THE BROTHERHOOD  なかま


第1章 人のつとめ

第1節 出家の生活(411)

1.
わたしの弟子になろうとするものは家を捨て世間を捨て財を捨てなければならない。教えのためにこれらすべてを捨てたものはわたしの相続者であり、出家とよばれる。

 たとえ、わたしの衣の裾
[すそ]をとって後ろに従い、わたしの足跡を踏んでいても、欲に心が乱れているならば、その人はわたしから遠い。たとえ、姿は出家であっても、彼は教えを見ていない。教えを見ない者はわたしを見ないからである。
 たとえ、わたしから離れること何千里であっても、心が正しく静かであり、欲を離れているなら、彼はわたしのすぐそばにいる。なぜかというと、彼は教えを見ており、教えを見るものはわたしを見るからである。


2.出家の弟子は次の四つの条件を生活の基礎としなければならない。

 一つには古布をつづり合わせた衣を用いなければならない。二つには托鉢
[たくはつ]によって食を得なければならない。三つには木の下、石の上を住みかとしなければならない。四つには腐尿薬[ふにょうやく]のみを薬として用いなければならない。

 食物を入れる容器を手にして戸ごとに食を乞
[こ]うのは乞食[こつじき]の行ではあるが、それは他人に脅[おびや]かされたためでもなく、他人に誘われ欺かれたためでもない。ただこの世のあらゆる苦しみを免れ、迷いを離れる道がここで教えられることを信じてなったのである。

 このように出家していながら、しかも欲を離れず、瞋
[いか]りに心を乱され、五官を守ることができないとしたら、まことにふがいないことである。


3.自ら出家であると信じ、人に問われてもわたしは出家であると答える者は、次のように言うことができるに違いない。
 「わたしは出家としてしなければならないことは必ず守る。この出家のまことをもって、わたしに施しをする人に、大きな幸いを得させ、同時に、わたし自身の出家した目的を果たすようにしよう。」と。

 さて、出家のしなければならないこととは何であるか。慚
[ざん]と愧[ぎ]をそなえ、身と口と意[こころ]による三つの行為と生活を清め、よく五官の戸口を守って、享楽に心を奪われない。また、自分をたたえて他人をそしるということをせず、怠けて眠りにふけることがない。

 夕方には静坐
[せいざ]や歩行をし、夜半には右わきを下に、足と足とを重ね、起きるときのことをよく考えて静かに眠り、明け方にはまた静坐したり歩行したりする。

 また日常生活においてもつねに正しい心でなければならない。静かなところを選んで座を占め、身と心とをまっすぐにし、貪
[むさぼ]り、瞋[いか]り、愚かさ、眠け、心の浮わつき、悔い、疑いを離れて心を清めなければならない。

 このように心を統一して、すぐれた智慧
[ちえ]を起こし、煩悩[ぼんのう]を断ち切って、ひたすらさとりに向かうのである。


4.もし出家の身でありながら、貪りを捨てず、瞋りを離れず、怨
[うら]み、そねみ、うぬぼれ、たぶらかし、といった過ちを覆い隠すことをやめないなら、ちょうど両刃[もろば]の剣を衣に包んでいるようなものである。
 衣を着ているから出家なのではなく、托鉢
[たくはつ]しているから出家なのではなく、経を誦[よ]んでいるから出家なのではなく、外形がただ出家であるのみ、ただそれだけのことである。
 形がととのっても、煩悩をなくすことはできない。赤子に衣を着けさせても出家とよぶことはできない。

 心を正しく統一し、智慧を明らかにし、煩悩をなくして、ひたすらさとりに向かう出家本来の道を歩く者でなければ、まことの出家とはよばれない。
 たとえ血は涸
[か]れ、骨は砕けても、努力を加え、至るべきところへ至らなければならないと決心し、努め励んだならば、ついには出家の目的を果たして、清らかな行いを成しとげることができる。


5.出家の道は、また、教えを伝えることである。すべての人びとに教えを説き、眠っている人の目を覚まさせ、邪見
[じゃけん]な人の心を正しくし、身命[しんみょう]を惜しまず、広く教えをしかなければならない。
 しかし、この教えを説くということは容易でないから、教えを説くことを志す者は、みなの衣を着、仏の座に坐り、仏の室に入って説かなければならない。

 仏の衣を着るとは柔和
[にゅうわ]であって忍ぶ心を持つことである。仏の座に坐るとは、すべてのものを[くう]と見て、執着を持たないことである。仏の室に入るとは、すべての人に対して大慈悲の心を抱くことである。


6.またこの教えを説こうと思う者は、次の四つのことに心をとどめなければならない。第一にはその身の行いについて、第二にはそのことばについて、第三にはその願いについて、第四にはその大悲についてである。

 第一に、教えを説く者は、忍耐の大地に住し、柔和
[にゅうわ]であって荒々しくなく、すべては[くう]であって善悪のはからいを起こすべきものでもなく、また執着すべきものでもないと考え、ここに心のすわりを置いて、身の行いを柔らかにしなければならない。

 第二には、さまざまな境遇の相手に心をくばって、権勢ある者や邪悪な生活をする者に近づかないようにし、また異性に親しまない。静かなところにあって心を修め、すべては因縁によって起こる道理を考えてこれを心のすわりとし、他人を侮
[あなど]らず、軽んぜず、他人の過ちを説かないようにしなければならない。

 第三には、自分の心を安らかに保ち、仏に向かつては慈父の思いをなし、道を修める人に対しては師の思いをなし、すべての人びとに対しては大悲の思いを起とし、平等に教えを説かなければならない。

 第四には、仏と同様に慈悲の心を最大に発揮し、道を求めることを知らない人びとには、必ず教えを聞くことができるようになってほしいと心に願い、その願いに従って努力しなければならない。



当ページの典拠
  1.パーリ、本事経100・中部1-3、法嗣経
  1.パーリ、本事経92
  2.パーリ、律蔵大品1-30
  3.パーリ、中部4-39、馬邑大経
  4.パーリ、中部4-40、馬邑小経
  5.法華経第10、法師品
  5.法華経第10、法師品
  6.法華経第14、安楽行品