イエスの慰めの物語 (遠藤周作『イエスの生涯』(新潮文庫 1982)より)
聖書のなかにはあまたイエスと見棄てられたこれらの人間との物語が出てくる。形式は二つあって, 一つはイエスが彼らの病気を奇蹟によって治されたという所謂(いわゆる)「奇蹟物語」であり, もう一つは奇蹟を行うというよりは彼らのみじめな苦しみを分かちあわれた「慰めの物語」である。 だが,聖書のこの二種類の話のうち,「慰めの物語」のほうが「奇蹟物語」よりはるかにリアリティを持っているのはなぜだろう。「奇蹟物語」よりも「慰めの物語」のほうがはるかにイエスの姿が生き生きと描かれ,その状況が眼に見えるようなのはなぜだろう。 たとえばルカ七章三十六節にこういう話がある。
「パリサイ派の人,イエスを食事に招きしが,イエスその家に入りて食卓につき給いし時,町に住む罪を犯せし一人の女(娼婦のこと)香油盛りたる器をもち来たり, ……泪(なみだ)にてその御足を次第にぬらし」
その一節を読むだけで,我々はそこに描かれていないさまざまな状況をまぶたに浮かべることができる。 おそらくこの話に出てくる娼婦はマグダラか,その付近に住む貧しい娘だったのだろう。生きるために彼女はさまざまな男に体を与え,男たちはその体を弄(もてあそ)んだくせに彼女を蔑(さげす)みながら金を与えたのであろう。男と横になっている時,彼女は闇の中に空虚(うつろ)な眼をじっと見ひらいて身じろがなかっただろう。
イエスのことを彼女は誰に聞いたのだろうか。どうして彼女は彼をたずねようと思ったのだろうか。ひょっとすると,ある夜,自分を買った男から耳にしたのかもしれぬ。湖畔にじっと腰かけている疲れたような彼の姿を遠くから見たのかもしれぬ。 彼女はイエスがどんな人かは知らなかったにちがいない。ただその姿から言いようのない「やさしさ」を見ぬいたのだろう。自分の惨めさにも自分にたいする蔑みにもあまりに馴れていた彼女は, どんな人が本当の心のやさしさを持っているか本能的に感じたのだ。
イエスが食事をしている家がパリサイ派の男の家であったため,彼女はおそらくその中に入る時, 下男たちから遮(さえぎ)られたであろう。パリサイ派の人たちには娼婦などは話しかけることも 避けねばならぬ賤しい,恥ずべき女だった。旧約の世界では彼女たちはしばしば預言者たちの呪いの対象となっている。だから下男たちの制止をふりきって彼女は広間に入り,食卓から驚いたようにふりむいた人々の視線を浴びながら, イエスの前まで一直線に歩いていったにちがいないのだ。
彼女は何も言わなかった。何も言わずイエスを見つめただけだった。やがてその眼から泪が溢(あふ)れでた。その泪だけで今日までの自分の哀しみを訴えた。「泪にてその御足をぬらし」という簡潔な表現がこのときの彼女の惨めさと苦しさとをはっきりと私たちに伝えてくれる。
その泪でイエスはすべてを知られた。この女がどんなに半生,人々から蔑まれ,自分で自分の惨めさを噛みしめたかも理解された。その泪で充分だった。神がこの女を悦んで迎え入れるには,それで充分だった。 「もう,それでいい。わたしは……あなたの哀しみを知っている」 とイエスは彼女にやさしく答えた。彼がこの時,つぶやかれた言葉は聖書のなかでも最も美しいものの一つである。「この女は多く愛したのだ 」 そして,イエスは次のように言った。 多く愛するものは 多く許さるる…… この「慰めの物語」には数多くのイエス奇跡物語よりも,はるかに生き生きとわれわれに訴えるものがある。「泪、次第にその足をぬらし」という女の悲しみの表現と「多く愛する者は多く許さるる」と女をゆるすイエスの静かな声とにはわれわれを感動させずにはおかぬ響きがある。
もう一つ,別の「慰めの物語」を例にとろう。マルコや,ルカやマタイがそれぞれ記述している。 長血を患う女の話である。
「ここに十二年,血漏を患える女ありて,あまたの医師にかかりて様々に苦しめられ,持てる物を 悉(ことごと)く費やしたれど何の効(かい)もなく,却って益々,悪しかりしにイエスのことを 聞きしかば,雑踏のうちより後ろに来たりて,その衣服に触れたり。……イエス,たれかわが衣服 を触れしぞと言い給いければ,……」( マルコ,五の二十五)
これもガリラヤ湖畔のひとつの村で起こった出来事である。長血という不治の病にかかった女が その苦しさのあまり,イエスを見るために集まった群衆のかげにかくれ,その衣服におずおずと指を触れてみる。女にとっては藁をもつかむ気持ちだったのだろう。 おずおずと触れた指でイエスは彼女の今日までの苦しさをすべて,その藁をもつかみたい気持ち を感じとる。 「誰かが,私の服に触れた」 と彼は弟子をふりかえる。弟子たちは笑いながら答えた。 「これだけ,おびただしい人がいるのです。ぶつかるのも仕方がありますまい」 「いや,そうではない」イエスは首をふられた。「 誰かが私の衣服にふれたのだ」 そして自分を見つめている多くの顔のなかから彼は怯えた女の表情を発見する。
この物語はイエスが彼女の病を治すという奇蹟物語が混じてはいるが,私たちの心を動かすのは 彼女の病気がイエスの奇蹟で治されたという結末よりも,おずおずと衣服に触れたその女の指一本 から彼女の切ない苦しみのすべてを感じとったイエスである。たくさんの人々の蔭からそっと差しだされた女の指,衣にかすかにふれただけでイエスはふりむく。彼は彼女の苦しみのすべてがわかったのだ。我々にはその時の女の怯えた顔もイエスの辛そうな表情も,このおずおずとした指一本 からはっきり想像できるのだ。
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この文章は文庫本 P.55。篤志家である倫理社会の先生がupload→してくれたものです。感謝。(イエスの慰めの物語 で Ctrl+F)
さて、後半の長血の女の話ですが、日本基督教団の注解書にこうありました。
>「娘よ」 (Matt: 9:22、Mark: 5:34、Luke: 8:48)。これは皮肉ではない。
>彼女は、この時、失われた時を超えて、娘であった。
わたしの引用歌。↓
歌「はぐれそうな天使」 岡村孝子 →
>あの人
〜
>夢は いくつも飛び超えたのに
>まるで 少女のときめきほどに はがゆい気分で (歌詞→)
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>おずおずと触れた指 →「中森明菜 - セカンド.ラブ」→
>♪あなたのセーター 袖口つまんで うつむくだけなんて♪
【お笑いコーナー】No.1
歌「あばよ」→(中島みゆき)歌詞→
>明日も今日も 留守なんて、 見えすく手口使われるほど ←【神の沈黙】
〜
>笑って 「あばよ」(ABBAよ!) → アラム語で「お父ちゃん」。
【お笑いコーナー】No.2
コーヒー・ルンバ (→これは渡辺真知子版。表現力がすばらしい。)
え〜と、「お坊さん」はサンガですねよ。→ →(in 法楽寺)
>昔 アラブの偉い「お坊さんが」(=「お坊さん」はサンガ) 歌詞→
【お笑いコーナー】No.3
ヨハネ福音書 3:16
>神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
>それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
おニャン子クラブ - Wiki→ 「かたつむりサンバ 」→(YouTube)
>愛するために 愛するために この世の中 生まれてきた
遠藤周作-Wiki→
遠藤周作文学館 | 長崎市東出津町 →
『沈黙 SILENCE』(1971年 篠田正浩 監督)2:16:16 →(YouTube)
小説「沈黙」の旅 〜遠藤周作と長崎〜
FNS九州8局同時放送 2017年1月28日(土) 午後4時 →
こころの時代 「母なる神への旅〜遠藤周作“沈黙”から50年〜」 →
Trailer - Letters to Father Jacob → // Postia pappi Jaakobille // Cartas al padre Jacob Trailer VOSE
『沈黙』-Wiki→
遠藤周作の『沈黙』について→
遠藤周作「沈黙」に託されたもの→
隠れキリシタン→
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