THE WAY OF PRACTICE はげみ


第1章 さとりへの道

第1節 心を清める(311)

1.
人には、迷いと苦しみのもとである煩悩[ぼんのう]がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。

 第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。
 見方を誤るから、我[が]という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。

 第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。

 第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥[しゅうち]を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためにあると考える。この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。

 第四には、何ごとも耐え忍ぶことである。暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗[そし]りを受けても耐え忍ぶことによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。

 第五には、危険から遠ざかることである。賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。


2.世には五つの欲がある。 眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。
 多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。これはちょうど、森の鹿[しか]が猟師のわなにかかって捕らえられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩[ぼんのう]を起こし、苦しみを生む。だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。


3.その方法は一つではない。例えば、蛇[へび]と鰐[わに]と鳥と犬と狐[きつね]と猿[さる]と、その習性を別にする六種の生きものを捕らえて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。
 このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその住みかに帰ろうとする。蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。このためにお互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられていく。

 ちょうどこのたとえのように、人びとは眼に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意[こころ]に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。
 またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。
 これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。もし心が制御[せいぎょ]されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。


4.人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。それはちょうど香[こう]が薫りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪[むさぼ]って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。

 名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃[やいば]に塗られた蜜[みつ]をなめるようなものである。甘さを味わって いるうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。
 愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげで風に逆らいゆくようなものである。手を焼き、身を焼くのは当然である。

 貪[むさぼ]りと瞋[いか]りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。自分の心をほしいままにしてはならない。心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。


5.さとりを得ようと思うものは、欲の火を去らなければならない。干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。
 美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。心が主[あるじ]であるから、よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。

 道を求めて進んでゆくことは苦しい。しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。その苦しみには限りがない。
 道を求めてゆくことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、泥をはなれてはじめて一息つくのと同じでなければならない。欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、泥を離れて苦しみはうせるであろう。


6.道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って、教えの光を身に加えなければならない。どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。
 身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。

 宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧[ちえ]は静かな清い心から生まれる。広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。
 貪[むさぼ]りと瞋[いか]りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福を得る人である。


7.人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。貪りを思えば貪りの心が起こる。瞋りを思えば瞋りの心が強くなる。愚かなことを思えば愚かな心が多くなる。
 牛を飼う人は、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、または殺されたりすることを防ぐのである。
 人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。貪りと瞋りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋らず、損なわない心を育てなければならない。

 牛を飼う人は、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。
 人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。


8.釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨[うら]みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢[たくはつ]しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。
 そのときアーナンダは釈尊にこう言った。「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います。」「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか。」
 「世尊よ、また他の町へ移ります。」
 「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ。は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう。」



当ページの典拠
   1.パーリ、中部2、一切漏経(菩提樹文庫) (Yusan)
   2.パーリ、中部3-26、聖求経(Yusan)
   3.パーリ、相応部35-206
   4〜6.四十二章経● 【英訳(まずここ)】[全訳][英訳] [中国語] 飛不動尊(目次) 1-7 8-42
   7.パーリ、中部19、雙考経 英訳
   8.パーリ、法句経註