第2節 女性の生き方(422)

1.
世の中には四通りの婦人がある。第一種の婦人は、ささいなことにも腹立ちやすく、気まぐれで、欲深く、他人の 幸福を見てはそねみ、施すことを知らない。
 第二種の婦人は、腹立ちやすく、気まぐれで、欲深いが、他人の幸福をうらやみねたむことがなく、また施すことを知っている。
 第三種の婦人は、心広く、みだりに腹を立てない。また、気まぐれでもなく、欲を抑えることを知ってはいるが、しかし他人をうらやみ、ねたむ心が取れず、また施すことを知らない。
 第四種の婦人は、心広く、腹を立てることがなく、欲を抑えて落着きがあり、そして他人をうらやまず、また施すことを知っている。


2.娘が嫁入るときには、次の心がけを忘れてはならない。夫の両親に敬い仕えなければならない。夫の両親は、わたしども二人の利益を計[はか]り、なさけ深く守って下さる方であるから、感謝して仕え、いつでもお役に立つようでありたい。
 夫の師は夫に尊い教えを授けてくださるから、自分もまた大切に尊び敬ってゆこう。人として心の師を持たずには生きられないからである。
 夫の仕事に理解を持ってそれを助けてゆくように、自分も教養に心がけよう。夫の仕事を他人の仕事のように考えてそれに無責任であってはならない。
 夫の家の使用人や出入りの人たちについても、よくその気立てや能力や食べ物の好みなどを心得て、親切に面倒を見てゆこう。また夫の収入は大切にたくわえ、決して自分のためにむだ遣いしないように心がけよう。


3.夫婦の道は、ただ都合によって一緒になったのではなく、また肉体が一つ所に住むだけで果たされるものでもない。夫婦はともに、一つの教えによって心を養うようにしなければならない。
 かつて夫婦の鏡とほめたたえられたある老夫婦は、世尊のところに赴いて、こう言った。「世尊よ、わたしどもは幼少のときから互いに知りあい、夫婦になったが、いままで心のどのすみにも、貞操のくもりを宿したことはない。
この世において、このように夫婦として一生を過ごしたように、後の世にも、夫婦として相まみえるととができるように教えて戴きたい。」
 世尊は答えられた。「二人ともに信仰を同じくするがよい。一つの教えを受けて、同じように心を養い、同じように施しをし、智慧[ちえ]を同じくすれば、後の世にもまた、同じく一つの心で生きることができるであろう。」


4.アナータピンダダ(給孤独[ぎつこどく])長者の長子に嫁いだスジ ャーター(玉耶[ぎょくや]女)は、驕慢[きょうまん]であって他を敬うことを知らず、父母や夫の命に従わず、いつも一家の波風を起こすもととなっていた。
 ある日、長者の家に入ってこの有様を見た釈尊は、その若い妻のスジャーターを呼んでこう教えた。
 スジャーターよ、世には七種の妻がある。
 第一は、人を殺すような妻で、汚れた心を持ち、夫に対して敬愛の思いがなく、はては他の男に心を移す妻である。
 第二は、盗人のような妻で、夫の仕事に理解を持たず、自分の虚栄を満たすことだけを考え、口腹[こうふく]の欲のために、夫の収入を浪費し、夫のものを盗む妻である。
 第三は、主人のような妻で、家政のことをかえりみず、自分は怠惰[たいだ]であって口腹の欲にだけ走り、常に荒々しいことばで、夫を叱咤[しった]している妻である。
 第四は、母のような妻で、夫に対して細やかな愛をいだき、母が子に対するように夫を守り、夫の収入を大切にする妻である。
 第五は、妹のような妻で、夫に仕えて誠を尽くし、姉妹に対するような情愛と、慚愧[ざんき]の心をもって夫に仕える妻である。
 第六は、友人のような妻で、常に夫を見て喜ぶことは、ちょうど久しぶりに会った友に対するようであり、行いは正しくしとやかに、夫を敬う妻である。
 第七は、奉仕するような妻で、よく夫に仕え、夫を敬い、夫のどんな行いをもよく忍び、怒りも恨みも抱[いだ]かず、常に夫を大切に生かしてゆこうと努める妻である。
 「スジャーターよ、おまえはこのうち、どの類[たぐい]の妻となろうとするのか。」
 この教えを聞いたスジャーターは、大いにわが身を恥じて懺悔[さんげ]し、これから後は奉仕するような妻となって夫を助け、ともに道を修めてゆこうと誓った。


5.アームラパーリーは、ヴァイシャーリーにいる名高い美女であった。あるとき、彼女はよい教えを聞こうとしてを訪れた。
 釈尊はアームラパーリーにこう教えられた。
 「アームラパーリーよ、女性は心の乱れやすいもの、行いの間違いやすいものである。欲が深いから、惜しむ心ねたむ心が強く、障害の多いものといわなければならない。
 だから、女は男に比べて、道に進むことが困難である。まして年若くて容色の美しい者はなおさらである。財と色との誘惑にうち勝って、道に進まなければならない。

 アームラパーリーよ、女にとって強い誘惑である財と色は、決して永久の宝ではない。たださとりの道だけが、永久[とわ]にこわれない宝である。
強い者も病に犯され、若い者も老いに破れ、生は死に脅[おびや]かされる。また愛する者と離れて、恨みある人と一緒にいなければならないこともあり、そして求めることも、とかく思うようにならない。これが世のならわしである。
 だから、この中にあっておまえの守りとなるものには、たださとりの道がある。急いでこれを求めなければならない。」
 この教えを聞いた彼女は、仏弟子となり、教団に美しい庭園を寄進した。


6.さとりの道においては、男と女の区別はない。女も道を求める心を起こせば、
 「さとりを求める者」といわれる。
 プラセーナジット(波斯匿[はしのく])王の王女、アヨーディヤー国王の妃[きさき]、マッリカー(勝鬘[しょうまん])夫人[ぶにん]は、このさとりを求める者であって、深く世尊の教えに帰依し、世尊の前において、次の十の誓いを立てた。

 「世尊よ、わたしは、今からさとりに至るまで、(1)受けた戒を犯しません。(2)目上の方々を侮[あなど]りません。(3)あらゆる人びとに怒りを起こしません。(4)人の姿や形、持ち物に、ねたみ心を起こしません。
(5)心の上にも、物の上にも、もの惜しみする心を起こしません。(6)自分のために財物をたくわえず、受けたものはみな貧しい人びとに与えて、幸せにしてあげます。
(7)施しや、優しいことばや、他人に利益を与える行いや、他人の身になって考えてあげることをしても、それを自分のためにせず、汚れなく、あくことなく、さまたげのない心で、すべての人びとをおさめとります。
(8)もし孤独のものや、牢[ろう]獄につながれている者、または病に悩む者など、さまざまな苦しみにある人びとを見たならば、すぐに彼らを安らかにしてあげるために、道理を説き聞かせ、その苦しみを救ってあげます。
(9)もし生きものを捕らえ、または飼い、あるいはさまざまな戒を犯す人を見たならば、わたしの力の続く限り、懲[こ]らすべきは懲[こ]らし、諭すべきものは諭して、それらの悪い行いをやめさせます。
(10)正しい教えを得ることを忘れません。正しい教えを忘れる者は、すべてにゆきわたるまことの教えから離れて、さとりの岸にゆくことができません。

 わたしはまた、この不幸な人びとを哀れみ救うために、さらに三つの願いを立てます。
(1)わたしはこのまことの願いをもって、あらゆる人びとを安らかにしてあげます。そして、その善根[ぜんごん]によって、どんな生を受けても、そこに正しい教えの智慧[ちえ]を得るでありましょう。
(2)正しい教えの智慧を得たうえは、あくことなく、人びとに説いて聞かせます。
(3)得たところの正しい教えは、身[からだ]と命と財産を投げ捨てて、必ず守ります。

 家庭の真の意義は、相たずさえて道に進むところにある。婦人といえども、この道に進む心を起こして、このマッリカー夫人のように大きな願いを持つならば、まことに、すぐれた仏の弟子となるであろう。

当ページの典拠改題「夫婦の生き方」「飽(あ)くことなく」「相携(たずさ)えて」
  1.パーリ、増支部4-197
  2.パーリ、増支部5-33
  3.ビルマ仏伝
  4.パーリ、増支部7-59、玉耶経
  5.長阿含経第2・遊行経
  6.勝鬘経