの辛そうな表情も,このおずおずとした指一本 からはっきり想像できるのだ。

この文章は文庫本 P.55。篤志家である倫理社会の先生がuploadしてくれたものです。感謝。(イエスの慰めの物語 で Ctrl+F)

さて、後半の長血の女の話ですが、日本基督教団の注解書にこうありました。

>「娘よ」 (Matt: 9:22、Mark: 5:34、Luke: 8:48)。これは皮肉ではない。
>彼女は、この時、失われた時を超えて、娘であった。

わたしの引用歌。↓

歌「はぐれそうな天使」 岡村孝子 

>あの人 
〜
>夢は いくつも飛び超えたのに
>まるで 少女のときめきほどに はがゆい気分で (歌詞)

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>おずおずと触れた指 →「中森明菜 - セカンド.ラブ」

>♪あなたのセーター 袖口つまんで うつむくだけなんて♪




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