第4節 かたよらない道(224)

1.道を修めるものとして、避けなければならない二つの偏[かたよ]った生活がある。その一は、欲に負けて、欲にふける卑しい生活であり、その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。
 この二つの偏った生活を離れて、心眼を開き、智慧[ちえ]を進め、さとりに導く中道の生活がある。

 この中道の生活とは何であるか。正しい見方、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一、この八つの正しい道である。
 すべてのものは縁によって生滅するものであるから、有と無とを離れている。愚かな者は、あるいは有と見、あるいは無と見るが、正しい智慧の見るところは、有と無とを離れている。これが中道の正しい見方である。


2.一本の材木が、大きな河を流れているとする。その材木が、右左の岸に近づかず、中流にも沈まず、陸[おか]にも上[のぼ]らず、人にも取られず、渦[うず]にも巻き込まれず、内から腐ることもなければ、その材木はついに海に流れ入るであろう。
 この材木のたとえのように、内にも外にもとらわれず、有にも無にもとらわれず、正にも邪にもとらわれず、迷いを離れ、さとりにこだわらず、中流に身をまかせるのが、道を修めるものの中道の見方、中道の生活である。

 道を修める生活にとって大事なことは、両極端にとらわれず、常に中道を歩むことである。
 すべてのものは、生ずることもなく、滅することもなく、きまった性質のないものと知ってとらわれず、自分の行っている善にもとらわれず、すべてのものに縛られてはならない。

 とらわれないとは握りしめないこと、執着しないことである。道を修める者は、死を恐れず、また、生をも願わない。この見方、あの見方と、どのような見方のあとをも追わないのである。
人が執着の心を起こすとき、たちまち、迷いの生活が始まる。だから、さとりへの道を歩むものは、握りしめず、取らず、とどまらないのが、とらわれのない生活である。


3.さとりにはきまった形やものがないから、さとることはあるがさとられるものはない。
 迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いはない。
 だから、さとりのあるのはなお障[さまた]げとなる。闇[やみ]があるから照らすということがあり、闇がなくなれば照らすということ もなくなる。照らすことと照らされるものと、ともになくなってしまうのである。

 まことに、道を修めるものは、さとってさとりにとどまらない。さとりのあるのはなお迷いだからである。
 この境地に至れば、すべては、迷いのままにさとりであり、 闇のままに光である。すべての煩悩[ぼんのう]がそのままさとりであるところまで、さとりきらなければならない。


4.ものが平等であって差別のないことを[くう]という。ものそれ自体の本質は、実体がなく、生ずることも、滅することもなく、それはことばでいい表わすことができないから、空というのである。
 すべてのものは互いに関係して成り立ち、互いによりあって存在するものであり、ひとりで成り立つものではない。

 ちょうど、光と影、長さと短かさ、白と黒のようなもので、 ものそれ自体の本質が、ただひとりであり得るものではないから無自性[むじしょう]という。
 また、迷いのほかにさとりがなく、さとりのほかに迷いがない。これら二つは、互いに相違するものではないから、ものには二つの相反した姿があるのではない。


5.人はいつも、ものの生ずることと、滅することとを見るのであるが、ものにはもともと生ずることがないのであるから、滅することもない。
 このものの真実の姿を見る眼を得て、ものに生滅の二つのないことを知り別のものではないという真理をさとるのである。
 人は我[が]があると思うから、わがものに執着する。しかし、もともと、我がないのであるから、わがもののあるはずがない。我とわがもののないことを知って、別のものではないという真理をさとるのである。

 人は清らかさと汚れとがあると思って、この二つにこだわる。しかし、ものにはもともと、清らかさもなければ汚れもなく、清らかさも汚れも、ともに人が心のはからいの上に作ったものにすぎない。
 人は善と悪とを、もともと別なものと思い、善悪にこだわっている。しかし、単なる善もなく、単なる悪もない。さとりの道に入った人はこの善悪はもともと別ではないと知って、その真理をさとるのである。

 人は不幸を恐れて幸福を望む。しかし、真実の智慧[ちえ]をもってこの二つをながめると、不幸の状態がそのままに、幸福となることがわかる。それだから、不幸がそのままに幸福であるとさとって、心身にまとわりついて自由を束縛する迷いも真実の自由も特別にはないと知って、こうして、人はその真理をさとるのである。

 だから、有と無といい、迷いとさとりといい、実と不実といい、正と邪といっても、実は相反した二つのものがあるのではなく、まことの姿においては、言うことも示すことも、 識[し]ることもできない。このことばやはからいを離れることが必要である。人がこのようなことばやはからいを離れたとき、真実の空[くう]をさとることができる。


6.例えば、蓮華[れんげ]が清らかな高原や陸地に生えず、かえって汚い泥[どろ]の中に咲くように、迷いを離れてさとりがあるのではなく、誤った見方や迷いからの種が生まれる。
 あらゆる危険をおかして海の底に降りなければ、価[あたい]も知れないほどにすばらしい宝は得られないように、迷いの泥海[どろうみ]の中に入らなければ、さとりの宝を得ることはできない。山のように大きな、我[が]への執着を持つ者であって、はじめて道を求める心も起こし、さとりもついに生ずるであろう。

 だから、昔、仙[せん]人が刃[やいば]の山に登っても傷つかず、自分の身を大火の中に投げ入れても焼け死なず、すがすがしさを覚えたというように、道を求める心があれば、名誉利欲の刃の山や、憎しみの大火の中にも、さとりの涼しい風が吹き渡ることであろう。


7.仏の教えは、相反する二つを離れて、それらが別のものではないという真理をさとるのである。もしも、相反する二つの中の一つを取って執着すれば、たとえ、それが善であっても、正であっても、誤ったものになる。

 もしも、人がすべてのものはうつり変わるという考えにとらわれるならば、これも間違った考えにおちいるものであり、 また、もしも、すべてのものは変わらないという考えにとらわれるならば、これももとより間違った考えなのである。もしまた人が我[が]があると執着すれば、それは誤った考えで、常に苦しみを離れることができない。もしも我がないと執着するならば、それも間違った考えで、道を修めても効果がない。.

 また、すべてのものはただ苦しみであるととらわれれば、これも間違った考えであり、また、すべてのものはただ楽しみだけであるといえば、これも間違った考えである。仏の教えは中道であって、これらの二つの偏[かたよ]りから離れている。


当ページの典拠
    1.パ−リ、律蔵大品第1-6、転法輪経
    1.楞伽経
    2.雑阿含経43
    2.楞伽経等
    2.パーリ、中部2-18、蜜丸経
    3.楞伽経
    4.楞伽経
    5.維摩経、入不二品
    6.華厳経第34、入法界品
    7.楞伽経等
つばめ堂通信